O・K、パ・ド・ドゥ



日がとっぷりと暮れた時間。マニャン精肉店の客の入りは、いつも通りだった。
この店に警察署の人間以外が出入りことがあるのだろうか、と思ってしまう。
こちらの顔を見るなり、「案外早かったじゃない。」とオ・ジファチーム長が言った。
「よ、ハン・ジュウォン警部補殿。ちゃんと食べてるか?」
お子さんを膝に乗せて人参のナムルを食べさせているカン・ドスさんが言った。
隙を見て、彼の膝から暴れて逃げようとしているようにも見えるが、僕からすると本気には見えない。
食べ物を咀嚼しているので手一杯のオ・ジフンさんがこちらに気付いて片手を上げた。
彼はいつ見ても、小さな子どもより子どもに見える、と言ったら言い過ぎだろうか。
「お久しぶりです、皆さん。……ドンシクさんも。」
この場では一番の年上のくせに、入口を背に、ポケットからこそこそと財布を出そうとしている様子の元パートナーを見つめる。
「やあ、……ジュウォナ。」と彼は振り返った。
ドンシクさん、どうしてそんなにバツが悪そうな顔をしているんですか。
財布から出そうとしていた一万ウォン札を札入れにそっと戻しているのはなぜか、聞いていいですか?


