鳥の子


【第四幕・quiet room】

ふと気が抜けて、緩やかな春風を纏った心地になった。あれらの日々は私の現実として煩悩の基礎になっていたにも関わらず、まるで苦しみが喉元を過ぎ去ったようだった。
安堵と共に僅かばかりの寂しさが掠める。私達の生き様は鈴灯となり、その生に残された足跡を照らせるだろうか。私達? 一体誰のことを──。
「しぃ……」
細く柔らかい指先が絡みつく。あれほど不健康だと言うのに、その体に残された肉が今も確実な造形を保っている。
怜は生きている。ベッドで体外の管に繋がれ、ぼんやりした意識のまま、私の隣で息をしている。
怜は死んでいる。その生産性のない生活を他者と同列に扱うことは出来ない。金にもならず、益にもならない、ただ心臓が動くだけのゾンビ。
じゃあ識は? あなたはどう?

呼び出されるのは決まって夜だ。昼間は人目があって動きにくいの。決まった速さで流れに乗り続ける群れに混ざるのは、わたしにとってとても辛いことだった。
苦しいのはどうして。悲しいのはどうして。高いところが怖いのは、尖った針の先端が怖いのはどうして。どうしていつも逃げ出すの。
老いることが怖いから未来を見たくなかった。この先が照らせないから未来を捨てた。死をもって意義を知らしめたかったから未来を消した。終わりって憧れるの。その時にあなたがどんな言葉をかけてくれるのか、ちゃんと悲しんでくれるのか、心からの哀悼を見れることをずっと楽しみにできるから。
だから君は飛ぼうとして羽をつがえて、意気地無しだから足を踏み出すことが出来ない。自らの行動で管を断ち切ってもなお繋がれることを拒まない。私から離れられない。
あの子たちが羨ましい。ちゃんと未来がない終わりを迎えられて。今もこうして語られることが彼らの未来だとは思わないか? 思いたくない。
あなたは全てに未来があるって信じてる。あの子たちにも、識《あなた》にも、わたしにも。でもわたしは目をつむっていたいから、やっぱり未来はないって決めつけたい。ここまでお話しが続いたのも、あなたが結局手を繋いでくれたから。本当はもう終《おしまい》なんてとっくの前に追いついてて、最後の時が、わたしたちの終着点が。まだだ。ほんとうに?
部屋の電気が点いて、わたしの目の前にはろうそくが一本だけ立ったケーキが用意されていた。これはあの時君が大切にしたばかりに壊してしまった、君だけの粘土細工《たからもの》だ。他の人では胸焼けしてしまいそうなほど生クリームたっぷりの、白くて甘い、歪な愛の形。或いは君の理想像。私はそれをもう一度、君の為に用意した。他でもない君に贈る祝福《讐復》の為に。これを食べてどうか、はやく死んでくれ。
わたしに死んでほしいと思っているあなたは、それでいてこんなにカロリーの高いものを食べさせる。お砂糖の摂りすぎで死んでほしいなんて、いつまでも甘いのね。管を抜き取って白地を破り捨てて私の灯りを消し去ってしまえば、きっとわたしはあっけなく死んじゃうのに。
本当は自分一人じゃ歩けない。羽がないから。体力が、気力が、意思がないから。はじめからないものをある風に謳って意気地なしなんて言わないで。せめてあなたが先に手を引っ張って踏み出してくれれば、わたしだって後を追って飛び込めるのに。地面が近い。衝撃で体が崩れ落ちていく。その想像が、わたしにはできる。
だが想像は君を本当の意味で殺すことが出来ない。想像の彩度はいつか褪せていく。それも当然だな。君の想像は私が消してしまっているのだから。それを許せないからわたしはまた線を引くの。
「ねえ。まだ、いる?」
乾涸びた喉からはしゃがれた掠れ声しか発せられず、部屋には心拍と同じリズムで音楽が流れ続けている。わたしはわたしだけの神様を探そうとして、腕を伸ばして、血管がブチリ。
「酷い顔をしている」
「……えへ」
ここは静かな部屋だった。白地よりずっと静寂で、外界の干渉なんて一つもなくて、わたしとあなただけの小さな世界。
わたし達は実は全部うそだってことに気付いてる。でも本当は本当のこともあるって祈っている。信じていれば手を繋げるから、あなたが同行してくれるから。君の言う終着点は未来にある。じゃあわたし、未来を渇望していたの? そうだ。
この次。次の次。もっと先の終着点。ユートピアの花畑。そこにはずっと昔に忘れられたお城があって、はぐれたフクロウが今も黙ったまま帰りを待っているの。少し行けば夜光虫の光る海が見える。シキは海が好き? 馴染みが深いからな。もしかしてあなた、記憶を持っている? 記憶とは即ち証明だ。私にも勿論、生きた証は残っているだろう。
全てを否定するのは悪い癖だった。否定とは一種の関心であるし、適度に話を聞く姿勢を見せられる。生命を弄ぶ汚れた足先で土俵入りすることは大層な愉悦だ。そんな醜悪な趣味が君の羽を腐らせ、私達の病魔となった。個性というにはあまりにも異常なそれを的確に表現するならば、精神疾患。躁鬱と統合失調症。これは少し前に定義したことがあったな。
むずかしいことはわからないよ。
ならばはっきりしよう。狂っている。お前は、おかしいんだ。おかしいのは、おかしくなったのはどっち?
「まだ目が醒めると思っているのか」
「だまれ!!!」
ビーって音が耳をつんざいてわたしはハッと目を開けた。流れ込む血液は常温なのに、わたしの体はお風呂に浸かっている時みたいに熱くて、呼吸が乱れる。片頭痛が酷い。白い天井がわたしの視界いっぱいに映る。
横を向いた時、もうあなたはいなかった。

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