6-6 帰りたい場所
その日の午後。窓の外には澄み切った秋の空が広がり、冷んやりと乾いた空気が漂っていた。柔らかな陽射しが待合室の床に穏やかに差し込み、静かな空間を優しく包み込んでいる。その中に、三王と最上の二人が立ち、静かに時が流れていた。
ほんの数時間前まで、ここは零番迷宮からの帰還とサルベージ作業で慌ただしく騒然としていた。しかし、最上の無事を確認した鳳子は、その安堵からか、あるいは迷宮の後遺症によるものか、突然意識を失って倒れてしまった。迷宮の影響なのか、彼女の持病が原因なのかは定かではなかったが、ひとまず保健室のベッドへと運ばれることとなった。
鳳子が気を失ったことは、三王から柴崎に伝えられた。その際、柴崎から「保護者へ連絡を入れたほうが良いか」と問われたが、最上はそれをきっぱりと断った。鳳子に持病があるのなら、保護者に引き取ってもらい適切な処置を行うべきだと考えていた三王にとって、最上の拒否は理解しがたいものだった。
しかし、迷宮を解決する中で、鳳子を犠牲にしないため、そして彼女の存在証明を守るために最上がどれだけ尽力したかを知っている三王は、最上にも何かしらの理由があるのではないかと考えた。柴崎と別れた後、三王は改めて最上にその理由を尋ねた。
「御門君。世成君が最初に単騎で迷宮に挑み、その後のサルベージで一時帰還して以来、ずっと家に帰っていなかったのを知っているかい?」
「ずっと? いえ、知りませんでした。どうして……」
三王は、鳳子が最初にサルベージで戻ってきたときのことを思い出した。あのとき、柴崎が保護者を呼び、鳳子は引き取られていった。それから再び彼女が迷宮に挑むまで、どれほどの時間が経過しただろうか。掲示板をざっと見返してみると、少なくとも一週間は経っていることが分かった。
つまり、鳳子は約一週間も家を出たままだったということになる。三王がその結論に至ると、最上はさらに言葉を重ねた。
「彼女はあの迷宮で『現実には帰る場所がない』と言っていた。そしてピアスをあけた理由に対して『たった一人、お別れをしたかった』とも言っていた。……世成君はあの迷宮を死に場所にするつもりだったんだよ」
冷たい秋風が木々をざわめかせ、葉が微かに擦れる音が辺りに響く。最上は遠くの空を見つめ、朱色に染まりゆく夕景に目を細めながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。三王はその様子をじっと見つめ、静かに耳を傾けた。秋の冷たさが肌に染み込むような空気の中で、最上の声だけが淡々と響く。
「僕は世成君のことを深くは知らない。しかし、普通なら『帰る場所』と言えば真っ先に『自分の家』を思い浮かべるものだろう? もしも彼女が"迷宮"を死に場所に選ぶほど"現実"で追い詰められているとしたら、まず疑うべきは彼女の家庭環境だ。だからこそ、彼女自身の口から聞き出せないかと思って、あえて保護者を呼ばせなかったのさ」
三王は掲示板での報告を随時確認していたが、最上の鋭い観察力には感心せざるを得なかった。実際、鳳子の心が限界に近づいていることや、それでも無理をしている姿には、三王自身も気付いていた。それでも彼女が無理を続けることに対して、三王は改めて「やっぱり馬鹿だ」と、心配混じりの想いを抱いた。
「さて、そろそろ下校時間になる。世成君の様子でも見にいうか」
最上がにっこりと微笑みながら三王に声を掛けた。
「そうですね。もしも、抱えきれない事情があるのなら、せめて解決部にできることがあればいいですが……」
三王が返答すると、二人は秋の夕暮れに染まる廊下を並んで歩き始めた。
窓の外には橙色の陽が傾き、校舎全体が柔らかい光に包まれている。ちょうど下校時間と重なり、生徒たちの笑い声や足音が廊下を賑やかに満たしていた。教室から流れ出す声や音楽室から漏れる音が、校内に秋の夕暮れ独特の温かさと寂寥感を漂わせている。
二人が保健室の扉の前に立つと、三王は軽く息をつき、扉に手をかけてゆっくりと開けた。
「……何、……を、やってるんですか」
それは、三王の口から思わず漏れた呟きだった。
目の前の光景が信じられず、心が凍りつくような感覚に襲われる。鳳子の頬は赤く染まり、瞳には涙が滲んでいた。彼女の両腕は見知らぬ男に力強く押さえつけられ、彼の無骨な指が鳳子の小さな口に無理やり押し込まれている。その苦しげな表情と震える肩が、三王に状況の異常さを突きつける。
