ハッピーフェイカー
本当に何にもない所から急に身体がびくっと震えた感覚がしてびっくりして目が覚めた。
「…………」
正直、頭の中が真っ白で何も考えられないのでそのままぼーっと目の前の空間をただただ見つめる。多分、思い出すという作業がバグっている。そのうち、存在自体があやふやな気がしてきて意識だけがここに浮遊している気にすらなってきた。
自分が何なのかなど心底どうでもいい気分なので、身体のことも自分のこともしばし忘れていた。
「……? え、……起き……てる……?」
「…………」
「勿斗……?」
ナイト。
知っている。これは俺の名前だ。まったくだれだよ、こんなアホみたいな名前つけたのは。眼球がきろっと動いた。
「起きた? 待ってろ、今先生呼ぶから」
「さくや」
「ん? 動くなよ。一応手術してんだから」
「……電、車賃、あと……泊めてくれて、ありがと……今俺返せる、待って……財布……」
「…………ええ……? こわ、錯乱てやつ……? おい動くな、どうしよ、お~よしよし~落ち着け~~大丈夫だからな~~~」
すっと手の平で両目を覆われて目の前が真っ暗になる。反射的に目を閉じると、空っぽだった頭の中に本当にちょっとずつちょっとずつ過去からの記憶が積みあがっていくのが自分で分かった。何とも言えない不思議な時間に没頭していく。
あれはそう、薄汚れたケンネル。お気に入りの黄色い毛布と小さなひつじのぬいぐるみ。物心がついてからもしばらくは押し入れでやり過ごしたきたお母さんの嬌声。灯りの筋から煙たく燻ってくる苦いにおいは猛毒で、吸い込んだら死ぬのかもとずっと思っていた。汚れたひつじに顔を押し付け突っ伏して眠る夜。部屋に充満するのはいつだって酒とカップラーメンの臭い。それからお母さんの香水。いつかの大量の一万円札。酔った男にひっぱたかれて泣いていると激怒したお母さんが持ち出したのは包丁だった。すごく怖かった。
酒を飲んで暴れる男も、包丁を突き出して怒鳴るお母さんも、暴力を振るわれることも全部怖かった。だから、そうならない為なら誰からの何にでもいいなりになれた。何でも言うことをきけた。お母さんが怒った光景は強いトラウマになった。
そのあとからいつの間にか刃物の先っちょや鋭く尖った先端を見ると冷や汗が止まらなくなるようになった。包丁が使えないとまともな自炊なんて出来ない。主に食べるのは炊いた米とふりかけ。たまに食べる野菜と肉は手で千切って焼いた。お母さんの手作りご飯なんて食ったことがない。でも、自分が生きていたいがために、お母さんのお金で何かを買って食べるのはなんだかすごく苦痛でいつも辛かった。
そんな中、男が置いていった煙草だけは唯一自由なゴミに思えてそれを一人で吸っているときだけは生かされているとも自分のじゃないとも思わないで良くて、ほっと楽になった。
そのお陰で中学の頃には既にニコチン中毒だった。前に一回だけ、朗二に煙草臭いと言われたことがある。食べかけのプリンを無理やり口に突っ込まれて「ガンになるからこっちにしろ」と真剣な顔で諭されたのを何でか思い出す。朗二はあの頃から優しかった。
猛毒には当たり前のように中毒性があり、今はもう煙草がないと一時間持たない。何時間寝ていたのだろうか。煙が脳に沁みるあの感覚が恋しくてたまらなくなる。同時に喉の奥から蘇る酒の味、ゲロの味、舌の味、ああ、なんだか世界一美味いもんが食いたい気分。
離れていた身体と心がくっついて重なって、ようやく地に足がついたような気がした。人間に成った。刺されたこともすっかり思い出したので恐る恐る腹を撫でてみる。
そこでふと、アスカさんのナイフは自分に一体何を求めていたのだろうと冷静に思った。
「朔夜……」
「なに。いいよ別に金はもう」
「何でいんの……?」
「あ? そりゃてめーが身元保証人に俺の名前と住所書いたからだろな。マジで恩知らずにも程がある。そういうのは相談してからしないふつう?? 借金とかしてたら今度の今度こそ絶対許さねえからな」
「保証人? 刺されたから? 店から連絡行ったってこと?」
「そうだよ。お前親とどうなってんのか分かんないからとりあえず来たけどさ」
「……そっか……。助かったよ、ありがとう……全然連絡もしてなかったのに……」
「ほんとだよ。てかお前肝臓悪いらしいぞ。あと胃にポリープあるって。いい歳こいてあんま無茶すんなっつの」
「えっ……」
自慢じゃないが、病院には皮膚科と歯医者にしか行ったことが無かった。健康診断なんか高校を卒業してから一度もやっていないので突然の肝臓と胃という生々しいワードにちょっと震えてくる。酒の飲み過ぎで肝臓を壊して入院した先輩も、胃がダメになって仕事を辞めた先輩も数えきれないほどたくさんいた。
