6-6 帰りたい場所
――僕は至って冷静だよ。何も問題はない。
最上の言葉が、鳳子の頭の中で反芻していた。彼女は迷宮で起きた殆どの出来事が曖昧で、薄れゆく意識の中で耳に届いた言葉がそれだった。
彼女が目を覚ましたとき、そこは保健室のベッドだった。窓から差し込む秋の夕焼けが、薄いカーテンを通して優しい光を室内に広げている。朧げな意識のまま、鳳子はゆっくりと体を起こし、ぼんやりとした視界で保健室を見渡した。
「鳳子、やっと目が覚めたんだね」
聴き馴染みのある声が耳に届き、鳳子はその方向に視線を向ける。ベッドのすぐ横には椅子があり、誰かが座っている。その人物は夕焼けに照らされて輪郭がほのかにオレンジ色に縁取られている。顔は影に隠れ、表情は見えないが、どこか微笑んでいるような気配が伝わってくる。しかし、彼の姿を見た瞬間、それが誰かを理解したが、鳳子の胸に微かな違和感がよぎった。鳳子はぼんやりとした頭でその違和感の正体を掴もうとしたが、答えは浮かんでこなかった。
「鳳仙、先生……」掠れた声で鳳子は呟いた。
選挙戦はどうなったのか。迷宮は果たして解決できたのか――次々に浮かぶ疑念が、鳳子の胸の奥で不快なざわめきとなって渦を巻いていた。このまま解決部の掲示板を開けば、全ての疑念が晴れるのではないか。そう思い、鳳子はポケットからスマホを取り出しかけた。
しかし、ふとした瞬間に胸を締めつけるような大きな不安が脳裏をかすめ、鳳子の手は止まった。「真実」を知ることへの恐怖が、胸の奥で冷たい塊となって彼女の動きを封じていた。彼女は無意識のうちに理解してしまったのだ――「真実」は決して優しく迎えてくれるものではなく、むしろ残酷で、あまりに冷たい現実であることを。
画面に映るかもしれない「現実」を、彼女は本当に受け入れられるだろうか? その答えを知ることが、予想以上に恐ろしく感じられ、鳳子はその手をポケットに戻してしまった。まるで、真実を知ることで崩れてしまう自分を、ぎりぎりのところで支えようとするように。
「僕たちのお家に帰ろう? 鳳子」
和希の声は優しく、穏やかな響きを含んでいた。彼の手がそっと鳳子の頭に触れ、優しく撫でてくる。しかし、いつもならその温もりに安堵するはずの彼女の心は、どういうわけか不安に揺れた。頭に触れるその手が、どこか冷たく、触れられるたびに胸の奥に小さな恐怖が滲んでいくように感じられた。
「……いやっ!」
鳳子は、その感覚に耐えきれず、反射的に和希の手を払いのけた。その瞬間、鳳子の耳に揺れるピアスが夕陽を受けて淡い光を反射し、きらりと煌めいた。
「あ……ご、ごめんなさい先生。……悪気はなくて……」
はっとして和希を見上げると、彼は驚いたように目を見開いて彼女を見つめ返していた。
「ピアス……あけたのか」
その輝きに、和希の表情がふと強張る。ピアスの小さな光が彼の目に焼きつき、彼の心にかすかな動揺を引き起こしたのだろう。鳳子はその変化に気づかず、ただ無意識の恐れに胸が締め付けられているようだった。和希の視線はそのピアスに吸い寄せられるように注がれ、表情がさらに固くなっていった。夕焼けの中で、二人の間に漂う緊張感が一層際立っていく。
「鳳子」と和希は低い声で呟いた。
「君が数日間帰らなかった事も、無断でそんなピアスをあけたことも、僕は別に怒ったりしない。ただ……君は今、壊れかけている。それを守れるのは、正せるのは僕しかいない。だから、一緒にお家に……帰ろう?」
不意に鳳子の視界が暗くなった。和希がそっと彼女を抱きしめたからだ。いつもなら、その胸の中は鳳子にとって何もかもを忘れられる安心の場所だった。しかし今は、和希の腕に包まれていながらも、心の奥底で得体の知れない不安がじわりと広がっていく。まるで、いつもの和希とは別の存在に抱きしめられているかのような感覚。鳳子の胸の中で、小さな疑念が氷の欠片のように冷たくざらつき、不快に胸を突き刺した。
