口笛/煮える血/死体趣味の男

1、口笛

 僕は誰ですか、とは、むしろ俺の問うべき問いではなかったろうか。人生で幸せな時はあったかと問うべきは俺でなくこの小僧だったように。耳鳴りの中でウォノは思った。左の耳が鳴っている。旋回する鳥のように震える音が、遠く、近く、めまいと手を取り合って踊っていた。左肩が熱かった。北欧風の(ここは北欧だ)しゃれた折りたたみの椅子ごと斜め後ろに倒れて低い天井を見上げている。息は暑がる犬のように浅い。目尻からこめかみがゆっくりと濡れていくのがわかった。
「危なかった」
 ウォノの足元で厚い靴底が床を踏んで重たい音を立てた。それから放り出したままの手のすぐ横、それを跨ぎもう一歩寄って頭のわきへ。足はきっとウォノの肩から流れる血だまりを踏んだろう。顔に影が落ちて覗き込まれる。
「心臓に当てるところだった」
 靴下に穴を空けてしまった、と言うときよりよっぽど軽いような調子でラクが言った。
「あなた……」
 と言って、テーブルを見る。テーブルの端にウォノのリボルバーが落ちかけて引っかかっている。つい二分前、先に銃に手を伸ばしたのはウォノだった。だが銃を掴んだはずの手にほとんど力が入らなかった。親指は撃鉄を起こすこともできず、その時初めて、ああ、俺はここに死ににきたのだ、とウォノは思った。思って、いったいどんな顔でラクを見ただろう。この大嘘つきの若造を。すがるような目つきをしたろうか。あるいは救いを懇願するような。
 ああ、こいつが俺の救世主か? こんな、どぶ川に映った影のような、死にながら生まれた亡霊が?
「……いい人だ」
 撃ったのはラクが先だった。そもそもウォノの指は引き金にかかってさえいなかったが。心臓に当てるところだったなんて、どの口が言うだろう。ハリムの頭に一発で当てたくせに、この期に及んで間抜けを演じやがる。ラクがウォノの顔のすぐそばにひざまずいた。唇が静かな微笑みを含んでいるように見える。いったいこいつのそんな顔はこれまで見たことがあっただろうか。
「手当をしましょう」
 殺してくれと言いたかったが舌が少し口の中でもつれただけで声さえ出なかった。脚を撃たれてなお疾走したのは何年前のことだったか。俺はすっかり違う俺になってしまった。俺は誰だ。俺は。
「ここはいいところですよ」
 そう言ってラクは立ち上がる。表情の読めない顔はウォノの視界から外れて見えなくなった。足音がさっきの逆をなぞるようにまた手の横、足元へ移動する。
「きっとあなたも気に入る」
 何かがテーブルを擦る音がした。銃より軽い。
「……コーヒーが冷めてしまった」
 ごくりと一口飲む音がして、この静けさ、雪に囲まれているだけでなくあの聾のきょうだいも火事で吠えられなくなったライカも何も言わない、ここはなんて静かなのだろうとその嚥下の音でウォノは気づいた、足音はゆったりウォノのつま先から遠ざかっていって壁に隠れ、棚を漁る音と静かな口笛が低く響いた。やつが口笛? いったいどんなツラで?
 ウォノの目尻から流れ出した熱い水はこめかみを伝って耳の中を濡らし、床の上で血と混ざり合った。外に出れば凍るだろうか。凍りたかった。いつからか煮えたまま冷めない血も、頭の中で濁流を巻く涙も、眠れない夜に寄り添う耳鳴りも、行くところのない魂も、死も、俺だったもの、俺のすべて。凍りたかった。
「春になるといっせいに小さな花が咲きますよ」
 あり得ない夢の話をするようにラクが言った。春という言葉が理解できないようにウォノは感じた。ただ凍りたかった。目を閉じ、痛みに身を任せると、ゆったりした歩調で足音と口笛が近づいてきた。
「夕飯に鹿を食べましょう」
 教えてくれ、俺は誰だ? 俺の人生に幸せな時はあったか?
「とても夜が長いんです」
 俺は。
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