口笛/煮える血/死体趣味の男


3、死体趣味の男
 ペンギンみたいに足を擦りながら飽き飽きする遅さで湖のまわりをぐるり歩く。それがこのところのウォノの日課だ。それ以外に自発的にすることがないし、する気にもならない。眠らずに走った日々が背中の後ろのほうで小さな火のようにちらちら燃えている感じだ。振り向けば頭の後ろ、顔の向いたのと逆のほうに行ってしまって永遠に見えない。ただ背中に火の記憶の気配を感じるだけ。二度と戻れない自分の姿はそうやって絶対に目の合わない後ろで燃えている火だった。今のウォノはあいかわらず冷めて白くなったみっともない豚肉みたいだ。
 じりじりと足を擦るのもいやになってきて、太腿を持ち上げて振るようにして歩いたら五歩でもう息が上がった。体力がひどく落ちている。この国に来て撃たれて以来(観光ビザはとっくに切れているだろうがもうどうでもよかった)ウォノのしている運動と言えばこの遅い遅い散歩とラクとのセックスだが、セックスの間中ウォノはただラクのするままにさせているだけなのでほとんどマッサージか医療行為みたいなものだった。ただぐったり横たわって脚を持ち上げられたり裏返されたりしてあーとかうーとか言っている。ラクには死姦趣味があるらしい。でなきゃ大した反応もなく協力的でもない中年男を相手にあんなことをするだろうか。ケセッキ。唇を動かさずにウォノは喉だけでつぶやく。
 道行きが三分の一まで来て、足を止めず息をつく。腰のあたりがじんわり汗ばんでいる。だいぶんましになった、とウォノは思った。ずっと動けなかった。今だって大して動けないが。ラクに撃たれたせいで動けなかったのは真実だが、撃たれなくたって動けなかったろう。疲れていた。もうずっと疲れていた。疲れないでくれ、と部下たちに言った言葉のどれくらいがかれらに伝わったろうか。かれらには疲れないでいて欲しかった。眠れず、眠れば悪夢が囁き、目ばかりぎらぎらして、いつの間にか友人を失い、家族を失い、風呂に入ればきっと何とかなるだろうと思っても一度ソファに身を沈めれば根が生えたように朝まで動けず、何を食べても喜びはなく、ただ疲れて、疲れていた。そんなふうにはなって欲しくなかった。どうしているだろう。ふいに消えた自分を探したり懐かしんだりしてくれているだろうか。もうどうでもいいが。
 大きく息を吐いてウォノはコートの前を開けた。暑い。まやかしの暑さだ。まだ湖に氷は残っているし山肌は白い。足を止めればすぐ冷えるだろう。湖の東端まで着いて家が視界のすみに入った。小さな人影が家のそばに立っている。ラクだ。湖を隔ててこちらを見ていた。足元にライカもいる。まただ、とウォノは思った。
 初めてウォノが散歩に出た日、まだ銃創は生々しく湿っていて一歩ごとに痛かった、ラクは家を出たウォノを遅れて静かに追ってきてぼんやりした顔でじっと見ていた。そのときはまだ湖が凍っていて、足音でラクとライカが追ってきたことに気づいて振り向いたウォノは湖の岸から五メートルくらい歩いた氷の上にいた。落ちますよ。遠いところからラクが言った。もう氷が薄いんです。割れて落ちますよ。ウォノは答えずに前に向き直って湖の真ん中を見た。言われてみればたしかに真ん中にいくにつれ氷の色が違っていた。白かったり青かったりしながら凍っていた。焼死は壮絶だが凍死はどうだろう。死人はたくさん見てきたが死人に話を聞くことはできないのでわからない。ウォノ。ラクが呼んだ。さんをつけろよ。ヒョンなんて呼ばれたらゲロとクソが同時に出ちまうが。後ろからちゃっ、ちゃっ、ちゃっ、と爪の音がしてライカが来たのがわかった。足元を振り向く。氷を嗅いでいたライカが顔を上げてウォノを見た。ウォノが氷を割って落ちたらライカも落ちるだろう。かわいそうだ。ウォノが唇をつぐんで口角を下げると話が通じるみたいにライカが鼻息を鳴らしたので、ウォノは黙って戻った。ラクは岸辺から少し離れて待っていた。それがウォノの初めての散歩、あるいは二度目の自殺の失敗だった。
 それからウォノが散歩に出るたび、ラクはそれを見に出てくる。まだウォノが入水して死ぬとでも思うのだろうか。ウォノ自身にもしないとは言い切れないが。だが、何を言うでもなく顔に表すでもなく、ラクは見ている。無様にのろのろ歩く様子を。ケセッキ。ケセッキ。つぶやきながらウォノは歩く。
 いよいよ暑くなって鼻をすすった。一周するまであともう少しだ。家の正面が見えてきた。ラクはドアの前まで移動してウォノを待っていた。唇が少し微笑んでいる。ウォノはいやになる。
「だいぶん元気になりましたね」
 出迎えてラクが言った。ウォノは唇の片側だけに空気を含ませて歪める。前からこんな笑い方をしたろうか。思い出せない。
「元気だよ。死体趣味のご希望に添わなくなってお生憎だな」
「僕がいつ、死体趣味だなんて言いました?」
 首をかしげ唇を尖らすようにしてラクが言った。声が楽しげだ。ウォノはライカを真似るように鼻を鳴らした。ライカァー、と間延びして呼ぶと家の裏側からライカが走ってきて尻尾を振った。跪いて体を撫でてやる。ライカは手の中で暴れながら頭をウォノの脇にこすりつけてから頭を振って鼻を鳴らして鼻水を飛ばした。
「死体趣味じゃあないですよ」
 すぐそばまでゆっくり寄ってきてラクが言った。
「生きていたほうがいいし」
 いくらこの国でも夏は腐る。冗談か本気かわからない調子で低いけれど歌うような声でラクは言う。ライカはウォノよりもラクの脚にまとわりつきに行ってしまう。ウォノはそれを目で追い、ラクの脚とライカを見た。ラクの顔は見ない。
「元気でもいいんですよ」
 ラクの顔は見ない。見たところで、どうせいつもと同じ何を考えているのかわからないツラをしているんだろう。
「ここにいてくれるなら」
 ラクの顔は見ない。何を望んでいるのかわからないから。
「いいんですよ」
 ラクの顔は見ない。何をしてやれるのか、わからないから。

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