とびきりのめるてぃはーと・すいーとをどうぞ
「……な、なぜだ」
ボウルの中の細かく砕いたチョコレートは、湯煎でいい感じに溶けてくれる予定だった。いつか加州清光や乱藤四郎、小豆長光の付き添いで行った万屋街の食べ放題菓子店にあった……チョコレートフォンデュ、だったか。あんな感じの、つやつやできらきらした滑らかな液体になるイメージだったのだ。あくまでも、イメージである。ほぼ油分で出来ているこれが、温めて溶けない道理などないだろう。しかし現実とは、常に残酷である。掻き混ぜれば掻き混ぜる程、チョコの表面はざらざらに波打ちごろごろと歪なだまを形成していく。堪らず縁側で洗濯物を畳んでいた脇差の兄弟に助けを求めたのだが、兄弟はチョコだったものを見た途端に苦い顔をした。
「これ、分離しちゃってない?」
「なッ……」
「チョコに水分が混ざると良くないって聞くし、気付かない内にお湯が混ざっちゃったのかもしれないね……」
辛うじて溶けている部分と、逆に固まっていく部分でもうあべこべだ。ボウルの中の哀れなチョコレートは、見るも無残な|暗黒物質《ダークマター》へと変貌していた。
「兄弟、これはどうすればいいんだ……?」
「……だ、大丈夫! これは一旦、冷蔵庫で冷やそう!」
「これを……? 食えるのか……?」
「勿体ない、捨てちゃ駄目だよ! もしかしたらまだ食べられるかも! 次いってみよう!」
言われるがまま所々ぼとぼとになったチョコの残骸を、バットへと無理矢理流し込む。それにしても甘い匂いに反して見た目は完全に泥だ、食欲が失せる。下手するとコールタール一歩手前だ。そんなチョコの死骸を視界から消し去るように、冷蔵庫の奥へと仕舞いこんだ。深いため息を吐くと、新しく割チョコをまな板の上に乗せる。
最初に言っておこう。この本丸の山姥切国広は、料理が大の苦手だ。この本丸では料理が得意な刀を中心に、肉体の扱いに慣れる訓練も兼ねて刀全員が持ち回りで厨仕事をする決まりとなっている。しかし顕現時の国広の手並みは、もう酷い有様だった。包丁を握れば勢い余ってまな板を両断する。菜箸で作れるのはだし巻き卵ではなくカチカチぼろぼろくずくずになったスクランブルエッグ未満のナニカ。炒飯は爆発四散し、中華鍋から中身が消え失せる。鍋の番をしようものなら煮物もカレーもスムージーの如く食材全てが融解する始末だ。一体何度歌仙にどやされたか分からない。それでも修行を終えた今は、ようやっと食材の下拵えくらいなら戦力に数えてもらえるようにはなった。最低限度ではあるが、包丁とまな板をどうにか手本通りの力加減で扱えるようになったのだ。目覚ましい成長である。尚、おたまや菜箸は握らせてもらえない。如何に炊事が持ち回りの仕事とはいえ、適材適所というものはあろう。此度のチョコ作りでは厨の一角を借りるにあたって、演練に行く予定となっていた燭台切に許可を貰っているが、当刃からは「誰か付いていなくても大丈夫かい……?」と心底不安げな顔をされた。結果は案の定である。哀しいかな、燭台切の心配を見事に的中させてしまった。すぐ近くに兄弟が居てくれて、本当に良かった。
嗜好品である菓子作りというと炊事とは細部が異なるとはいえ、食材をより美味しく、食べやすく調理するという点ではなにも変わらない。不器用の自覚は十二分にあった。つい面倒になって横着をしてしまうが故の失敗が多い、という自省もある。そんな山姥切国広が、こうして初めてのチョコ作りに奮闘している理由。それは凡そ、半月以上前に遡る。
『お前のチョコレイトが食べたい』
『は? ……俺にチョコを買ってこい、と?』
『そうじゃない。俺は【お前の手作りチョコレイトが食べたい】と言っている』
