鳥の子


【第二幕・ロス】

彼女の髪は随分傷んでいた。ふわふわに見えるのは細く縮れた毛が膨らんでいるからで、その実いくつもの枝毛が紛れていることを知っている。雨の日は湿気でぐちゃぐちゃに絡まって、酷く鬱陶しそうに手ぐしで整えては、大して直ってもいないのに満足して髪をいじる手を止めてしまう。
あれは本当のところ満足などではなく、諦めだったのかもしれない。どうにもならないことってあるだろう。地頭の良さ、要領、薬指に出来たペンだこ。生まれたこと。
死んでいくことだって、どうにもならないことでしょ?
「そんなのつまんない」
今日の君が笑う。そうだな、と肯定して彼女の背を押す。ブランコの鎖が歪な音を立ててその体を宙へ押し上げた。それが理屈の羽だとしても、今彼女はつがえた羽で飛んでいる。その身で風を切っている。私が決して浴びることの出来ない自由の息吹の末端を掴んで、我が物顔で引き寄せようとしている。目を伏せることも出来ずに私はその後ろ姿を見つめて、戻ってくる背なをもう一度軽く押してやった。
終わりを妙に案じている。扱う言葉はいつも濃い瘴気を纏って、触れた全てに終焉の影を落とす。あまりにも悲観的だ。本当は今私達は生きている、そんなことを言えたら良かった。それなのに、物語《ストーリー》が途中で終わっている。
──続きを。
次のお話しにいかなくちゃならないのだろう。君はまだこの地を歩んでいて、此処に居たいと願っている。私はこの荷物を背負って、君は微笑みながら夢中になって、いつか遠い先にあるユートピアの花畑へ帰るのだ。だから順を追ってやってくる終わりの前に、見られるものを、聞こえる音楽を記録しなければならない。次の次、人生の終着点まで。
「シキ?」
もうその遊びは辞めたのか。君は飽き性だな。四年も続いたのに? 私との関係はもっと希薄だ。馬鹿を言うなよ、もう十年になるじゃない。……この場所は感覚が薄いんだ。
言いたいことはわかるわ。わたしも本当はシキと出会った時のこと、はっきりと思い出せないの。あれはわたしが何歳の頃? 気付いたら識《シキ》と怜《わたし》が出会っていて、モニター越しに顔を合わせたのがはじまりで。あなたはわたしの担当として、ずっとそばにいてくれた。責務だった。それ以上の感情は持っていなかったんだ。あのときは。あの瞬間までは。
でもわたし、本当に覚えているの! あなたが用意してくれたケーキがとってもおいしくて、なんだかぬいぐるみをもらった時みたいに嬉しくって、思わず握りしめちゃったこと。それでね、ずっと反省もしているの。あの時のシキはびっくりして、思わず部屋の電気が消えちゃって、せっかくのパーティがダメになっちゃったから。
君のせいではない。……本当《ほんとう》に?

ひどい顔をしていたから、思わず彼を抱きしめた。シキは困った顔でわたしを見る。わたしと違う髪質は細やかで指通りもいい。爪の先から髪の毛の一本まで、わたしはシキのことがだいすき。
触れる体の透明さは比喩しがたい。すり抜けてしまう架空の肉体のように物理的な透明でもなければ、白くきめ細やかな肌といった文学的表現でもない。ただ漠然と透明なのだ。そこにあるのにないような。かつて不安定だった体が安定した時、体温が朧気だと気付いた時からずっと、その不可思議な矛盾を抱えている。
|形容しがたいのはあなただって同じでしょ。《形容しがたいのは君だけのはずだった。》
この果てしない白地を歩いていた時、多くの壁の先でその姿を見たことがある。そこは鏡みたいな場所で、わたしはいなかったけど、とにかくあなたはいた。青色が似合うのはみんな同じなのね。でもわたし、シキの方が好き。だってあなたはわたしにやさしいから。
自分に似た人が世界に三人いたとして、それらが同じ場所で生きられるはずがない。存在は競合し互いを貪り食う。世界線はやがて一つへ収縮する。だからあの瞬間、きっと鏡の世界に終わりが訪れたのだ。そのおかげで、そのせいで、私達はただしく正となった。
もし識以外が怜以外に必要とされていて、誰かが白地に線を引いていたのなら。この旅路に道標の一つを書き足していたのなら。鏡の向こうで生きていたのなら。馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけがないでしょう。
そんなことはない。未来もないのに? 未来はあるよ。どこに!
はやく次のおはなしを継ぎ足して。誰の口を渡り歩かずとも、わたし達はこの先を照らしていける。照らさねばならない。
もうやめてくれ。
人生を牽引出来るのが自分だけなら、はやく手を離してやらないと。繋ぐんじゃなくて、この腐った関係から君が理屈や道理を捨て去るのを助けてやらないといけない。
じゃあおねがい、手を貸して?
お転婆だから君は簡単に転んだ。私はしゃがんで小さな体を起こし上げる。こんなところでいつまでも寝ているわけにはいかない。君の体は前よりずっと良くなって、今では私がいなくともダンスまで出来るようになったのだから。
その両足で地を駆け回り、君が生きた証を、生きている証を残す必要がある。たとえその足踏みが生命を弄ぼうと。その四肢が決して綺麗でなかったとしても。
あなたが触れたせいで背中の羽が腐り落ちた。わたしはもう飛べない。あれだけ気持ちよく浴びれた風がわたしの肌を引き裂いていく。あなたはなんのために私から羽をもいでしまったの?
もしかして、歩かせるため? この形のない大地を、先の見えない逃避行をわたしに知らしめるため? 病魔が巣食っているのはどっちよ。苦しめているのはあなたでしょ。
違うだろ。そんなことが言いたいんじゃない。
あなたが助けてくれたから、あなたがわたしを見てくれたから、有限の生涯で僅かばかりの傷を残せた。翼の生えていたわたしの肩甲骨みたいに深い傷じゃなくとも、刺し違えることは出来た。残念ながら、急所は外してしまったけれど。
おいていかないで。
記憶ばかりが重りになって、心が深淵へと降下する。君が私の頭に抱きついている。彼女の抱擁は茨だった。枷であり、蓋であり、帽子であり、抑圧。これ以上、記憶を逃さないように。置いていかないように。捨て去ってしまわないように。そのなんと鬱陶しいことか。所詮子供の分際で。
じゃあ毎日を誕生日にして、ちゃんとお祝いをしよう! 百日すぎたら、わたしはおばあちゃんになってあの世行き。残されたあなたは一人で、この先どうやって生きていくの?
終わることばかりを考えている。悪いことじゃない。でも絶対に生を渇望しちゃうのはどうしてかな。そもそも終《おしまい》ってなに?
白色のエンディング。君に贈るフィナーレ。さいごは拍手喝采じゃないと嫌よ。君が周りから喝采を浴びれるとは思えない。あのパーティにはたくさん集まってくれたじゃない。あれは全部私達の影だ!
「……帰ろう」
「まだこんなにはやい時間なのに?」
「暗くなる前に帰るんだ」
「どうしても?」
「それが君の為になる」
わたしのためって、なに?

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