6-6 帰りたい場所



 三王が鳳子の手を掴んだのは、校門のすぐ前だった。深く紅に染まった夕暮れの空が二人の影を長く伸ばし、校門の鉄柵が冷たい光を鈍く反射している。どちらも全力で走ってきたため、肩を上下させながら荒い息をついている。彼の額には小さな汗の粒が浮かび、鳳子も同じように、乱れた呼吸を整えられないまま立ち尽くしていた。

「はぁ…はぁ…っ、世成さん、どこへ行くつもりだったんですか?」

 三王は苦しげに息を整えつつ問いかけた。

 胸の中に浮かぶ疑問は数えきれないほどあった。鳳子の突然の行動の理由、最上を謎の男と保健室に置き去りにしてきたことへの不安が、彼の頭を渦巻いている。しかし、ここで一度に問い詰めることは鳳子に負担をかけるだけだと、理性が三王を抑えた。瞳をわずかに伏せ、最上の言葉を思い出す。

 ――御門君、世成君を任せられるかい?

 その言葉を思い出し、三王は心を静めた。今、目の前で動揺している鳳子に全てを集中させるべきだ。ここは黄昏学園、頼りになる柴崎や他の教師たちがいる。最上のことは彼らに託して、今は鳳子の心に寄り添うべきだと決意する。

息を整え、三王は鳳子の顔をじっと見つめた。夕焼けの赤い光が彼女の瞳に映り込み、そこには戸惑いと焦りが混ざり合っているのが見えた。

「さ、……ん、おう……せんぱい……?」  

 鳳子がかすれた声で三王を呼びかける。その声には不安と混乱が滲んでいたが、ゆっくりと三王を見据えながら、彼女は荒い息を整えようとする。周囲の木々が冷たい秋風にさらされ、わずかに揺れる音が耳に響く。

「俺がわかるんですね。よかった……」

 三王は、安堵の色を隠せないまま鳳子に声をかけ、穏やかに微笑んだ。そして、彼女が少しでも落ち着けるようにと、静かに提案を続ける。

「落ち着ける場所に移動して、一旦休みませんか?」

 鳳子の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。彼女はふと足元に視線を落とし、ささやかな秋の落ち葉が風に舞い上がる様子に目を奪われていた。しかし、三王は焦らず、ただその場で鳳子が答えるのを待っている。彼の内には、最上が抱いていた「彼女自身の口から何かを語らせたい」という思いも含まれていた。

 鳳子はゆっくりと首を横に振り、穏やかに微笑みながら囁くように言葉を紡いだ。その瞳には、何かを悟ったような静かな光が宿っている。

 秋風が彼女の髪を優しく揺らし、夕暮れの淡い光がその横顔を照らす中で、鳳子の耳に揺れるピアスが小さく煌めいた。純白の光を宿すそのピアスは、まるで彼女の中に秘められた強い想いを映し出すかのように輝き、彼女の儚い決意を静かに彩っていた。その微かな煌めきが、風に揺れるたびに一瞬の輝きを放ち、鳳子の表情に一層の深みを加えているかのようだった。

「……帰りたい場所があるんです」

 その言葉には、もうじき訪れる自分の運命を受け入れた者の静けさと、迷いのない決意が込められていた。まるで最後の約束を心に刻むように、彼女はその想いを静かに口にし、遠くに見えない帰り道を見つめるかのように視線を向けていた。



 夕焼けに染まる道を、鳳子はひとり黙々と歩き続けていた。周囲には無機質な街並みが広がり、冷えた秋の風が頬をかすめるたびに、彼女はほんの少し顔をしかめるが、歩みは止めなかった。

 ――帰りたい場所がある。

 心の中で何度も繰り返す言葉。しかし、その「場所」がどこなのか、鳳子の中で次第にぼんやりと曖昧になり始めていた。記憶のひとかけらずつが、指の間からこぼれ落ちる砂のように、静かに確実に失われていく感覚がある。

 それでも足は止まらない。理由も目的も薄れていく中で、彼女の心に残ったのはただ「帰りたい」という切なる思いだけ。自分がどこへ向かっているのか、なぜ歩いているのかもわからなくなっていたが、彼女はこの道を進むしかないと思っていた。たとえ、その先にどんな場所が待っていようとも。

 賑わう人々の波の中、鳳子はひとり静かに歩き続けた。笑い声や談笑が耳に届く中で、自分だけがその場に存在しないかのような孤独感が心をじわじわと侵食していく。肩が人にぶつかっても、誰も振り返らず、まるで彼女の姿がぼやけて見えなくなっていくかのように感じられた。

 雑踏の中で、鳳子は宙に浮かぶ亡霊のような気分に陥っていた。人々の顔も声も、視界にはぼんやりと霞んでいて、まるで遠くから小さな音だけが聞こえるようだった。この場所に自分が存在していないと告げられているかのような、冷たく切ない感覚が胸を締めつける。

