惚れた因果に付きまとわれる。




 湯殿から廊下に出た直後、真っ先に目についたのは微かに白くなった己の吐息だった。
 厨の食材を保管する冷蔵庫とやらを開けた時のように、冷気が全身に覆い被さってくる。これは湯上りには少々きつい。湯殿から遠ざかるほどに増す、床板の痛いほど冷え切った感触。靴下越しでもこれか。廊下の薄暗さと相まったその身を刺すような寒さに、大包平は顔を顰めて身震いした。
 顕現して日の浅い大包平に、私室はまだ用意されていない。政府が推奨する大規模な演習等が続いている為に城内は慌ただしく、新参に支給する為の部屋の増改築を万屋に頼んでいるような時間的余裕がないらしい。「来たばかりで、肉体に慣れない内から悪いのだが」と大包平も今代の主となった審神者の命を受け、練度上げの真っ最中だという他の刀達と交代しながらその演習に参加しているくらいだ。その為今は城の発足以来の古参である兄弟刀の部屋に居候中なのである。静けさを好むらしい兄弟刀たっての希望なのか、私室は屋敷内の湯殿や食堂等共用の場所からはやや離れた位置にある。御蔭で修練場や出陣の際の集合場所にもなっている正門前に行くにしても遠い。練度が頭打ちとなり今は内番や遠征といった後方支援を職務の中心としている兄弟刀にとっては丁度いいのかもしれないが、頻繁に出陣している大包平にとっては面倒極まりない。顔見知りであるから気が楽だろうと相部屋にされてしまったのだが、これだけ煩わしいなら初対面の刀の部屋でも別に良かったのではないか。
 兄弟刀の私室まで、あと少し。くれ縁が続く長い廊下に差し掛かると、中庭と廊下を隔てた硝子戸からはきんとした一等強い冷気を感じた。ふと立ち止まってその硝子で出来た障子を覗けば、極端な寒さの理由はすぐに知れる。いつの間にやら、外はうっすらと白に染まり始めているではないか。

「雪が降っていたのか……道理で寒いわけだ」

 大包平が肉の身を伴ってこの城に降り立ってから、初めて見る雪である。

 闇の中でもかがやく白の結晶が、さらさらと空から静かに落ちている。夕刻戦から帰還した時は雪など降っていなかったというのに、ほんの数時間程でこんなにも積もるものなのか。そういえば「ここ数日冷え込みが厳しくなってきたから、そろそろ降る頃合いだろうな」などと兄弟刀が言っていたような。
 現世とは切り離された空間に存在する全ての本丸では、審神者と肉体を得た付喪神達が快適に過ごせるよう、気候は概ね管理されている。が、この城の審神者は季節の移ろいを大切にする御仁らしく、現世日本の天候をそのまま本丸にも反映するように気候を管理しているシステムを勝手に弄ってしまったそうだ。審神者曰く「折角の四季を肌で感じられなくては勿体ない」のだとか。肉体と言っても刀剣男士のそれは人の持つ身体とはつくりが違うのだが、審神者の考えていることはよく分からない。
 寒さに身を竦めながら、大包平は再び長い廊下を歩き出す。外は風など吹いていないようで、硝子の向こうの降りしきる白には声がなかった。深々、という言葉がよく似合う。きっと、明日の朝には庭一面が純白に染まりきってしまうことだろう。音無く降る雪は冷え込みが強い証拠で、積もりやすいものなのだそうだ。
 此処で雪が降っているということは、現世の日本各地でも雪が降っているのだろうか。四季折々の景色は確かにうつくしいとは思うが、こうも寒いと身体が冷え固まってしょうがない。こういう時くらいは、政府管理の穏やかな気候に戻してくれても良いと思うのだが。

(これほど冷え込んでいては、……あいつ、大丈夫なのか)

