O・K、パ・ド・ドゥ


制服のポケットに入れていたスマートフォンが鳴って、ジュウォンにメールの着信を知らせた。
「よっ、そっちの警部補殿は本日も多忙ですねえ。」
さっきまでパソコンに向かって一本指打法で顛末書を打っていた隣の島の強力班の班長から声が掛かる。
顔を上げ、目が合うと、相手は、ジュウォンを見て、なんか文句あんのか、と言いたげな顔で眉をひそめ、この変人警部補、と捨て台詞を吐いてから机の上の冷めたコーヒーを啜り、自分の手元の書類に注意を戻した。
これが他所の部署の、しかも階級が上の人間に対する相手への態度だろうか、と思わないではないが、もう慣れた。
ジュウォン本人ですら、自分がこれまで歩いて来たエリートコースを降りて、泥臭い仕事を毎日こなせるようになったことや、白いシャツに付いた袖口の汚れを気にしなくなって来た自分に驚いているのだから。彼がかつてのジュウォンと似たような道を辿って上を目指しているとしたら、輝かしい職歴を擲って憚らない今のジュウォンの行動を理解出来ないのは是非もない。

警部補ハン・ジュウォンは多忙である。
この職場に着任して以降、気軽に相談を寄せて貰えるようにと電話番号を触れ回っていたこともあり、ジュウォンの携帯電話には今ではマニャンの派出所に着任する前には考えられないほどの、私的な、あるいは切実な訴えが日夜寄せられるようになった。
勿論こうしたジュウォンの活動は、彼が警察で長年積み重ねて来た「彼」の行動力へのリスペクトでもある。
僕が弱い人間であることは、人を助けない言い訳にはならない。マニャンを離れても、いや、離れたからこそ、ドンシクさんの志を継ぐのだ。猿真似と言われようと構うものか。
着任した当初はそんな風に意気込んでいたが、そもそも、この江原道にマニャンの巡査部長だったイ・ドンシクを知る者はほとんどいない。この江原道で単なる「変人」の烙印を押されてしまうまでに時間は掛からなかった。
「父親を裏切った親不孝な警部補」から、瞬く間に「損得勘定が出来ない馬鹿なら仕方がない」という評価が取って変わり、そうした不名誉な評判を否定することもないまま今に至ると言うわけだ。

人は変わる。
周囲には頼れる人間がいない、警察になんか頼りたくない。初対面のとき、ジュウォンの前でそんな風に言っていた人々の意識も、徐々に変わっていった。
あまりに忙しすぎたため、緊急の、あるいはそうでなくとも切迫した様子が伺える連絡だった場合、自分でこなすにしろ、部下に仕事としてバトンを渡すにしろ、一定の睡眠時間は必要だということを思い知らされる日々だった。
母の骨を埋めた樹に顔を見せに行く時間もなく――だからこそ、これまでの墓所を止めて景色の良い場所に移したのだが――私用のスマートフォンすら、液晶画面を備えたただの板になっていた時間の方が多かったほどだ。


そう。
ありとあらゆる情報源との私的交流及び情報収集ツール、あるいは外部記憶装置として、ジュウォンが日々あれだけ頼りにしていたスマートフォンは、今は番号を変えてマニャンで構築した親しい人間関係と、クォンヒョクを含めた、父の裁判に何らかの関わりのある数人が登録されているきりとなって、常時電源を入れることもなくなってしまっていた。
今日電源が入っていたのは、今月頭に、ヒョク兄から、たまには返事をしろ、と仕事で使っている携帯電話宛に直接メッセージが入っていたからだ。
万一自分が職務上の失策を冒して「何か」があった時のつなぎに自分から連絡できるよう、ジュウォンの兄貴分を自称する男の番号は登録してあったが、検事とは常に忙しいもので、父が控訴して数か月を経た後は、大いなる権力の持ち主としてしかるべき場所で辣腕を振るっているのか、仕事上でも私的にも連絡も途絶えていた。
ハン・ギファンの逮捕劇で、裏の功労者である検事として世に名を知らしめた後は用済みなのだろうと思っていた。それなのに、どこで調べたものか、あちらから連絡が入った。
訝しく思って、私用のスマートフォンの履歴を調べてみると、ドンシクさんやユ・ジェイさんからの、誘いかそうでないのか判別し難いが、こちらも忙しさにかこつけて放置していた連絡のいくつかをスクロールしたその下には見つからず、そこまで見てやっと、『ハン・ジュウォンさん、今すぐこのアプリを入れて、うちの店を友人登録してください。』と今後の食事代の割引を盾に脅さ……有無を言わさず登録を強制された無料メッセージツール、とは別の連絡先もまた、長らく放置していたことを思い出した。
自宅に置いている私用のパソコンのメールアカウントに入って来るメールである。
ユヨンさんの事件を暴くために行動していた頃に愛用していた自宅のパソコンは、事件が解決した今では、外部流出してはならない資料の一次保管場所も兼ねていたため、それらの門外不出のデータを有したまま取り扱い厳重注意が必要な危険物となり、データを全て消去した後も、万一のことを考えて、ネットワークから切断した上で、捨てられずに静置したまま、鍵のかかる場所に仕舞っていたのだった。
慌てず、騒がず、かつての愛機に電源を入れ、一時的にネットワークにつなぎ、フォルダ振り分け機能を駆使して迷惑メールの類を消去すると、イギリスに居た頃の知人から連絡が入っているきりだった。

