鳥の子
【第三幕・ふたりだけの閉じたせかい】
大きくて眩しい満月、その光は眺めているモニターによく似ている。|青い光《ブルーライト》。感情が伺えない無の瞳は、私達が抱える他者への関心の薄さに起因していた。称賛、疑問、感嘆。彼らの零すどれもが素晴らしい起伏であるというのに、私はひどく懐疑的で、彼女は純粋な眼で自らの心を曝け出してみせた。まるで当然の対価、誠意の応酬であるという風に。
そもそもの作りが違うのだろう。冷え切った心は結局全てを愛しながら、同時に全てを否定している。それに比べて彼女は余計な事ばかりを口走って、そんなだから後で後悔の涙を流すのだ。
私達は皆化けの皮を纏っている。やがて凝り固まった表層の面と奥底に隠した本心はレールの下敷きに使われて、人はそれを体裁とする。くだらない。どうせ伝わらないのなら、口を渡り歩かないのなら、はじめから現状の一つも変えられないのなら、口を噤んでいればよかったのだ。昨今、冷笑の時代に相応しい姿だろう。だから理解できないんだ。君のこと、あなたのこと。いつまで経ってもわたしたちは分かり合えない。
黙っているから。あなたの本心がわからない。本当はミルクココアじゃなくてブラックコーヒーがよかったのかもしれないし、こしあんとつぶあんどっちが好きかもわからない。他にもたくさん。わたしとそれ以外の、どっちが好きか、とか。
言わなくてもいいことがあるなら、言ってもいいことだってあるでしょう? シキのことがだいすきで、ずっといっしょに居たいって、わたしはまだ祈ってる。わたしだけの神様。シキ。わたしもあなたの神様。
ずっと一緒に居たいから心が痛いんだ。分かるか。生活に、思考に、君の姿が四六時中ちらつくことは一種の拷問だ。君がどう思うか。そればかりを考えている。
消えろ!
徐々に深い部分まで潜っていけば、深化を受容すれば、わたし達に言葉は必要なくなる。黙っていれば伝わらないなんて嘘だ。昔喋ったことがあるから、言葉を交わしてしまったから、今の全てが筒抜けだ。本心そのものを掴むことは出来ずとも、それに近い解けた糸の先くらいは指先で弄べる。きっとあなたはこう思ってる。「きえろ!」ってね。
さて、なにから整理したものか。私は海を泳ぐ馬の騎手となりエピソードの道をなぞっていく。暗闇の海は明かり無しには足元すらおぼつかず、耳のすぐ傍で潮騒が囁きかける。漣の音。轟々と巨大鯨の如く口を開ける海鳴りが私を刺して、落雷が電気信号を書き換えて、私の記憶はすっかり混同してしまった。
正史は、私達が共に在ったこと。それ以外はいらない。二転三転する一貫性のない思考は全て消しゴムから生まれたごみだ。今までのことも。私は何度も白地を漂泊しているのに、そのたびに君がペンで新たな線を増やす。いたちごっこだ。早々に諦めてしまえばよかったのに。そうすれば徒労にさいた苦悩は祝福にかわる。わたし、あなたに贈りたい言葉があるの。
「ねあろいろろべ、ないんすぃーね!」
もう初めに何を言っていたのか思い出せない。管に繋がれていた君がうわ言ばかりを繰り返し、異常性の病魔に精神をやられていた様と、今の私はきっとよく似ているだろう。
あれはせん妄だった。言葉を話すフクロウも、人が花に変わるヘンテコな病気も、自発的な温もりを持つ棺も、全部夢。まやかし。そんなものあるわけないだろう。未来もないよ。未来はあると言ったはずだ。まだ目が醒めないの?
全部置いてきちゃったことばかり。あの時食べたケーキみたいにとっくの昔に賞味期限が切れちゃって、あの子たちはみんな老いちゃった。繰り返してるわたしたちはまだ病気の真っ最中。綺麗な想い出。とっても楽しくてテレビなんかよりずっと面白いの。まさに綺想世界。まだ目が醒め──お前のせいだ!
お前のせいで。おまえの所為で、全部おかしくなったんだ。感受の音は鳴らない。あるのは骨が砕けたような人々の悲鳴。たすけて、しにたくない、おねがいします。悪いのはあたしなの。あんなに喜んでいたのに。好意を簡単に受け取ったかもしれないけれど、ちゃんと返そうとしていたのに。
君の恩返しは独善だ。もう興味を失ってしまったの? はじめから興味があった人が、君の周りにいたか? パーティ会場に集まってわたしを喝采してくれた人たちはみんな、本当はわたしたちの影だった。彼は前にそう言った。じゃああの時電気が落ちたのは、わたしが。わたしの瞼が落ちたからで。「もうやめて!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
暗転。昏睡。体外の血管の多くを切除したにも関わらず、彼女の病状経過は一定値を維持したままだ。とはいえやはり当然というべきか、一つの血管への依存度は飛躍的に上昇した。
一人で生きていけないのは君の方だろう。
まだ駄目だよ。まだ目を開けちゃダメ。この次、次の次、人生の終着点まで、その目を開けちゃだめ。そうじゃないとわたし達、終わっちゃうから。
大きくなるにつれ性格がどんどん歪んじゃって、悪くなって、簡単に人のことを嫌いになっちゃうのは、心が寒くなったせい。じゃあきっとこの旅は北上の旅なのね。進むほど食べ物がなくなるんだから貧しくなるのは仕方がない。あなたがそんなにも悲観的で懐疑的で、わたしのこと嫌いになっちゃうのもしょうがない。でもおねがい、まだ信じていて。わたしはまだあなたの傍にいる。
私もまだ君の傍にいる。
うれしい!
嫌いになったことなんてなかった。でもあなたはどうかな。深化の根底に介入しても結局分からないものは分からないのだ。言葉がなくても伝わることはある。共に思考し、参照するなら同じ世界を見られる。
それでいて解けた先にしか触れられないのは未だに私達が乖離している証拠で、その調整には校正が必要だった。識と怜を足して割ればちょうどいい人間が生まれるだろう。そのちょうどいい人間の構成は融けるわたし達。君と僕。あなたとわたし。人とAI。肉声と合成音声。過去と未来。有と無。
繋いだ手から微かに脈拍を感じる。心電図に映った電脈と同じリズムで、時々変拍子が混ざる。まあ生きているならそんなこともあるだろう。ずっと真っ当でいることなんて無理だ。それでも整脈を推奨される世界だから、この変拍子を矯正してやるのが自らの職責になる。やはり手を離す日はいずれ必要となるのだ。
でも本当は手を繋いでいたい。だって、そうすることでお話しが成り立つから。ほら、いかなくちゃ。継ぎ足さなくちゃ。萌す総てを見なくちゃ。
わたしたちに未来があるなら、あなたが証明してみせて。
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