 じわじわと靴下越しに伝わってくる床板の氷のような冷たさに、大包平は寒さにとんと弱いらしいとある翁月のことを思い出した。決して、当刃から直接聞いたわけではない。兄弟刀があの翁月と親しい仲らしく、先日ふとそのことを大包平に話してきたのだ。
 平素の戦装束は、分厚い衣を何枚と重ねる蒼の狩衣姿。それは博物館に在った頃から変わりはしないが、内番時であっても作務衣の下にまでしっかりと着込み、肌は殆ど露出しない。それくらい、根っからの寒がりなのだという。同じく古参である翁月の部屋は今しがた大包平が向かっている兄弟刀の部屋と近い位置にある。吹き曝しの濡れ縁の前に位置する近侍部屋よりはまだ和らいでいるものの、それでも廊下は底冷えしている。廊下でこれだけ寒いなら、今頃あの翁月は布団に入るどころか敷く気力もないまま、毛布でも被って暖房器具の前から離れられなくなっているのではないか。

 そこまで考えて、大包平は勢いよく頭を振った。

(いや、爺といえど、今のあいつはそこまで軟ではない……)

 ―――まずい。久し振りに、博物館以来の悪い癖が出た。

 何を馬鹿なことを考えているのだろう。我ながら、頭を抱えたくなる。あの翁月が寒さに弱いなんてこと、別に今の己にはどうでも良いことである筈なのだ。
 そもそも何故、そんなことをわざわざ此方に教えてくるのか。そう兄弟に問うた時、こんな答えが返ってきたことを思い出した。

『博物館ではしょっちゅう三日月の世話を焼いていたそうじゃないか。お前が此処に来るまでの間、あいつからもお前の話を沢山聞かされていたものでな。いや、中々楽しませてもらった』

 兄弟も大概だがあの爺、余計なことをべらべらと喋ってくれたらしい。散々この二振りは周囲の刀達に此方の事を言いふらしてくれたようで、顕現初日から見知らぬ刀達にまで己の性格をしっかり把握されており、ひどく苦い思いをしたのだ。御蔭で此方は誰と接するにしてもやりにくくてしょうがない。これだから誰にでも気安いあの爺が嫌でたまらないのだ。

 確かに平素から大包平が「爺」と呼んでいる古刀三日月宗近は、共に都にある博物館で過ごしていた頃から、大包平が何かと世話を焼いていた付喪神であった。この城に顕現した今も中々ではあるらしいが、当時から自由奔放で放浪癖のあったあの男は、霊体で頻繁に博物館の保管庫を抜け出し忽然と姿を消しては、周囲の付喪神達に要らぬ心労ばかり掛けていた。老い耄れの癖に童のように好奇心旺盛で、じっとしていられない奴なのだ。かくいう大包平自身、博物館を出てよくあの男を探し回っていた。……付喪神としての存在が、危ぶまれる奴でもあった為だ。

 歴史修正主義者との戦の最中である今でこそ、あれが元々宿っていた本尊から離れていようとも影響が及ぶことはない。現世とは別の空間に隔離されたこの城内で付喪神が降りる為の依り代とする刀を作り出し、審神者の霊力を元として顕現しその身を維持している為だ。しかしこの戦がなければあの男は己が付喪神としての存在を保つ為、本尊である鋼の中でずっと寝ていなければならない筈だった。

 日本刀の最高傑作と評され、刀剣の横綱とも呼ばれる大包平自身はまだ良い。打たれてから千年もの時が経っているが、長い間主家を離れることなく家宝として大切に扱われてきた為、未だ本尊の鋼は健全な姿を保っている。しかし、あの刀は違った。

 足利将軍家、豊臣家、徳川将軍家……。明治維新により幕藩体制が崩壊してからは徳川家を離れ質に流されていた時期もあったという。そうやって幾度も所有者を変え、名の由来でもある打ち除けの多い刃のうつくしさを保つべく幾度も砥がれ、あの刀は鋼を摩り減らし続けていた。今現在は国の宝とされているが、手入れを行う研技師が毎度扱いに苦労させられるという程に、あの男をつくる鉄は老朽化してしまっていたのだ。