なんてのたまった、大層我儘な坊ちゃん育ちの|刀《おとこ》がいたのだ。よりにもよって料理が大の苦手な、山姥切国広に対して。それこそ万屋街に並ぶ銘柄持ちの有名菓子店で買ってきた方がずっと美味いチョコが食えるだろうに、一体どういう神経をしているのか。しかしどうあっても断れない理由も、この我儘な男から提示されてしまった。
『なっ……んで俺が手作りしなくちゃいけないんだ。あんたの為に買ってくるならまだしも……俺が作るより買った方が美味いに決まってるだろう』
『うーん……そうだなぁ。お前、料理はからっきしだものな。その通りだ。無理強いをする気はない。けれど、もしもお前が。手ずから作ったチョコレイトを、俺にくれるというのなら』
『なら……なんだ?』
『―――返礼に、【俺】をやろう』
『なんだと……!?』
男は大変意地の悪い笑みを浮かべて言った。何をしてもいい。どんなことでも付き合う。逢引で万屋街を端から端まで連れまわしてもいい。一日貸切った修練場に缶詰めの、手合せ三昧でもいい。日がな一日、のんびりとくっついているだけでもいい。何なら閨で抱いてやってもいいし、抱かれてやっても一向に構わん、と。一日の間俺をお前の好きにしてみろ、なんて言ってくれるのだ。恋刀にこんな大胆なことを言われて断れる奴が居るなら、その顔一度拝んでみたい。……否、断れる奴はきっと断れるのだろう。交換条件なんか必要としない関係がいいと、誠実に言える恋刀の方が良いに決まっている。しかし、こと国広にとってみればもう絶対に引き下がれない条件であった。なんせこの男と恋仲になってもう半年以上が経過し、しかして未だ初夜を迎えられてはいない。夜半ふたりきりになる時間もそれなりにはあるが、精々酒を酌み交わす程度でずっとお預け状態だ。とはいえ、此方としても決して無理強いをしたいわけではなかった。できればそこまで進みたい、その程度だ。肌を重ねる性愛の関係は持ちたくないと当刃が言うなら、それも仕方のないことではある。しかし耳元で囁いてきたり首筋に顔を埋めてじゃれついてきたりと、わざとらしいほど誘ってくる癖に応えようとすると、「こら、駄目だ」と一転して窘められてしまう。そういう時、男は決まって悪戯が成功したようなひとの悪い笑みを浮かべるのだ。揶揄っている訳ではないようだが、どこまで『待て』が出来るか、理性を試されているらしい。先に進む気はあるし気は引いておきたいが、まだその時ではない、ということなのだろうか。主導権は握られっぱなし。いつまで続くか分からないこの我慢比べは、そろそろ限界だった。全く、年上だから甘やかしてくれるのかと思いきや、とんだ魔性の男に引っ掛かってしまったものである。
『―――やる。受けて立つ。やってやろうじゃないか……!』
『決まりだな。では二月十四日が期限だ、期待しているぞ』
折しも指定された日付はバレンタインという変わった催しを行う日だった。元々は家族や友人、恋人に限らず、親しい相手へ感謝を込めた贈り物や手紙などを渡し合うという、西洋発祥の祭事なのだとか。日本においてはほんの一時期、恋人にチョコレートを贈って想いを告げるという菓子業界の興したイベントという扱いだったようだ。そんなべたな交換条件を提示してきたからには、恋刀は国広が何を望んでいるのか概ね把握しているのだろう。形に拘る男でもあるから、もしかしたら関係を深めるに相応しいタイミングとしてこの行事を使いたいのかもしれない。なんにせよ国広にとっては背水である。受けて立つと言った以上、傑作の名に懸けて後には退けない。期限の二月十四日まで、あと三日程に迫っている。ましてや今日は出陣、遠征、内番と忙しい合間を縫ってどうにか確保した、貴重な非番の日だ。厨の一角を借りられる時間も限られている。……だというのに。
「ッ、すまん兄弟。どこで間違った……?」
「うーん、特に変な事してない筈なのにな……なんでだろう?」