白やぎさんからお手紙ついた。
黒やぎさんたら読まずに食べた。
日本の童謡を頭に浮かべながら、削除したばかりの迷惑メールをクォンヒョクのアドレスで検索すると、テキストが一通、秋夕の時期に入っていたのが分かった。
「ジュウォナ お前、ちゃんと食べているのか、マニャンの人々とは会っているか。たまには飲みに行こう。連絡をくれ。」
自らの持つ社会的権力を殊更に誇示することもないが、かといって、誕生日を迎えた弟分に祝いの言葉ひとつ掛けることもない。
ジュウォンの兄貴分を自称する男は、そうした祝い事を照れて口ごもるような人種ではない、仕事に忙殺されてこちらの誕生日などすっかり忘れているのか、憎い子には餅をもう一つあげるという諺を実践しているのか、あるいは、旧正月の後で青果店の実家から払い下げられた完熟メロンを持て余していたのかもしれなかった。
僕に対して、表だって手を出したり、生まれ年の後先を超越した上下関係を弁えない言葉を正面からぶつける代わりに、自分が言われたら耳に痛いような親からの戒めの言葉を、こちらの気持ちも考えずにそのまま僕に投げかけて来る。
あの人には、昔からそういうところがあった。


強力係の班長が窓際に置いた鉢植えの花が、萎れて落ちた。
ざわついた職場で、ハン警部補、と呼び声が聞こえた。
「待ってください。」
この着信履歴を確認して……。そう思った瞬間、どこかの課がテレビを付けたのか、新大統領の声が聞こえて来る。
ジュウォンの頭の隅で、今朝職場に向かう前に立ち寄ったコンビニに並んでいた新聞の見出しが浮かんでくる。国会議事堂の中央ホールで就任宣誓をするのは今日だったか。

――すべての国民に仕える皆の大統領に、

本来なら、改まって口にする必要もないような言葉に耳を傾けていた署員の中から、パラパラと拍手の音が聞こえて来た。
署員だけではない、万引きでしょっ引かれて来た累犯のイ某氏に、暴力沙汰を起こしたホテルのドアマン……それに、飲み過ぎで道路に寝ていたのを無理やり引っ張って来た男もいた。
いずれも決して思慮深いとは思えなかったその顔に、精いっぱいの生真面目さを浮かべて、テレビを眺めている。
しかも、彼らを付き従わせている署員も一緒になってだ。一昔前のハンジュウォンなら、皆仕事に戻ればいいのに、とため息をついていたはずだ。
今なら、号令をかけることだって出来る。(こんな風に特別な日だとしても、犯罪者は変わらず、どこかで罪を犯しているのだから。)

瑣末な書類仕事で足踏みをしている時間はないぞ、と口にする頃合いを見測らないながら、テレビの音声が聞こえる方角から視線を外して、スマートフォンの画面を見つめると、細い葉と白い茎のようなものを漬けたキムチの写真が見えた。
器を持っているのは、ジュウォンにも見覚えがある手だ。
尊敬するメンターである、元祖変人=イ・ドンシク。
写真には、キムチを取りに来ませんか、というメッセージが添えられていた。