 付喪神の力の源は、物を想いを馳せる人の心である。
 物を大切に使い、物に想いを込める人の心が、物に魂を宿す。物は大切に扱われた分だけ、少しでも人が長く物を使っていけるよう、我が身のかたちを保とうと力を蓄えていく。故に刀剣を始めとした現代では使われることのなくなった美術品等で言うなら、人目に触れる機会が減れば必然的に人々の記憶からは薄れ、魂は劣化し、身を保つ為に溜め込んだ力も潰えてしまう。しかし刀の場合、飾られるためにはまず刀身を守る油を取り除き砥がれなければならない。砥げば鉄は減り、油がなければ錆は進み、いっそう刀身は脆くなっていく。しかし本体の保存を優先され人目に晒される機会が減れば、刀は次第に力を失い刀の付喪神として在り続けることもできなくなる。そうなれば古い物であるほど我が身の形を維持していけなくなり、いずれ付喪神を失った物は崩壊してしまう。鋼が朽ちていくのが先か。付喪神の存在が潰えるのが先か。『寝ていなければならない』という理由は、そこに尽きる。要は語り継がれる逸話、記録、伝説が殆ど存在しない大包平も三日月宗近も、人の心に残るための武器が他の刀よりも圧倒的に少なすぎるのだ。

 今剣や岩融、小狐丸等の架空の存在であったり現世では喪われた存在であったとしても、書物や唄、舞の題材となる程に強烈な逸話を持っている物は当然人の心にも強く残り続けていける。本尊が存在していなくとも刀剣男士として喚び出すことが可能なのは、その為だろう。未だ本尊も現存しており、尚且つ「黒田節」として多くの人々に歌い継がれている日本号は、特にその力が強い付喪神の一例だ。だが大包平同様、あの男は天下五剣の中でも一等うつくしいと評されてはいるものの、言ってみれば拠り所はそれだけしかない。髭切や膝丸のように鬼や妖を退治したという逸話もなければ、同田貫や蜻蛉切のように数多の戦場を駆け抜けた記録もない。事実には基づかない歪んだ認知ではあるものの、妖刀伝説として広く知られている千子村正や、江戸期以降の近代において大量の偽物が世に出回る程【刀】の代名詞となった虎徹など、純粋に武器としての絶大な知名度があるわけでもない。今現在になって審神者として政府から選ばれ、付喪神を喚ぶにあたって初めてその刀の存在を知る人間もいるくらいなのだ。あの男は一度姿を目にしてしまえば忘れることができない程にうつくしい刀身をしているが、それもまずは存在を知られることから始まる話である。ただでさえ刀が人に振るわれなくなってから何百年と時が経っているのだ。刀そのものへ興味を引く所まで人の意識を持っていくこと自体が、まず難しい。

 長い間星の数程もある名刀に埋もれかけていた大包平自身、そのような不安定な存在であった。刀に限らず、そうやって人の記憶から薄れ無念の内に消えていく無数の付喪神達を、大包平は千年もの時の中で数えきれない程目にしてきた。その度に、己はああなってはならない、ああはなるまいと気を引き締めてきたのだ。歴史上において最初に己を見出し【日本刀史上最高傑作の太刀】と認めてくれた池田輝政公の名を後世に残す為にも、何としても人々の心の中に生き残っていかなければならない。兎角、大包平はその思いが強かった。長い間貯め込んできた自身の霊力で鋼の劣化を少しでも防ぐために、寝ていられるものならば寝ていたかったとも。しかし、何分日本刀の格としては最高クラスである天下五剣としての自覚がいまいち足らないあの男は、己が本体の保存状態など気にも留めず頻繁に外をぶらついていた。外に出られる程の余力がない周囲の小さき付喪神達があれの身を心配してか、あれが博物館の蔵を抜け出す度に頼みの綱だと大包平を小突いて起こしてくれるのだ。毎度叩き起こされる此方はたまったものではない。「またか……」と共に起こされる童子切安綱や獅子王、厚藤四郎らと手分けして探しに行き、見つけて怒鳴って、それでもあれは心底楽しそうに笑っていた。そして暢気な声で「迎えにきてくれたのか。やぁ嬉しいな」などと抜かすのだ。酷い時には自身の霊体が薄らと消えかかっているにもかかわらず、特に気にする様子もなく外に出ていたこともあったか。あの時ばかりは咄嗟に己の霊力をあれの霊体に強引に流し込んでやった程、自分の事でもないのに酷く焦ってしまったことを覚えている。霊力を分け与えるために具体的に何をしたかまでは、正直あまり思い出したくはない。今となっては何故我が身を護る力を削り出してまであの男を助けようと思ったかも、わからない。それほどに此方は本気で焦っていたというのに、あの男は何故か普段にも増してうれしそうな、ともすれば幸福そうにも見える表情をして、反省するばかりか此方の霊力を更にねだるように喰らいついてきてそれはもう酷い目にあったのだ。嫌いな奴を喜ばせてしまったことも癪だが、自分ばかりがこの男に振り回されていたことが何より気に入らなかった。それでもなんだかんだでしぶといあの男は結局刀剣としての最期の御役目が回ってくる今日までのらりくらりと生き残ってしまった訳で、今となっては己の一連の愚行もとんだ取り越し苦労となってしまったのだから尚更である。愚行もいい所だ、あの事件は我が刃生最大の汚点と言っても過言ではない。