今度は慎重に。ボウルに鍋の湯が入らないよう、木べらはそっと動かした。なのに結果は同じである。チョコは先ほどと同じように混ぜたら混ぜただけぼそぼその表面に変容し、ごろごろと歪なだまを作っていく。|暗黒物質《ダークマター》の再生産だ。チョコを一旦溶かして型に流し込む……たったそれだけの作業が、どうしてこんなに難しい。こんな有様では完成に至るまでに創意工夫なんて芸当、到底出来ないだろう。どうすれば、ここから恋刀を納得させられるだけのチョコレートを作ることが出来るのか。
「―――おや。くりやがちょこれいとのにおいでいっぱいだ」
焦りばかりが募っていたそんな時、大変優秀な助っ人が現れてくれた。
「……あっ、小豆さん!」
「くにひろきょうだいでおかしづくりとは、めずらしいね」
男士の声に、兄弟がぱぁっと明るい声を上げて振り返った。厨の入り口に顔を向ける。そこには体躯の良い赤茶色の短髪をした男士、小豆長光がにこにことした笑みを湛えながら立っていた。
「ッッ助けてくれ、小豆長光! チョコが! 上手く溶けない!」
聞けば小豆は内番に割り当てられている上杉の刀達への差し入れとして、八つ時用のプリンを仕込んでいたらしい。……そういえば、冷蔵庫の片隅には小さめの色とりどりな愛らしいカップがいくつか並んでいた。こんな鴨が葱を背負って来たかのような好機、滅多とない。料理上手な刀は多いが、この本丸で菓子作りにおいて小豆長光の右に出るものなどいないだろう。縋る思いで事情を説明すると、小豆はふむ、と口元に手を当てて炊事場に置かれた道具を見渡す。
「きりくに。まずはおちついて、しんこきゅうだ」
「……っ、ああ」
「おかしづくりはせんさいだよ。ものによってはじかんがしょうぶになることもあるけれど、あせったりいそいだりしてはいけない。ゆせんはとくにね」
小豆からは、まず選んだ道具がよろしくないという指摘を受けた。湯煎をするには使っている鍋に対してボウルのサイズが小さすぎる、と。湯煎用の湯を張る鍋の大きさは、ボウルの底が湯に浸かる程度の小さめなものを使った方がいい。ボウルの大きさが適切でないと、気を付けていても湯が混ざってしまいやすいのだとか。
「はじめてのおかしづくりでしっぱいをへらすには、さぎょうにてきしたどうぐをえらぶことがたいせつだ」
無論、前準備の時点でチョコを入れるボウルには、僅かでも水分を残しておいてはいけない。またチョコに限らず、菓子作りで湯煎をするなら温度計は必須である、とも言われた。食材によって適温は異なる。分離の原因は湯の混入だけではなく、温度が高くなりすぎても起こるものだと。そもそも湯煎という作業自体、それなりに時間の掛かる調理法だ。急いではいけないというのは、そういう意味だったらしい。先ほどの失敗は、湯が適温まで冷め切らない内にボウルを突っ込んだ為に起こってしまったようだった。
「チョコは湯煎で溶かすっていうのは僕も知ってたけど、お菓子は殆ど作らないからな……適温までは知らなかったや。早く溶かそうとしてお湯の温度を上げ過ぎるのは、良くないんですね」
「ゆせんはおかしづくりにこそひっすだけど、りょうりではあまりつかわないからね。つかうにしてもてまやじかんがかかるし、よぶんなあらいものもふえる。このほんまるで、ぜんいんぶんのしょくじをすばやくたいりょうにつくるのに、そこまでのろうりょくはさけないだろう?」
「あはは……そうですね、皆のご飯作ってる時って目が回りそうなくらい忙しいから、僕もついつい無精してあれこれ時短したくなっちゃいますし……」
「てまはできるときに、こだわりたいとおもったものに、かければいいんだ。たいりょくとこころのよゆうがあるときだけ、やればいい。まいしょくにてまをかけるのはたいへんだよ」