「どうしよう、酒飲めないと仕事になんないなあ……」
「……。やめりゃいーじゃん。どう考えてもホスト向いてたとは言えない体たらくですけど?」
「いや、他に何やんだよ俺」
「住所と電話番号あればなんでもやれるんじゃなかったんすか」
「…………はは、もうなんでもは無理だよ、俺まともじゃないから……」
冗談じゃなくそう思った。二年経った今でさえまだ新人気分で、日々の仕事をこなすだけで精一杯。全力でやるしか能のない自分が毎回全力で目の前の仕事と向き合っていられるのはこの仕事だからだと思っている。毎日同じことは起こらないしお客も勿論機械じゃない。
逆に言ったら毎日新しいことしか起こらない。繰り返しや学習が苦手な自分にとって、よく言えば臨機応変にその場しのぎの口が勝手に働いてくれるのは最早天職と言っていいと思う。
読み書きや計算を苦にしたことはないけれど、今となっては一般的な職業が務まるとは到底思えない。
「なんでもいいけど、お前は嘘つかない仕事の方がいいよ」
「……」
「サービスって職種は向いてんだから、もっと楽にやってもいいんじゃないの」
この時は、何のことを言われているのかピンとこなかったが、朔夜の言う通りホストとはサービス業の中でも最も身体を張った過激で過酷な職業。儲かると言っても代償はかなり大きく本当にサービス内容に見合った給与かと言われると一概にそうだとは言えない。
楽に稼げるとか、夢があると言われることもしばしばあるけれど、この世界にはそもそも楽な仕事なんてありっこない。
仕事に好きも嫌いも求めていなかったから分からなかったけれど、自分の遣り甲斐や向き不向きを上手く把握して無理なくお金を発生させるというのがきっと一番楽な稼ぎ方なのだろうとぼんやり思った。それが出来るかはまた別として、そういう仕事が出来たらきっと今度こそ誰にも心配や迷惑をかけないんじゃないかとも。
その後も朔夜はまめに顔を出してくれていて、本当に心が救われた。なんだかんだで退院の時も迎えに来てくれることになっていたのだが、そこには朗二も一緒に居た。病室をあとにして、一人でロビーに降りた先で二人が並んで立っているのを見た時、やっぱり仲良しだけではなかったのだろうなという雰囲気を鮮明に感じ取った。
それを少し、眩しくも思う。
「勿斗お……大丈夫かあ……? しばらくうちにおいで……もれなく朔夜もいるけど……」
「家主を邪魔にするな!!!」
「……いや、もう金もあるし、すぐ家決めるから大丈夫。ありがとな、朗二」
「……そっか……。引っ越し手伝うから呼んでね」
まだホストやるの、と遠慮がちに朗二が聞くので当分辞められる算段もないしひとまず頷いた。
無計画に退いてもまた人に迷惑をかけないとならなくなる。一応、ここはちゃんと学習しているというアピールのつもりでもあった。
これから先も一人で上手くやれる。なるようにしかならないけれど、それが自分の人生だから。
「酒得意そうだし、バーテンとかどう? うちで雇おうか?」
「おい朗、またお前は」
「いいじゃん。俺弟かバイト欲しかったんだよね~」
「? うちって……? お前ん家バーかなんかなの?」
「俺先月店開いたんだ。落ち着いたら飯食いにおいで」
「み、店……!?!? え、ど、え!? 何、飯や!? どゆこと!?」
「まあ……カフェバー的な。へへ、念願。在学中にバイトして貯めてたからさ、立地も内装もイイ感じで嬉しいんだよね!」
そう言って本当に嬉しそうに笑う朗二の顔が、生き方が、ここにあるすべての事実が、今度こそ眩しすぎて何でか胃の奥がぎゅううと軋んだ。だって、あんまり今の自分の姿とかけ離れていて、あんまりにも朗二がまっとうに輝かしい人生を歩んできていて、自分達の間にあった歴然とした深い深い溝にたった今、気が付いてしまった。
否、前から朗二には気後れして強く言えないところが確かにあった。でも今ならその理由が明確に理解できた。朗二といると自分がちゃんとしていないことに強い強い劣等感を抱くからだ。
きちんとした自分の考え方、誰にも隔てない気さくな喋り方、軸を持ったぶれない生き方、上手くバランスのとれた交友関係、はっきりとした夢、目標に向かっているのだという満ち溢れた希望と自信、ああ。
ちゃんと自分の人生を自分で決めて誰にも媚びず誰のせいにもしないで自分の意志で今日を満足に生きられている朗二が、心の底から羨ましかった。妬ましい。そして、疎ましい。
こんなに一生懸命生きてるのに、何で俺は俺の選んだ人生を胸張って生きられないのだろう。
「勿斗」
