6-6 帰りたい場所
夜の静かなベンチに、鳳子と風雅が並んで座っていた。目の前には、煌めく東京の夜景が広がり、ビル群と東京タワーが水面に反射して、まるで二重の都市が浮かび上がっているようだった。澄んだ秋の夜の空気が、ひんやりと肌を包むが、それは二人に心地よい静寂をもたらしていた。
風雅は隣にいる鳳子の方をちらりと見た。鳳子の瞳は、目の前の夜景を映しながらも、次第にその輝きを失っていった。ビル群の灯りが小さな星屑のように彼女の瞳に映り込んでいるが、そこに宿る意識は、徐々に遠のいていく。薬の作用が静かに彼女を支配し、まるで夜の闇が静かに忍び寄るかのように、眠気が鳳子を包み込み始めていた。
「……ふうがくん……」
かすれた声で風雅の名を呼びながら、鳳子は必死に瞳を見開いていた。意識が朦朧としていく中で、最後に見たかったのは彼の顔だったから。眠ってしまえば、すべてが消えてしまう——彼女はそれを身をもって知っており、目の前の記憶さえも遠ざかっていく恐怖に、必死で抗おうとしていた。
「わたしの、なまえを……よんで」
「ああ、ふうこ。……お前は世界でたった一人の、ふうこだ」
「ふうこは、どこにいる?」
「ここにいる。俺の腕の中にいる」
風雅は、鳳子のそんな姿に胸を締め付けられる思いで彼女を見つめていた。彼女が零番迷宮へ向かう前、二人で過ごした最後の二日間。その別れ際に、彼女は一通の封書を風雅に託していた。その中には、彼女が榎本に依頼して明かされた「真実」が記された資料が入っていた。鳳子は、その資料を風雅に処分してもらうようお願いしたのだった。
風雅は理解していた。鳳子にとって唯一信頼できる人物が自分であったからこそ、この封書を託してくれたのだ。中身を読むか、あるいはそのまま処分するか——すべてを彼に委ねた鳳子の想いが、封書の重みとなって風雅の手にじんわりと伝わっていた。そして彼は、彼女の抱える事情を、自らの意志で知ることを選んだのだった。
「消えたく……ない……」
震えた声で鳳子が呟く。その手は夜空へと伸ばされ、虚空を掴もうとしていた。
今、目の前の彼女が何を必死で耐えているのか、理解できるからこそ、無理に励ますことも、悲しみをぶつけることもできなかった。彼女の瞳が、ただ静かに閉じてしまわないようにと、彼女の手を握りしめてその温もりを伝えることしかできなかった。
「ふうこ……俺が全部覚えている。だから……またな、ふうこ」
風雅は、彼女に届くかどうかもわからない囁きを、ただ優しく彼女の耳に届けた。彼の視線は穏やかだが、その奥には決意が秘められている。鳳子が何度記憶を失っても、何度彼の前から消え去ろうとも、彼は彼女のすべてを取り戻し、彼女を守り抜くと心に誓っていた。
鳳子の瞳がついに閉じられるその瞬間まで、風雅は彼女を見守り続けた。東京の夜景に照らされた彼女の静かな顔が、まるで儚い夢のように見え、風雅の心に深く刻まれていった。
◆
暗く冷たい水の中、鳳子はゆっくりと沈みゆく。
透き通った泡が周囲を漂い、彼女の涙が一粒ずつ水中へと溶けていくように消えていく。あたりは静寂に包まれ、どこか遠くでかすかな響きが反射するだけ。水面から漏れる微かな光も、次第に遠ざかっていく。
彼女の瞳には痛々しいほどの哀しみが宿り、濡れた頬にその冷たさがさらに沁み込んでいく。無数の彫刻の破片が砂に埋もれており、それは彼女の心の傷のように、壊れても再生されることのない否定された人格の欠片だ。息苦しさが次第に増していく中で、彼女はただその場に身を委ね、浮かび上がる意志も失っていく。
身体が冷たく重くなり、沈みゆく水の底へと引き込まれるように感じる。思い出や希望、そして自身の存在さえも、この深い暗闇の中に飲み込まれていくようだ。それでも、彼女は抵抗することなくただ静かに、まるでそれが定められた運命であるかのように、深く深く沈んでいく。
――またね、ふうがくん。
――今度は、|誰かの理想の姿《正しい良い子》になれるように、頑張るから。
――さようなら。
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