確かに手間を掛ければ料理は格段に美味しくなる。けれどそれが出来ない時も多い。バターだって、単純に溶かすだけなら電子レンジを使う方が手っ取り早い。焦げないように様子を見つつ、加熱時間を調整できるなら、わざわざ湯煎で溶かさなくても何ら問題ない。湯煎で作るローストビーフなども、温度管理は炊飯器の保温機能や専用の調理器具を使えば勝手にやってくれる。放置しながら、別の料理を一緒に作ることだって出来る。……ふたりともそんな高度な話をしているが、国広には逆立ちしたって出来ない芸当である。メインになる料理を仕込みつつ、隙を見て別の料理を作るなんて、そこまで手も頭も回らない。一心不乱に、ただひたすら野菜の皮を剥いて切るのみ。国広にはそれだけで精一杯である。
「ふたりとも、すまん。普段やらないことを行き当たりばったりでやり始めて、チョコをたくさん駄目にしてしまった……。もっと早く相談していれば良かったな」
ぼそぼそと口籠りながら謝ると、兄弟と小豆が笑った。
「気にしないで、兄弟! やったことないんだから、上手くできないのは当然だよ! 僕だってお菓子作りは初心者だし、料理だって初めから手際よくこなしていたわけじゃないよ」
「それに、ふだんやらないことにちょうせんするというのは、たのしいだろう?」
「……ん、そうだな。そう、なんだが……」
確かに巧くは出来ないが、楽しい。けれどこのチョコレートは、頼まれて作っているものだ。それも単なる仲間ではなく、好いた大切な相手に渡すものだ。下手の横好きでは、ただの自己満足になってしまう。半端なものではいけないだろう。しかし実際には、その半端にすら至れないことが口惜しかった。
「……これは、どうすればいいんだ?」
「だいじょうぶだ。とかすのにしっぱいしたちょこは、そのままではきちんとかたまらない。でも、ほかのおかしにはできる。ちょっとむずかしいけれど、ちょこれいとけぇきや、がとぉしょこらにもできるんだ」
「っほんとうか!?」
「それよりも、もんだいは……きみがかれに『どんなちょこをたべてほしいか』だよ」
「どんな、チョコを……?」
「これは、よけいなおせわかもしれないけれど。かれはきっと『おいしいちょこれいと』がたべたいわけじゃない」
それは、確かにあいつも言っていた。買った方が美味いに決まっているのは、お互いに分かっている。だから国広は猶更困っている。美味しいチョコじゃなくていい、でもあいつが食べたいと思うチョコとは、一体どんなものなのか。
「かれは『きみのつくったちょこ』がたべたいのだろう? あじのよしあしは、とわれていない」
「味の良し悪しは、問わない……」
「もちろん、たべるからにはおいしいにこしたことはないだろう。けれどきみじしんもかれも、きみが『りょうりはとくいじゃない』とわかっている。そのうえでかれは、きみがつくったちょこがほしいといっている。だからほしいのは、ただのおいしいちょこじゃないんだ。きみがかれをおもってつくるということに、いみがある。どんなにおいしくても、わたしやほかのだれかがつくったちょこや、おみせのちょこではだめなんだ」
「……?」
「だからね、きみのそれにかぎってはじこまんぞくでいい。もとよりおくりものをわたすことじたい、じこまんぞくだ。よろこんでほしい、なぐさめたい、あやまりたい、かんしゃしたい。おもいをとどけたいとおもったときに、にんげんはおくりものをよういする。ほんとうにわたしたいものは、おくりぬしの『きもち』なのだから」
小豆が、冷蔵庫の扉を開く。
取り出して調理場の机に置いたのは、彼が取りに来た目的のプリンではなかった。
「ゆせんにしっぱいしたちょこは、くちあたりがわるい。だからほんとうは、べつのおかしにりめいくしてしまうのがいちばんいいのだけど」
それはさっき隠すように国広が冷蔵庫へと仕舞いこんだ、泥のようなチョコの残骸。
「ここはあえて、|そ《・》|の《・》|ま《・》|ま《・》つかってみようか」
次へ
powered by 小説執筆ツール「notes」