厚く劣等感の被膜に覆われてしまった弱い心がどくどくと生み出す汚い感情に支配されてしばし呆然と立ち尽くしてしまった。
でも、名前を呼ばれて我に返ると同時に朔夜とばっちり交わった視線のまま何も言えなくなる。朔夜の瞳は珍しく感傷的に揺れていてそれに釘付けになってしまった。
「……」
「朗はこういうやつ。でもお前も俺も、朗とは違う。別にそれでいいじゃん。何がそんなにショックだよ」
「え……」
「やってみろよ。ホストにも弟にもバイトにもなんなくていい。お前がなりたいものに、今からなれればそれでいいだろ、違う……?」
「…………」
「てか、そんなことより俺は、お前がなんでもやってやれないことない方が問題だと思うよ、たまたま生きてたから良かったけど、間違ったら死んでたかもしれないんだぞ、なのに、……朗のまっとうな人生見てさ、羨ましがってる場合じゃねえだろ、……馬鹿じゃねえのほんとに……」
堪えきれなくて一瞬斜め下を向いた朔夜からぱたぱたっと涙が落ちた。それを隣で見ていた朗二は、くっと息をのんでからゆっくりと朔夜の腕を引き寄せてぎゅっと握りしめた。
そして、宙を見つめながらごめんと呟いた。
「……俺浮かれてんだか無神経なこといっぱい言ってた……勿斗、大変だったのにごめんなさい……朔夜も、来なくていいって言ってくれた意味分かった、空気読めなくてごめん」
「……」
「自慢したつもりなかったんだけど、確かに今言うことじゃなかった……。オトートとかバイトとかも勿のこと軽んじて言ってたつもりなかったんだけど、そう聞こえてたらほんとにほんとにごめん。勿斗が仕事初めてからも朔夜いつも心配してたよ、帰ったら絶対連絡ちょうだいね」
正午前の陽光をたっぷり取り込んでひどく明るい病院のロビーは午前中の診療を終えた患者で賑わう。その片隅で、女に刺されたホストの退院に付き添う二人の男というどこかちぐはぐな光景は確かに朗二みたく普通に生きていたんじゃ描けないものだろうなとなんだか肩の力が抜けてふと面白くなってくる。
朔夜の言う通り、朗二と自分は勿論、朔夜とも全く違う人間。違う生き方で違う人生なのだから、今見えているものがそれぞれ違っても、それでいいはずだった。
そう心から思えたので、ひとまず今日まで目の前のことに全力で生きるという生き方をしてこられた自分を頑張ったのだと褒めて認めてあげようかなとちょっとだけ思う。
それから、ホストという職業はキリのいいところで辞めようと思った。お母さんの入れ込んでいたという歌舞伎町のホスト。意識しないようにしていても、その人との間に生まれた自分は、どこかそういう世界でしか生きられないものなのかもしれないと諦めて甘えてきたような節もある。
人は見たことのないものにはきっと成れない。だから、これから先の人生で自分がなりたい自分をちゃんとこの目で探しながら生きていってみようと思った。
「……朗、……今日やっぱり、一晩泊めてよ」
「うん? もちろんいいよ! ね、さく! 俺は店あるけどさくと一緒にいて!」
「店行ってみたい」
「ダメ…………」
「平気なら俺はいいけど、病み上がりなんだから無理するなよ」
「ダメ、むかつくから…………」
「もー、さく、泣いて恥ずかしいの分かるけど、一旦一緒に帰って店まで連れて来て! よろしくな!」
「ぜったいやだ……むかつくし……」
どこか朗二に甘えるように俯いて拗ねた素振りをする朔夜の様子に、二年前よりも明らかに濃い目の親密さを感じてきっと隠すのはもうやめたんだとなんとなくほっとした。
思えば、高校生の時から誰から見ても相思相愛のお似合いで、いつも仲が良くて羨ましかった二人だ。
二人のことを面白半分で噂する人は誰もいなかったけれど、多分同じクラスだった人達なら皆勘付いていたと思う。
二人が真剣に好き合っていたこと。それがどれほど真剣か見ているだけで分かるほど互いに本気の恋愛だったということ。
「行こ、勿斗!」
朗二に呼ばれて顔をあげると、二人で並んでいるこの世界線がひと際輝いて見えた。なりたい自分はすぐには分からないだろうけれど、今思うこととしては朔夜と朗二が他所に自慢できるような友達ではいたいかなとなんとなく思ったら、今の自分があんまり情けなくて思わず一人で笑ってしまった。
「えーーーっ朔夜酒飲めないの!?」
「……………………飲めるよ?」
「飲めません。アレルギーなんだからやめろ。はい、けが人もまとめてミルクセーキどーん」
「…………おいちい…………」
「……おいちいね……」
「ゴボウの唐揚げ食べる?」
「うん!」
「たべる」
>>>>ハッピーフェイカー(終)
powered by 小説執筆ツール「arei」