――「真実」が残酷だと知ったのは、いつからだっけ。
――ずっと家に帰れずにいたのは、何故だったのかな。
断片的な記憶が混濁し、意識が遠のきそうになる。脳裏に漂う疑念が、彼女の無意識をかすかに震わせる。気づかぬうちに、その声が和希に向けられ、静かに問いかけていた。
「先生――私の双子を、殺したことがありますか……?」
鳳子のか細い声が空気を震わせた瞬間、世界が凍りついたかのような静寂が辺りを包み込んだ。彼女を抱きしめる和希の腕に変化はなかった。まるで、時間が止まってしまったかのように、彼は何も言わず、何も動かず、ただ彼女を捕えていた。
鳳子の心臓は激しく鼓動し、胸の奥で不安が波のように押し寄せていた。彼女は和希をずっと信じてきた。彼の優しさと温もりに包まれるたび、家族のような安心感を覚えていた。しかし、その信頼と同じくらい、榎本が明かした真相も重く心に残っていた。どちらも信じたくて、鳳子は何かが間違っているのだろうと考えた。そして和希ならば、きっと何が間違っているのだと、彼女の不安を払拭してくれるはずだと願っていた。
「鳳子」
やがて、和希の声が静かに鳳子の耳に届いた。その声はいつもと変わらず穏やかで、冷たさも恐怖も微塵も感じさせなかった。その安心感のある響きに、鳳子は一瞬だけ疑念を忘れ、和希の顔をじっと見上げた。しかし、彼の顔は影になり、その表情はよく見えない。
「どこでそれを知った?」
その声に、鳳子の胸の奥で冷たいものがひやりと広がった。和希の問いかけは、彼女がわずかに抱いていた希望を無情にも打ち砕く。和希の答えは、榎本の言葉こそが「真実」であり、それが否定しようのない現実であることを突きつけるものだった。
その瞬間、鳳子の中で何かが壊れる音がした。信頼していた人が、一転して恐怖の影に覆われる。その衝撃に、鳳子の体はかすかに震え、目の前の和希がまるで別人のように思えた。
心の奥で冷たい闇がじわりと広がり、彼女は恐る恐る和希を見上げた。かつての温もりは感じられず、彼の視線が自分の奥底を探ろうとしているようで、ぞっとするほど冷たかった。
その瞬間、和希は鳳子を容赦なくベッドへと押し倒した。彼の片手が彼女の両腕をがっちりと押さえつけ、その圧倒的な力に鳳子は微塵も動けなかった。ベッドの軋む音が静寂を破り、彼の重い呼吸が耳元で不気味に響く。鳳子は恐怖に凍りつき、ただその場に縫い止められるようだった。
和希の目が鋭く光り、まるで冷たい刃物で彼女を貫くかのように視線を突き刺してくる。
「言え。痛い思いをしたくないなら、素直に話せ」
その低く冷たい声が、鳳子の耳に届く。彼の言葉の端々に、何か底知れない冷酷さが滲み出ている。その瞬間、彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて感じたことのないほどの危機感。鳳子の胸の奥で何かがざわめき、脈打つような恐怖が全身に行き渡る。理解が追いつかないまま、ただ混乱し、必死に視線を逸らそうとするが、彼の鋭い目がそれを許さない。
「……や――」
鳳子がかすかに拒絶の言葉を漏らした瞬間、右頬に鋭い衝撃が走った。焼けつくような激痛が広がり、彼女は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できなかった。視界がぶれる中で、頬に残る熱と痺れが現実を引き戻す。鳳子にとって、痛みは過去に何度も経験したもので、恐れる対象ではなかったはずなのに――和希の暴力に、彼女の心は一瞬で砕け、底知れない恐怖の淵へと突き落とされた。
和希の冷たく鋭い声が鳴り響く。
「もう一度聞く。どこでそれを知った?」
その問いは低く鋭く、容赦のない刃のようだった。鳳子は何とか応えようとしたが、喉が詰まり、言葉が出てこない。息が細かく乱れ、胸の奥で恐怖が渦を巻くように膨れ上がる。彼の質問に「榎本」の名前を答えようとしたわけではなかった。ただ、もうこれ以上痛めつけられるのが怖くて、許してほしいという思いが込み上げたのだ。気づけば瞳には涙が溢れ、鳴り止まない呼吸音が彼女の耳に響く。