「宴もたけなわ、アジョシの奢りで肉を追加ですね!」
乾杯が終わり、美しくスライスされた韓牛の並ぶ皿を両手に載せた店主が、笑顔でやって来た。
謎は解けた。というか、特に謎という訳でもなかった。
「ドンシクさん、賭け事はお嫌いだったはずでは?」
「……不法賭博じゃありませんよ。家族が増えたドスの家計に優しいようにロートルが身銭を切ってるだけの話です。」
「ハンジュウォン、よく来たね。」とオ・ジファチーム長が言った。「見な、正義よりいいものを載せてるよ。」
これは天秤でなくてただの平たい皿です、と言おうとしたが止めておいた。
現場で何かあったのかもしれない。
警察組織の中で仕事を遂行しようとすれば、日に数回、悪い時には一時間単位で、意に添わぬ判断を迫られることがある。退けられる案件ならば良し、そうでなければ、と考えながらコートを脱いでいると、先程の小さな子が僕のことを――正確には僕の胸筋の辺りをじっと見つめて、ママ、と言った。
彼の配偶者は、同業だったはずだ。通常であれば母親に親権が移るものだが、マニャンは横の連携が取れているし、本格的な再就職のあてもないイ・ドンシクさんも付いている。
「あの、失礼ですが、……離婚されたんですか?」と低声でドスさんに伺う。
「馬鹿、トイレだよ、トイレ! 後ろ見ろ!」という声に導かれて振り返ると「ハン警部補、お久しぶりです。」と記憶にあるよりはどこか頬がふっくらした女性が立っていた。ジュウォンが到着したタイミングでは全員がそれなりに酔っぱらっていたせいか、彼女抜きで乾杯をしていたようだ。
「イム・スニョさん?」
「どうぞ、ハン警部補も座ってください。」と言いながら彼女はドスさんの横に座る。
机と机の隙間にある椅子の上には黄緑色の子どものコートが置いてあって、誰かの席というよりは、ただの荷物置き場に見えたのだ。
もう一度乾杯されるなら、ドンシクさんの隣にどうぞ、と言いながら、ジフン氏はマッコリの瓶を片手に姉の隣の席からそっと離れる。
「そりゃあ、ハン警部補ならこの席でもいいでしょうよ。」というオ・ジファチーム長は、成人した弟の耳を引っ張る寸前の顔つきだ。その先は家でやってください、と言おうとしたら、カン・ドスさんに先を越された。
小さな子どもは、母親の方をちらちらと見つめては、いつまで、この気が利かない父親の膝に乗せられてるのだろう、という顔をしている。羨ましい限りだ。
「これ、なんですか?」
広くはないテーブルに肉の皿、その横に並んだ小鉢には、キムチの色とは対照的に地味な色の葉物野菜(というか茎だろうか)が盛り付けられていた。豆腐和えもある。
母がいた頃には、こうした常備菜が多く食卓に並んでいたような気がする。
母が亡くなってから、一時食卓に並んでいた常備菜は味が濃すぎて、父と僕の口には合わず、気が付いたら朝食はパンと牛乳と卵だけの食事が多くなっていて、父は僕の手を放し、韓国から遠く離れた国に留学させた。
「テレビ番組に出て来た山菜を食べたくて。ジェイに作って貰ったんだ。」とドンシクさんが言った。
「ドンシクアジョシの作ったものは、味が濃すぎで食べられたものじゃないですからね。」とジェイさんが言って、そうそう、とその場のほぼ全員が頷いた。
僕の知らない間にも、イ・ドンシクさんの人生は続いている。
平和に暮らしているならそれでいいじゃないか、と思い直して席につくと、明らかに僕のために(比較的)美しく盛り付けられたらしい皿の解説が始まった。
「セリ科のボウフウとカニの卵。こっちはヨモギの白和え。ヨモギは知ってますよね。これはシャクです。セリみたいな味がします。あと、ナズナとイカ。全部ナムルです。」とジェイさんが説明した。
「ボウフウとは?」と聞くと、ジェイさんがああ、と言わんばかりの顔をした。
「ボウフウは潰瘍とか頭痛、腹痛に効く生薬です。薬食同源、って聞いたことありますか?」
「ええ。」
なるほど、韓国独自の野草……もとい長年の食文化の食卓ということか。冷麺にあのキムチが美味しいんですよ、と言っていた部下の顔が過ぎる。
「どうやらタイミングを逸してしまったようですね。」と言うと、オ・ジファチーム長が顔色ひとつ変えない横で、ことの経緯を知っているらしい彼女の弟が、非常にバツの悪そうな顔をして、こちらを見つめている。
女傑である姉の下で成長が見られないようにも見えるが、これが彼自身の素の顔なのだろう。
守ってくれる人間がいれば、変わらずにいられる。
ふと、ここにはいない女性たちの、濃い化粧に彩られた眼差しが思い出された。
オ・ジフンさん、どうも、お久しぶりです、と言って暖かい茶を入れたグラスを彼のマッコリ入りのグラスに近づけると、彼はぎこちない笑みを浮かべた。
ジェイさんに向き直って、「こちらにあるものは、全部食べても?」と尋ねる。
「ああ、はい。皿数が多いですけど、このくらい食べられるでしょう? 苦手なもの、ありました?」
「食べてみないと分かりません。」
「ダメだったら僕が食べますよ。どうぞ。」とジフンさんが箸ごと自分の手前にあった白和えを差し出して来たので受け取った。どうやら、押し付けられてしまったようだ。
「俺はこいつの味付けが良かったと思います。」とシャクと呼ばれた薬草のナムルの皿を差し出した。
「まあ、ナムルはいつになっても食べられるもんで、肉こそ若いうちによく食べたらいいと思うけどね。」とドスさんが混ぜっ返しながら箸渡ししてきた肉を皿で受け取ると、ドンシクさんは、よしよし、と言わんばかりの顔つきで、こちらを笑って見ている。


ハンジュウォンは彼の友人になりたい。
(韓国《ここ》では年が違う人間同士は友人になれない。)
彼の膝に乗りたい子どもでもない。
(でも、彼の子どもに立候補したかった誰かさんを僕は知ってる。)
ドンシクさん、どなたかとデートされたんですか? そんな風に、彼に尋ねる権利もない。
(ただの元相棒だ。)


この食事を終えたら、今度僕と遊んでください、と言ってみようか。

こういう時には『デート』と言った方が、きっと彼には分かりやすいのだろうけど。

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