気付いて、俺の。




「遅いぞっ、山姥切国広……うん? それは……夜鳴き蕎麦か?」
「……そら、花見に何もないのは寂しいだろう」
「おぉ、態々ありがとな! ……あち、っ」

 すぐに済むから早く来い、と呼んだのに中々どうして来ないものだから、いい加減待ち惚けていた所だ。この男にしては珍しく気が利くと思いきや、受け取った椀は嫌がらせのように熱かった。黒い椀から立ち込める、白い湯気と食欲をそそる出汁の香。取り落とさないよう慌てて淵と高台に指を添えるが、熱いものは熱い。抗議の眼差しを向けても、目深に被られた襤褸布によってできた濃い影で、その表情はよく分からなかった。そも日中であればまだしも、今は夜だ。縁側を含む渡り廊下には、足元を照らす程度の薄明かりしか燈ってはいない。太刀の目は、打刀のように明るくない。それでも男がどんな顔をしているかなど、声色からは容易に想像がついた。

「はは、火傷するなよ」
「この程度で、誰がするかっ」

 悪態を吐きつつ男と共に縁側に腰かけ、庭の先へと視線を向ける。そこには明かりの燈る、桜の木々が見事に咲き誇っていた。折角立派に育った桜だというのに昼だけ愛でるのは勿体ない、夜も花見ができるよう桜を着飾ってやろうと思い立ったのが事の始まりだった。本丸中の行灯の付喪神達に頼んで霊気の明かりを分けてもらい、花当番を同じくする山姥切長義の指示の元、せっせと飾り付けていたのだ。本丸全体でのお披露目は明日の夜を予定しているが、しつこい手合せにいつも付き合ってくれている礼も兼ねて、この古参刀の一振を一足先の夜桜見物に誘ったのだった。誰に頼まれずとも花の世話をこなし、花を愛でる唄を好んで口ずさむこの刀には、艶やかな夜桜の姿をいの一番に見て欲しかったのだ。長義の見立て通りに飾り付けた故、間違いはないだろうが……喜んでくれたらいい。そう思ってのことだった。

「桜、綺麗だな。本丸でこういう愉しみ方をする日が来るとは思わなかった」
「……! そうか、そうだろう!」
「ああ、感謝する。皆より先に、いいものが見られた」

 行灯の明かりで照らし出される桜の木々は、壮麗の一言に尽きる。燈るひかりは愛らしい花を闇夜に浮かべ、時折吹き渡る強い風で舞い上がる花びらに影を落とす。昼間のそれとはまるで様変わりした、幻想的で見事な光景。多くの|付喪神《かみ》が集う特殊な環境も相俟って、御伽噺の天界も斯くやといった美しさだ。長義共々我ながら、中々良い仕事をしたのではないかと大包平は思っている。けれど縁側はどうにも暗くて、この男の顔が見えないということだけが本当に惜しかった。今どんな顔をしているかなど、手に取る様に想像がつくだけに。いっそ渡り廊下をぼんやりと照らしている置行灯のひとつに声を掛け、手元に呼び寄せてしまいたいくらいだが……他者に顔を覗き込まれることを兎角厭うこの男のことだから、明かりで照らせば逃げてしまうに違いない。素直ではないこの男と折角得た機会、男の意固地ひとつで無駄にしてしまうのも惜しいだろう。なので残念ではあるが、そっとしておくことにする。
 いただきますを片合掌で済ませ、熱々の蕎麦にふぅ、と息を吹きかけながら少しずつ啜る。日頃よく口にしている手軽なものも、桜を前にしているとまた格別な味わいになる。夜桜見物をしながら蕎麦をいただくというのも、乙なものだ。……とはいえ、外の空気は随分と冷たい。一日中寒さが続く冬とは違い日中は暖かく過ごしやすいが、この時期の夜はまだまだ冷える。この急激な寒暖差が故に桜を長く愉しめるわけだが……昼日中の暖かさから打って変わった冷たい夜風に晒され続ければ、いくら男士として鍛えていようが身体は堪えるに違いない。酒を好む連中であれば不要だろうが、明日の夜は皆に羽織や上着を持参するよう伝達しなければ……そう、考えて。

(……ん、あれ?)

 そういえば今宵の蕎麦は、以前の出陣帰りに食べたそれよりもずっと、熱い。舌にも、喉にも、腹に収まっても尚、温かさが後を引くほどだ。先の出陣では手入れに時間が掛かった為に、戻った際には手入れが早く終わった仲間達とこの男で食事の準備が済んでいた。すぐに食べやすく消化にも良いよう、柔らかめに茹でた蕎麦を少し温めのつゆに浸して。今宵もつい先ほどまで明かりの調整に集中していたため、花見の供の用意まではしていなかったのだ。夜桜見物は明日が本番だ、元よりこの縁側からはほんの少し眺めるだけのはずだった。ただ一目でいいから、この光景を一番に見せたかった。それだけのことだ。男がこの短い花見に態々持参してくれた蕎麦は、湯気が立ち昇る程つゆが熱く、それでいて麺にはしっかりとしたコシがあった。聞けば茹でた後一度冷水で洗い締め、つゆに入れる際湯通しすると、温かくも蕎麦の食感がしっかりと残る仕上がりになるのだとか。

 ―――四半刻にさえも満たぬ浅い花見に、随分と手間を掛けたものだ。

「……山姥切国広」
「なんだ」
「ん、その……ありがと、な」
「それはさっき聞いた」
「そう、じゃなくて、だな……っ」
「なんだ。……言葉にしてくれなきゃ、分からないんだが?」
「ぅぐ……ッなんでもいいだろう、ありがとう!」

 熱々の蕎麦のお陰で指先も、身体の芯も、ついでに頬まで温かい。むしろ冷たい夜風が心地よく感じる程に、熱くなっている。けれどそこまで口にするのは、なんだか負けたような気がしてとても悔しくて、謂ってやらないことにした。だって嫌でも分かる、襤褸布と暗闇で顔など碌に見えやしないのに、その細められた翡翠のまなこと弧を描く口元は目に映るようで。この男だってきっと、此方が今どんな顔をしているのかはっきりと見えていることだろう。

 風に乗って運ばれてきた桜の花びらがひとつ、ひらりとつゆに舞い落ちた。
 そら見たことか、桜に文句を言われてしまったではないか。


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