和希はその姿にハッとし、一瞬、己の行動の意味に気づく。彼が愛するはずの鳳子を自分の手で傷つけ、恐怖で怯えさせている。そのせいで彼女は過呼吸になり、酷く動揺している。冷静な会話など、今の彼女に期待できるはずがない。
深まる夕闇の中、和希は一瞬、手の震えを感じる。胸に湧き上がる後悔と焦燥が、彼の心をかき乱していた。
「……どう、し……て……」
息を詰まらせながらも、彼女は呟いた。鳳子の脳裏に、空白の記憶が蘇る。それは暁に課せられた「トロッコ問題」にて、和希が殺人を行ったことを示唆する記憶だった。鳳子にはもう、和希は「人殺し」になっていた。
「どうして、人を……殺せる、の……?」
その問いは和希に向けたものだったが、なぜかその言葉が鳳子自身の胸を深くえぐるような痛みをもたらした。
――お前は人殺しだ。
遥か遠い日の記憶。施設で大人たちから投げつけられたその言葉が、頭の中でこだまのように響く。封じていた記憶の扉が無理やりこじ開けられたかのように、過去の痛ましい出来事が押し寄せ、幼い頃の精神的な傷が次第に彼女の思考を絡めとっていく。鳳子の視界がゆらぎ、現実と過去が交錯するような錯覚に囚われていった。
鳳子の瞳は虚ろで、焦点が定まらない。混乱した表情のまま、口元が小刻みに震え、彼女はぽつりぽつりと呟き始めた。
「……私が……私が、殺したの……? 私が……。ちがうの、だって……」
彼女の声は徐々に震え、目が見開かれたかと思うと、瞬く間に涙が溢れ出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、良い子になるからぁ……! ごめんなさい、ごめんなさい」
まるで誰かに懇願するかのように、鳳子はか細い声で言葉を紡ぐ。しかし、その視線はどこにも焦点が合わず、まるで過去の記憶の中を彷徨っているかのようだった。記憶が錯綜する中で、ふと彼女の唇から別の名前が漏れる。
「にみりちゃん……私は……」
その名前を口にする瞬間、彼女の顔は苦しみで歪み、両手で耳を塞いで俯く。
「死なないで、いやだ……何処にもいかないで……私を置いて行かないで……一人にしないで……」
その言葉と共に、鳳子の身体が震え始め、耐えきれない恐怖に全身を蝕まれていく。過去の出来事と今の現実がごちゃ混ぜになり、彼女の意識はますます混濁していった。
鳳子が暴れ出さないよう、和希はそっと優しく彼女を抱きしめた。先ほどの混乱とは違い、鳳子は小さな手で彼の白衣を掴み、縋るように力強く握りしめた。震える身体を預け、彼に全てを委ねるかのように、鳳子はその胸に身を沈めた。
「助けて……」
泣きながら、鳳子は懇願の言葉を口にした。
「大丈夫だよ、鳳子。それは全部悪い夢だ。その手も体も心も、穢れてなんていない。君を傷付けるものはどこにもいない」
和希は、鳳子の耳元でそっと宥めるように囁いた。夕陽の光が差し込み、彼女の純白のピアスが紅色に染まって微かに揺れる。和希は背中をゆっくりとさすり、頭を優しく撫でる。その手は時折、彼女を包み込むように強く抱きしめ、まるで傷ついた心を癒すかのように優しい言葉を繰り返し囁いた。
「助けて、風雅くん……」
その名前を聞いた瞬間、和希の胸の奥に冷たいものが刺さるような感覚が走った。目の前の鳳子を抱きしめているはずの自分ではなく、別の人物に助けを求めた彼女。その名前が、和希の心を凍らせるような嫉妬で満たしていく。
胸の内でわずかに狂おしい感情が渦巻くのを感じながらも、彼は表情ひとつ変えずに彼女を抱きしめ続けた。内心で燃え上がる嫉妬を必死に抑え込むように、和希は優しげな囁きを鳳子の耳元に届けるが、その瞳には冷ややかな光が宿り始めていた。
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