口笛/煮える血/死体趣味の男
2、煮える血
お前らは物事は中間が大事だと言うが実際はそうじゃない。熱いか、冷たいか。めちゃくちゃだ。
ウォノは脱力して揺すられながら、そう言った男のことを思い出した。ハリム。ぎらぎらとぬめる目で覗き込んで歯を剥いて笑いながらそう言った。あのときウォノはぎこちない愛想笑いを頬に張り付けてそれに曖昧にうなずいていた。今思えば下手な芝居だったよなとウォノは思う。よくばれなかったものだ。
「あっ」
ひときわ大きく揺すられてベッドが軋み、ウォノも絞るような声を上げた。ぐったり横に向いたままの眼前は壁の木目の渦巻だ。視界の端に楽しげな男が見える。こいつ、いったい、何が楽しいんだ。ちらりと目を向けるとすぐに気づいてラクはにんまり笑った。悪魔みたいに。
あの日、ウォノを撃ったラクは「手当をしましょう」と言ってウォノの服を剥いだ。そんなのはいいから殺してほしかったウォノは子供みたいに身をよじらせ背中で床を擦って抵抗とも呼べない抵抗をしたが、それも一分ももたなかった。ラクが傷を指でほじったからだ。痛みが肩に空いた穴から脳天と爪先まで突き抜けた。鼓動に合わせて余韻が波のように立っては消える。ウォノの脚が魚みたいに跳ねてラクの肩を打ち、「いてっ」とちっとも痛くなさそうに言ったラクは、「元気じゃないですか」とかほざいて、消毒液をぶちまけてからウォノの胸を膝で押さえつけてライターで炙った針で傷を縫った。麻酔もなしに。痛かった。弾は貫通していたのでラクは逆側も同じようにした。医者に連れて行けとウォノは思ったが死にたいのにそんなことを言うのはばかみたいだと思って痛みに叫びながら泣くだけだった。生きていることを思い知らされる痛みだった。ラクは「少しくらい障害が残ってもいいですよね、別に」と勝手なことを言って慣れた手つきで包帯を巻き、ウォノの服をすっかり剥いでしまって「ベッドに運びますね」と言って外から猫車を持ってきた。工場で保護されたライカより扱いが悪かった。
そして、それから、死にぞこなったウォノは濡れて乾かない毛布みたいにすっかりくたくたになってしまって、口元に運ばれる飯は飲み込むしかなかったし、日がな寝るしかなかったし、眠る以外に何をする気にもならなかったし、寝たら寝たで悪夢を見るし、悪夢に飛び起きる気力もなかったし、腕に力が入らないのでベッドから起き上がれずにいたら当然というような顔で下の世話までされてしまったし、この家は機密性が高いんですよ寒くないでしょうとか言って服を与えられずにしばらく裸のままだったし、鹿の肉を初めて食べたし、何を食べても味がよくわからなかったし、さっき朝だったと思ったら知らないうちに二日くらい過ぎていたし、ある日朝勃ちしているのを見られて何が楽しいのか笑ったラクにペニスをこすられて何を感じればいいのかわからなくてやめろとも言えなかったし、ペニスはぼんやり芯を持ったままで萎えもしなかったがいけなかったし、いけないですねじゃあこっちはどうですかとか言って薄いビニールの手袋をして戻ってきた馬鹿野郎に尻の穴に指を突っ込まれたし、尻の穴に指を突っ込まれてわけがわからないままいってしまったし、いった後なぜか無性に悲しくなってしゃくり上げて泣いた。
それからほとんど毎日ラクはウォノの尻の穴に指を突っ込んだ。たいていはどうでもいい世間話をしながらだ。湖の氷が解けてきましたよとか、雑貨屋のおかみが骨折したんですよとか、サルミアッキを食べたことがありますかとか。ひとのけつの穴をほじりながらする話だろうか。ともかく、そうされるたびにウォノはいったし、泣いた。なぜ泣くのかわからなかったしラクがなぜそんなことをしたがるのかもわからなかった。ただ長年煮えたまま冷めなかったのにあの日からすっかりぬるまって脂の浮いたどろどろのスープのようになっていた血が、そのときだけまた熱さを取り戻すような気がした。ぐつぐつ煮えていたときはよかった。何も考えずに済んだから。でなければ凍ってしまってほしかった。なのに血は気持ちの悪い冷めた温度になって、濁って、ただ流れていた。それがラクに無理矢理にいかされて泣いているときだけはまた煮え立った。毎日、ほんの一瞬だったが。
それで、三日くらい前から(ウォノの日付感覚が正しければだが)ラクはウォノの尻の穴に自分のペニスを突っ込むことにしたらしかった。ウォノの唇をべろべろ舐めたり舌をしゃぶったり乳首をつねったり他にもいろいろしていたが、そうされている最中ウォノはずっと死体みたいに寝っ転がったままだった。快感は無気力と乖離して浮かび上がってくるのでがさがさの声であーとかうーとか言っていたが、そういうのを言うとラクは喜ぶらしかった。中年男の死体をいじくりまわして何が楽しいのかウォノにはさっぱりわからない。だがラクはいつでも楽しそうだった。国にいたときにこいつのこんな顔は見なかった。俺のこんな顔も見せなかったが。
ああ……と言ってラクが息を吐いた。ラクの顎からウォノの首元へ汗が落ちてくる。ウォノは自分が汗をかいているかどうかわからなかったが、背中がじっとりとして気持ちが悪かったので多分かいているのだろう。尻の穴がじんじんとして、中に埋められたペニスを不随意に締めつけては下腹がひくつく。乳首の薄い皮膚がひりひりした。ラクの手のひらに包まれた膝が熱い。少し前から湖へ散歩に出られるようになったが、長いこと寝たきりでいたので筋肉は落ちたし脂肪がついた。ぶよぶよの中年男の死体相手に悪魔みたいな美青年が汗をかいているのが滑稽だった。
お前らは、熱いか、冷たいか、めちゃくちゃだ。頭の中でハリムの亡霊が言う。
めちゃくちゃだ、とウォノも思った。ずっとこいつは冷たいと思っていた。凍っていて冷たいのだと。でも違った。青かったからそう見えただけだった。火だった。バーナーの火みたいに、ほとんど透明の青。ちっとも冷たくなんかなかった。燃えていることを悟られない火だった。凍りたかったウォノは失敗してどろどろの冷めたスープになってしまったのに。
「楽しいですね」
とラクが言った。全然楽しくなかった。楽しくなかったので、
「楽しくねぇよ」
と言ってウォノは笑った。死体のままで。ラクは声を上げて笑った。
「明日は釣りに行きましょう」
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