 ふと足を止め、頬を撫でる冷たい風を感じながら、鳳子はかすかに呟いた。

「ここにいるのは……だれ……?」

 その声は、自分にさえ届かないほど小さく、喧騒の中に溶け込んで消えた。どこか遠くから自分を眺めているような感覚の中、不意に――

「鳳子」

 背後から、柔らかな温もりが鳳子の肩にそっと触れた。鳳子はゆっくりと振り返る。

 そこには、自分よりも背の高い男性が険しい表情で立っていた。彼の眼差しはただ彼女を見つめるだけでなく、何かを必死に問いかけているようでもあり、全てを取り戻したいと願う切実な思いが浮かんでいた。鳳子の肩に手を置くその手にも、どこか力がこもり、彼女が離れてしまわないようにと願うかのように、彼女をそっと抱きしめた。

 鳳子はされるがまま彼にそっと身を寄せた。鳳子はその顔に見覚えがある。知っているはずなのに、どうしても名前が思い出せない。胸の奥で何かが引っかかり、困惑したまま彼の顔を見上げた。

「……ぅ……あっ…………ッ」

 絞り出すように忘却した名を言葉にしようとしたが、息が詰まるだけだった。焦燥感に涙を滲ませる鳳子の様子を見た彼は、全てを察した。そして静かに口を開き、彼女の求めるものを与えようとした。だが――。

「――だめ」

 柔らかな鳳子の唇が、彼の言葉を静かに塞いだ。その瞬間、彼はまるで時間が止まったかのような感覚に包まれ、心が驚きに震えた。世界が一瞬で遠のき、周囲の音も光も消え失せ、ただ鳳子の存在だけが鮮明に感じられる。その温もりが、自分の全てを覆い尽くすように、彼は何も言えず、何も考えられなくなった。鳳子の唇が離れるまでの刹那が永遠のように感じられ、その穏やかな瞬間が心に深く刻まれていく。

「忘れてなんていないもん……! だから、待って!! 言っちゃやだ!」

 鳳子は震える瞳で彼を見つめながら、何かを必死に探し出そうとするかのように、失われかけていた記憶の欠片を必死にかき集めるように言葉を紡いだ。彼女の胸の奥で、抹消されたはずの温かい想いが再び灯る。それは、ずっと心の奥に押し込めていた淡い願いであり、今にも砕け散りそうなほど儚いものだった。

「私にとって貴方は……この世界で一番大切な人です。そして特別な人で、傷付いて欲しくなくて……」

 彼女の声は細く震え、秋の澄んだ空気の中で、彼の耳にしっかりと届いた。彼女の手は知らずのうちに小刻みに震えていて、その緊張が彼にも伝わる。言葉を口に出すたび、まるで心の内を剥き出しにされるような痛みを感じながら、それでも鳳子は続ける。

「……友達じゃなくていい。恋人じゃなくていい。家族じゃなくていい。だけど――」

 彼女の言葉が途切れた瞬間、二人の間に静かな間が訪れた。周囲の世界が遠ざかり、彼女の吐息や心の鼓動だけが鮮明に彼に伝わるような、不思議な静寂。彼はじっと鳳子を見つめ返し、その目にはまるで自分が守るべきものを見つけたかのような強い決意が宿っていた。

「私の居場所は貴方の隣にあると、信じたい……!」

 彼女の言葉は震えていたが、その中には確かな決意が込められていた。彼女は、自分の想いがどれだけ儚くても、今だけは伝えたいと願っていたのだ。彼女の瞳には、夕陽が差し込み、まるで消えゆく星が一瞬輝くかのように潤んでいた。

「それでね、それで……」

 再び彼女の言葉が詰まる。彼女の胸の奥で募る切なさが溢れ出しそうになり、抑えきれない感情が涙となって滲んだ。そして、最後の言葉をようやく絞り出すように、彼女は小さな声で告げた。

「ふうがくんにも、そう思って欲しいな……」

 夕焼けに照らされた鳳子の瞳は涙で潤み、彼女はかすかに微笑みながら風雅を見上げた。その瞳に映る彼の顔は、夕陽の赤と秋の静かな空気に包まれて、まるで彼女の帰りを待ち続けていた温かな光のように見えた。

「ああ、……お前の居場所はここにある。俺の隣に、ちゃんとある。……おかえり、鳳子」

 風雅の優しい声が秋の冷えた空気に溶け、鳳子の胸の奥に静かに染み渡っていく。彼の目に映る鳳子の姿は、最後に会った時と変わらず、どこか手の届かない翳を纏っていたままだった。薄暗い夕焼けが二人を包み込み、彼女の赤く腫れた右頬に目を留めると、風雅の胸にわずかな痛みが走る。

 聞きたいことも、話したいことも、伝えたいことも、山ほどあった。しかし、風雅はその全てを胸の奥に押し込め、ただこの瞬間に浸っていたかった。冷たい風が二人の間を吹き抜け、彼は鳳子の肩をそっと抱き寄せた。

「ただいま、ふうがくん。……ふうがくん、ふうがくん……!」

 鳳子は震える声で彼の名前を何度も繰り返し、その声が夜の闇に消えてしまわぬよう、必死に彼の存在を確かめるかのように強く抱きしめ返した。沈みゆく秋の夕陽が最後の輝きを放ち、空は徐々に濃紺へと変わり、街の明かりが一つ、また一つと灯り始める。やがて静かに夜が訪れ、冷たい風が二人の間をそっと吹き抜ける中、彼らの影は寄り添い合い、まるで永遠の約束を交わすかのように、互いの温もりを確かめ続けていた。

 

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