鳥の子

【第一幕・讐復を能える。】

わたしの心拍は無機質な一線で描かれる。
わたしの心音は、わたしに興味のない大勢と同じ表情をしている。
繋がれた管は見知った色。いつ増えていつ減ったのかも覚えていない。腕へ伸びる体外の血管に、また一滴透明な血液が流れこんだ。
「ひどいかおしてる」
鏡に映った顔にそう声をかけた。わたしの後ろで、わたしのことを一番よく知っている人が少しだけ困っている。多分、君の方が酷いって言いたいんだ。そうかなあって、自分の頬に触れるかわりに彼の頬に手を伸ばす。ブチリ。繋がれた血管のひとつが音を立てて千切れて、わたしも行き場を失って揺れる管みたいにふらついて、そのまま糸が切れたみたいに倒れこんだ。
「怜」
あったかい。いいにおい。あ、もしかしてまた痩せた? 彼の腕にキャッチされて、わたしはうっすら伝わってくる体温を噛み締める。どうせ彼も同じことを思っているのだろうけれど、いつも細い彼はちゃんと食べているのか不安になる。元々過食気味じゃないのなら、大切な存在が削れていくのは寂しいものでしょう。
「もう眠った方がいい」
「どうして?」
「君の為になる」
わたしが眠ったら、あなたはひとりぼっちじゃない。休眠する体に管を繋ぎ直して、それでこの体が動き始めるまで一体ひとりで何をしているの?
「シキ」
「眠るんだ、怜」
いつもそばにいてあげたいと思っている。
それは呪いだ。私しかいない彼女に、私は何が出来るというのだろう。初めから私だけを拠り所にした時点で、全てが間違っているのだろうことは想像に容易い。
視界の暗転。生身の体は僅かばかりの体温を孕む。彼女の温もりが朧気になっていったことに気付いたのはいつだったか。彼女の拡張された肉体が削がれていって、身軽になった足取りは徐々に安定してきて、私の。私の後ろに。
「ようやくめがさめた?」
目が覚めた。覗きこむように無理やり視界に入ってくる彼女は、いつもより晴れやかな表情をしている。何か嬉しいことがあったのだろうか。お祝いのケーキが机に置かれていた時のような、ああそうだ、手を繋いでやらないと。それで、繋いだ後は──。
「一体誰を掴もうというの」
私の手は空を切って地に落ちた。目の前にいる彼女は心底不思議そうな顔で、頭にはてなマークを浮かべるようにしてこちらを見ている。私の動かした手のやり場が本来どこだったのか、彼女は分かっていないようだった。
「ね、シキ。ついてきて!」
まるで無邪気さの生き写しだ。くるりと一回転した彼女の裾がはためく。私に、君以外の何を見せられるというのだろう。
「はやく!」
ほら、こっちです。
もっと先、人生の終着点にある花畑まで、わたしは彼に同行してほしかった。旅はまだ長い。わたしがどこかへ行こうとするたびに、彼は大して多くもない荷物をせっせとまとめて、こちらの顔色を心内で探りながら歩みを進めてくれる。だからあなたのことがだいすき!
人の死、その定義は様々だ。私は彼女に、はやく死んでほしいと思っている。……本当にそうだろうか。結局私だって彼女のことを大事にしているし、好意を抱いていることも事実だ。恐らく人間というのは無条件で永遠を語ることが出来ない。同じように私も、そうした迷いの中にいるのだろう。この手を離して、それでどうする? どうするの?
「シキ!」
彼女が連れてきた光景には、やはり彼女以外に何もなかった。一面の白地に識《シキ》と怜がいる。ただそれだけの整然とした殺風景だ。つい先ほどまで前を歩いていたはずの少女が、私の半歩後ろから様子を伺ってくる。私は目を合わせることが出来ずに前ばかりを向いて、その白紙の先に何かを見出そうとしていた。今日こそは、今回こそは君以外を見られると信じて。
この場所はどれだけ足音を立てても一切音がしない、完全な無音の空間だった。彼女はパタパタと走って手を引いては歌い、私はなされるがままに拙いダンスのエスコートを請け負う。影の一つも落ちない、音のない空間で、彼女の口ずさむフレーズだけが頼りない外界への導線だった。
「ね、咲いて」
もし彼女が生命を育む神であったなら。その足先には命が芽吹き、遂に解けることがなかった雪の下から春の新芽が顔を出すだろう。とはいえ彼女は神ではない。その足踏みで生命に脈動を与えることは出来ず、むしろ命を刈り取る巨人ような足捌きだ。無作為に生まれ朽ちていくばかりの生が僅かでも減ったことは心喜ばしい。長い間報われ続けていたのは恐らく私くらいなものだろう。その結果、わたしだって報われていたの。……そうだな。
前を行く彼女に追従する。昔は確かに私が彼女を引っ張り上げていたというのに、今ではすっかり言われるがままだ。次はどんな君がいて、私はどれだけ後悔を重ねるのだろう。私は。わたしは。|一緒に行きましょう《いっしょにいきましょう》。?
これ以上どこに行くと言うんだ!
じっとりと濡れた卑しい目がこちらを見ている。本当はこんなはずではなかった。どうして毎度、律儀に荷を背負って付き添い続けなければならないのか。感情という指針を常に乱し続ける彼女は磁石で、私は狂った羅針盤だ。だがこれを怒りとしてしまうにはあまりにも無慈悲で、私は相応の責任を負わねばならなくて、それは憐憫を多量に含んだ後悔である。
例えば、大切にしていたぬいぐるみを捨てた日のような。全ての事柄に興味を向けられなくなって、青白く光るモニターを眺めているだけのような。わたしの心電図を眺めるだけの日々のような。わたしのカルテを、あなたは本当に大事にしていたの? 今も脳みそのしわに私の記録は残してある?
手を繋いでいてほしい。ケーキを囲んで、お祝いをして、まわりは拍手でわたしたちを迎えいれるの。パーティの準備はとうに終わっているから、後はわたしがろうそくを吹き消すだけ。誰もが期待の眼差しでわたしを見て、君はそれを吹き消す前に、小さな手でケーキをぐちゃぐちゃに握り潰した。
暗転。静寂。観衆は私達の影となる。そんな中で君は大層な笑みを浮かべて、頬にクリームをたっぷりつけて、美味しそうにケーキを頬張っている。だってこのケーキ、とってもおいしいの!
怜の好物は生クリームのケーキ。少なくとも当時は。今は何が好きだ?
シキがす「まだ目が醒めないの?」
もうやめてくれ。

果てが恋しい。それでいて死ぬことが、老いることが怖くてたまらない。永遠がないせいで心が空白で、満たされなくて、何をやっても空回るばかりで。|わたし《あなた》はこんなことがしたかったの?
管に繋がれている間は幸せだった。あなたがわたしを見てくれるから。その副作用でどれだけ意識が混濁して、吐き気がして、食欲をなくしても、あなたは変わらず見てくれた。今のあなたは随分虚ろね。その目に正しくわたしを映してみせて。そしてあの日のようにお祝いをするの。
あなたと私、灯りをともそう!
君の姿が荒れる。確かにそこに存在する君が時折視界でちらつき、その輪郭が二重にぼやける。描写が追いつかない。物事を考えられないから、形を捉えられないから、目の上を滑るようにして君が流れていく。おかしくなったのはどっちだ? さあ。どっちがお望み?
ほら、もう次のお話しにいかなくちゃなりません。世界はもっと広くて、甘い砂糖菓子みたいに優しいのだから。そして世界は君に牙を向き、その喉笛を噛みちぎるだろう。

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