「あっ、警部補、それヨルムキムチのお裾分けですか、いいですね?」
目ざとい部下が、横から顔を出してこちらの手元を覗いていた。
ヨルムというのは、ジュウォンが知る限り、大根と、大根葉がついたまま間引かれた大根を区別するための言葉だ。
大根?
訝しく思ってまじまじと写真を見ると、なるほど、間引き大根というのはつまり、根が細いうちに畑から抜かれたものだったのか、と気付く。
「こいつに、冷麺を合わせるのがいいんですよ、この時期。」
冷麺最高、夏ですねえ、奢ってください、という声が上がり、女性青少年課、仕事しろ、という怒鳴り声が隣の島から聞こえて来た。
頭が痛い。
「仕事に戻りましょう。」
「中座したのは警部補が先じゃないですか。誰なんです、この人。」
そもそも、こうした行為はプライバシーの侵害です、上司と部下の関係を逸脱する行為ですと百回言ってもこの悪癖は直らなかったので、二年目に方向転換し、話を短く切り上げることに脳のリソースを割くことにしている。
「以前の職場の先輩です。」
「マニャンの。いやあ、感心ですね。チーム長ともなれば多忙でしょうに。」
どうやら、やり取りの相手を、オ・ジファチーム長と混同しているようだ。
「いえ、一緒に仕事をしていた方の。」
元巡査部長です、と声を低める。
これで通じるはずだ。
「ああ、……ええ? その方、男性ですよね? わたしと同じ世代の。」
そうです。だから、「自作のキムチではなく、近所の方からいただいたものではないかと。」
知人の女性、と言いかけて、ユ・ジェイさんの顔が浮かんだ。あの人を年かさの女性に使う呼称で呼ぶにはまだ早いが、さりとて、ハンジュウォンの立場から、姉や妹と呼ぶほどの距離でもない。人生経験で言えば、正直ジュウォンより一枚も二枚も上手な人なのだ。
彼女がれっきとした精肉店の経営者である以上、精肉店の社長と言うのがおそらく一番正解に近いが、自分たちの関係を表すには改まりすぎていて、この場では、彼女を表す言葉として適切でないような気がした。
他人と親しく交わった経験のないジュウォンはいつも、こういうときに戸惑う。
「はあ。」と返す相手もまた、ジュウォンの戸惑いを映したかのような表情になった。

これまでの人生、ジュウォンが、人と恋愛関係になることはない、結婚も望みませんという本音を酒の席で口にすると、その大方は、曲解して受け取られる。
『長くイギリスに居たから、理想が高いのだろう。』
『結婚はいいものですよ。』
『これこそ、男が進むべき真っ当な道でしょう。まあ、出世を諦めたところで、どうせ、忙しすぎてほとんどロクに帰宅出来やしないんだから、警部補だって、マイホームパパになれないことに責任を感じるこたぁない。』
行儀よく、耳を傾けることまでは出来るが、どれもこれも、とんちんかんなファウルボールで、うんざりしていたのだ。
ユ・ジェイさんの存在をそのまま伝えるべきか、それとも……。

忘れずにマニャンにおいで、と言わんばかりにキムチを手にしたドンシクさんのメッセージの次に、「あんただけじゃなくて、あたしが食べる分も入ってるから。今月はちゃんと来るのよ。」とオ・ジファチーム長からの辛口のメッセージまでもが入って来た。
今月は?
どういうことだ、と慌ててメッセージツールをスクロールすると、彼女からの伝言は見当たらない。
当たりを付けて、ユ・ジェイ氏からの未読のメッセージを開いた。ご丁寧に、韓牛の割引チケット付きだ。
三番目に開いたメールには、焼肉を注文した十万ウォンごとに、アルバイトのイ・ドンシクとのデート券をプレゼントと書いてある。
「……。」
再就職が難しいなりに、忙しくやってます、と言っていたが、まさかこういうことだったとは。
社会復帰の訓練としてにわかのアルバイトをしているとも聞いた。
(それは――誰からだった?)
――彼の悪友である彼女から。

正直なところ、ただ顔を見て、話しがしたいだけで、デートがしたいわけではない。
あの人も、そんな僕のことを分かったような顔をして、当然のように隣に置いてくれるから、ドンシクさんの隣は息がしやすい。
ハン・ジュウォンはデートは出来ないが、イ・ドンシクさんは、デート「も」出来るひとだ。
思わぬところからの揺さぶりを掛けられ、動揺したことが伝わってしまったのか、島中の部下から、「ハン警部補、顔が面白いことになっていますよ。」と言われた。
「今月はどうやら、ハン・ジュウォンよ、人間に戻ろう月間ですね。」とこちらの顔つきが変わったことに気付いたらしい部下が言った。
「僕はずっと人間ですよ。……この顔を見て、『餅』と言われたことならありますが。」と言うと、相手は真顔のまま吹き出した。
「警部補からそんな冗談が聞けるなんて。」
僕だって、少し驚いてます。