突然、最上が三王の横を素早くすり抜け、男をと鳳子の間に割って入った。彼は鳳子を庇うように立ちふさがり、冷たい視線を前にいる男へと向ける。その背後では、鳳子が「けほっ、けほっ」と苦しそうに咳き込みながら、息を整えようとしている。最上の体が彼女を守る壁となり、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。
「御門君、世成君を任せられるかい?」
最上は目の前の男性から視線を一切逸らさず、低く冷静な声で呟いた。その言葉を聞いた三王は、すぐに鳳子のもとに駆け寄り、彼女を男性から引き離して安全な距離を確保した。
「世成さん、大丈夫ですか? 何をされたんですか?」
「……たすけて……ごめんなさい……たすけて……!」
三王の声が鳳子に届いているのかいないのか、彼女は同じ言葉を何度も繰り返し呟いていた。その様子を横目で確認しながら、最上は目の前の男――和希に向かって冷静に質問を投げかけた。
「失礼だけど、貴方は彼女の何なんだい? 見た所、入校許可証はちゃんと首から下げてるから不法侵入者では無いみたいだね。それから、彼女に何を飲ませたのか、教えてくれるかい?」
和希は、目の前で笑顔を崩さずに問いかける最上をじっと見つめた。鳳子に記憶を消すための薬「Oblivict」を飲ませるため、強引な手段に出たことがこの校内でどれほどのリスクを伴うかは十分に承知していた。しかし、その結果として二人の男子生徒が現場に現れ、この場面を目撃されてしまったのだ。
邪魔が入った──その苛立ちが一瞬だけ和希の表情に影を落としたが、すぐに冷静さを取り戻し、落ち着いた口調で二人に向けて説明を始めた。
「驚かせてしまってすまない。僕は鳳子の保護者の代理で来ていて、主治医でもあるんだ。彼女には持病があってね、どうしても緊急で飲ませないといけない薬があったから、ちょっとだけ、強引に飲ませてしまったんだ」
和希の話を聞いた三王は、そっと鳳子に「世成さん、それは本当なのかい?」と問いかけたが、彼女の返事は曖昧で、真偽がはっきりしなかった。しかし、最上はさらに踏み込んで質問を続けた。
「ところで、一体どの先生に呼ばれてここへ来たのかな?」
たとえ和希の言っていることが真実だったとしても、呼ばれてもいない保護者がどうしてここへ来ることができたのか。そのたった一つの謎が、最上に和希への疑念を抱かせるのに十分だった。しかしその瞬間——。
「世成さん!」と、三王の声が保健室に響き渡った。
その声に驚き、最上と和希が同時に視線を向けると、そこには鳳子の姿が見当たらなかった。代わりに、何かを追うように保健室を勢いよく飛び出していく三王の後ろ姿が見えた。彼が駆け出した廊下には、足音が響き渡り、その音はどんどん遠ざかっていった。保健室を飛び出した鳳子を、三王が追いかけたのだろう。
和希は一瞬の間も惜しむように、「鳳子!」と声を張り上げ、彼女を追いかけようとした。その心の中には、錯乱状態にある鳳子を一瞬でも目から離してはならないという焦燥が渦巻いていた。やがて記憶を失い、不安定な彼女がどこへ行ってしまうのか、何をしでかしてしまうのか、想像するだけで胸が締め付けられる。廊下には夕方の薄い光が差し込み、周囲の騒がしさとは裏腹に、和希の心には緊張感が張り詰めていた。
しかし、和希が追いかけようとしたその瞬間、最上がすっと彼の行動を阻むように立ちはだかった。和希の表情には苛立ちが浮かんでいたが、最上の冷静な目がそれを制するように見つめ返していた。
「世成君の事なら心配はいらないよ。彼女追いかけたのは解決部の部長だからね。彼に任せておけば問題はないさ。さて、僕の質問にはいつになったら答えてくれるのかい? 訊き方を変えれば答えてくれるかな?」
最上の言葉が保健室の空気に重く響くと、窓から差し込む夕焼けが、まるで二人の対峙を象徴するかのように、部屋全体を赤く染め上げていった。その赤い光は、まるで燃え盛る怒りを映し出しているかのように、和希の目に憎しみの炎を宿らせていた。彼の瞳にはただ一つの執着が映っていた――鳳子を取り戻したいという、歪んだまでの愛情と激しい怒り。
「解決部……。そうか、君たちは解決部だったのか。なら僕からも質問をしようか。鳳子は何故あんなにも壊れている……? いったい解決部とやらで何があった? 俺の鳳子を返してくれないか?」
一方、最上はその視線を鋭く受け止め、まるで凍りつくような冷静さを崩さずに立っていた。彼の顔には微笑すら浮かんでいたが、その目は底知れない冷淡さを湛え、全てを見透かすような無機質な光を放っていた。和希の燃え上がる憎悪に対して、最上は冷たい氷のように平然と立ち向かっていた。
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