鳥の子 - BabélⅡ
深い逢瀬の後に、天師様《しき》は守人へ呼び出された。悪霊が出たらしい。天守閣から随分離れた田畑ばかりが広がる土地にさして町人はいないのだが、報告が届いたともなれば百姓の一人でもいるのであろう。天師様《しき》は藍白を大切に仕舞い込んで、其の屈託ない大翼を広げた。
つまらないのは藍白である。彼女は随分聞き分けの良い子供であったが、久方ぶりに天師様《しき》の服の裾を捕まえた。意地らしく可愛い強請りと、手の施しようがない頑固が天師様《しき》を絡め取るのも時間の問題だ。説得に説得を重ねた天師様《しき》が今日ばかりは特別と根負けして、藍白は天師様《しき》の胸元にすっぽりと収まった。藍白にとって、数年ぶりの外出であった。
当時稚児であった藍白の記憶と、現在の悪霊は、容姿描写に大きな違いがあった。地続きの大地に佇む巨大黒点の足元には亀裂が走り、乱雑な処理を施された砂闇が隙間でひしめき合っている。
『之に的確な表現を望むのなら、貴様の知る語彙範疇で鮮明な叙景を記してやろう。illuusio即ちHallucinationは世界描写の異物である。ロード中に偶発するbugであり、形骸化された타자혐오として尚も愚かしく干渉を続けるのだ』
Tyhjyyteni, joka sai lisää itsepintaisuutta kohtaamisestasi.
Minä en anna tälle lopulle anteeksi.
町人はとうに畑を放り出したのか、畝の途中に鍬を投げ捨てたまま姿を消していた。天師様《しき》はよくよく異形の隅まで眺めた挙句、一つばかりの溜息を吐いた。眼前の其れは貧相で下らぬ“悪霊”である。
抱かれたままの藍白が悪霊へ片手を伸ばした。天師様《しき》は小さな手に指を絡め引き寄せたが、藍白は天師様《しき》の手甲に軽い口付けを落とし、拘束を解いた。
「消えろ」
是をFiktisidontaといった。無論、藍白に発音出来る音触りではない。拙い言語により繰り出されるは御業である。其れを天師様《しき》は藍白へ手渡した時に、断言的陳述と訳すことにした。要は許されし御仁の為す再定義であった。
Ajattelen, siis olen.
我思う、故に我あり。
悪霊の巨大黒点に乱雑な斜線が横切り、幾層にも重ね繕った皮紙の如く空間が塗り替えられていく。真下に蔓延る砂嵐はぴたりと、まるで幾年か前に町を静めた深雪のように停止した。さながら終焉である。
「何故、斯様な事を?」
「しきのまねっこ」
鳥の子は、年相応の無邪気さで、悪戯が成功した子供の様に笑った。その傍らで悪霊は一時的な白となり、やがて滲み出す現世の色彩が階層を侵食していく。田畑の風景が妙に高い彩度を誇っている。茹だる夏の蜃気楼に揉まれた、あの夢現の境のようだった。
「もう二度と、こんな真似をするんじゃないよ」
「前にしきがやった時から、ずっとやってみたかったの。この……ふぁくちな、を」
「こんなにも経っても、まだ諦めていなかったのか。御前は本当に愛い子だよ」
Minä en tähän päivään asti ole tätä sallinut.
Tyttäreni, joka on ollut suojelukseni alla, ei saa koskettaa tuntemattomaan sidontaan.
Kaikki tämä liittyy menneisyyden tapahtumiin, jotka johdattivat hänet siihen.
Miksi maan juurtunut pahuus ja rienaus yhä tarvitsisi olla kärsimyksen johdattaja?
Vastaus on jo annettu.
Minkä minä annan, on miekka, joka tämän repii, ja se on jumalallinen rangaistuksen julistus teille.
天師様《しき》は藍白の頭を撫で、藍白はしっかりと天師様《しき》の体に寄り添った。風の切る音が二人の耳元を掠める。町人が歪な米粒のように小さく欠けようが、飛天を止める者は居ない。
藍白にとって僅かな外出は、目的を果たし充分な成果を上げた。天師様《しき》は暫くの間藍白を大切に閉じ込めてしまったが、寵愛に一切の否定は存在せず、ただ秩序ばかりが優先された。背丈に合わせた鳥の子の下翼が羽を懸命に広げるまで、柔らかな羽毛はひたすらに沈むばかりである。
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