携帯電話に新たな着信が入ったので、スマートフォンはひとまずポケットの中に入れる。
冷静に考えれば、僕とイ・ドンシクさんは、誰かと出掛けたんですか、と聞ける間柄ではない。
そんなことを聞いたところで、「羨ましいの? じゃあハン警部補もオレとデートしてくださいよ。」といつもの調子ではぐらかされるのが関の山だろう。
「今週は、キムチを取りに行く時間があると思いますか?」
彼のあの憎らしい顔が見られれば、もう少しは仕事のやる気も出るのだろうけど。
スマートフォンを胸元に仕舞い、代わりに取り出した着信が鳴る小さな機器を見つめながら独り言のように呟くと、その携帯電話が、ひょいと取り上げられた。
「今日は私が受けておきますよ。」
「そう言うわけには、」
「女性青少年課は、ひとりで三人分働く警部補のおかげで楽に回させていただいてますので、半日くらい休みを取っても差し支えないのでは?」なあ、と周りを見る部下に、課の全員が、デスクからジュウォンと部下のふたりの顔を眺めている。
異動したその月に、課内の共有ファイルの大改造を行い、ついでに各書類のフォーマットを新規に作成したせいもあり、女性青少年課の書類作成の効率はだいぶ上がったが、勤務時間自体は減らないままだ。
「警部補も、長いこと、こんなところで井戸を掘って来たんですから。」
井戸?
井戸とは?
「ハン警部補、半日が不満なら、一日休みでも構いませんよ。その代わり二十四時間経過したらここに戻って来てください。」
井戸を掘ったことはありません、と言いかけて、頭の中のヒョク兄が「こっちで暮らしていくつもりなら、諺や慣用句に慣れろ。英語が話せるからなんとかなると思っていたら、あの偉大なオヤジさんの掌の中からは出られないぞ。」と訳知り顔に言っていたことを思い出した。

「知ってますよ、仮眠室に薄くて軽い上等な毛布が置いてあること。あれ、まだ使ってないでしょう。どうです、少し仮眠して古巣に行って来たら。」
記憶の中の兄貴分と同じく訳知り顔になった部下が言った。自分も目の下のクマが目立っているうえに、それが化粧で隠せていない。
「……仮眠は車中でします。」
井戸掘りの夢を見そうだ。
「不在の間は、大きな事件がないように、わたしら全員で見張っておきますから。」
こんなとんとん拍子にことが進むなんて、何か夢でも見ているんだろうか、と思ったけれど、「休みの口添えは任せてください。」と、こちらの会話に聞き耳を立てていたらしい他の部下が口出しをしてきた。
昔のジュウォンなら、こんな風に言われた後は、相手にどんな下心があるのかと頭をひねっていたものだが、今は、そんな時間も惜しい。

休暇申請は後で出します、という間もなく、背中を押された。
「早くその人に会って来たらいいと思いますよ。」
「ハン警部補のことだ、被疑者とデートじゃないのか?」という声が上がった。
「うちの警部補は、そこまで朴念仁じゃありませんよ。」とフォローになるのかならないのか疑わしい言葉が、別の部下の口から発せられた。
惜しいですね、と返事をしそうになる。
デート、というか、どこかに出掛けたいのだ、彼と。
母のための樹木を見て貰ったように。
父の代わりを求めているわけではない、と思う。
……では母の代わりをして欲しいとでも?

――ハン警部補はまだ子供だね。
ハン・ジュウォンは、まだまだ現場ではひよっこ扱いされているし、実際ひよっこだ。
周りに甘えてもいい、誰かに甘えながら、誰かを助けられる人間になろう。勿論、法と原則を守りながらだ。
今はそう思っている。

「いい話を聞かせてください。」
「応援しています。」
何か誤解があるような気がしたが、そして、その誤解に今まさに尾ひれが付き始めたような気がするが、とりあえず今は、誤解をそのままにしておこうと思った。






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