 そんな訳で何かと放っておけない存在につい構ってしまえば、最初は共に面倒を見ていた他の刀の付喪神達まで「爺は大包平に任せておけば安泰だろう」とばかりに保護者役を此方に押し付け始める始末だった。その所為で、自然と博物館では大包平があの男の世話を焼く羽目になってしまった。

 しかし。

(今更だろうが……!あの爺は、肉体の扱いなどもう十分慣れている……!)

 一度この手を離れた翁月は、もう。
 ……もう、己の助けなど必要としてはいない。

『天下五剣の癖に俺が付いていてやらねばならんとは、しょうのない奴め』

 そんな意識で世話をしていたのだ。あくまでも『当時は』の話である。
 各本丸で作られる刀の依り代に付喪神を降霊させるための中継点となるのが、政府が開発、運営、管理を行っている付喪神の顕現システムだ。その付喪神の顕現システムの一部が長らく遡行軍からの通信妨害に遭っていた為に、大包平は刀剣男士としての顕現が当初の政府計画から大幅に遅れていた。それがこの度ようやっとその一部のシステム障害から復旧し、晴れて各本丸へと顕現することが可能となった。まぁ、己はそれだけ敵に警戒されていた存在であるということに他ならないだろう。現に刀の付喪神としては大包平とほぼ同等の力を持ち、天下五剣の筆頭でもある童子切安綱は、未だ通信妨害の影響からかどこの本丸でも顕現が出来ない状態だ。

 しかし戦に喚ばれた喜びに勇んでこの城に降り立った時には、既にあの男は往時の戦の感覚を取り戻していたばかりか自ら刃を振るう戦士としても大きな成長を遂げていた。顕現して早々に挑んだ手合わせで完膚なきまでに叩きのめされ、それを思い知らされた身だ。

『まぁ、俺の負けでもいいんだが』

 よくもまぁ、ぬけぬけと言ってくれたものを。
 片や練度頭打ちの古参、片や肉体を得たばかりの新参。素でも負ける要素がない癖に、此方の性格を知り尽くしているが故に一切の加減もするつもりがない奴が何を言うのか。挑発のつもりか。
当然ながら結果など知れていた。「顕現初日にして此処まで付いてこられるならば大したものだ。流石は刀剣の横綱よな」などと褒められはしたが、練度頭打ちの剣技で言われたところで嫌味にしか聞こえない。男はこれまでの戦で何度も死線を潜り抜け培ってきたその最高峰の剣技を持って、情け容赦なく徹底的に大包平を叩き潰してくれた。狩衣の袖や差袴の裾を翻し刀を振るうその姿は得も言われぬ程にうつくしく、しかしそれでいて己が刃は一度たりともその蒼を捉えることが出来ず一分の隙も窺えなかった。鋼を交える音すら起こせない程その振りは速く、流れる水のように滑らかな剣裁き。言葉や態度で表立って誇張しているわけでもないというのに、その微笑みからは己が剣の腕前に対する絶対的な自信が見て取れた。この城に来て初めてあの男が得物を振るう姿を目にしたが、舞い踊るように鮮やかな手並みと姿を見せつけられてしまっては、二度と忘れられそうにない。

 刀剣の付喪神は皆自我を得たその時から等しく剣豪となる為、どの刀種であろうと我が身そのものである得物を振るうことに関してならば自信を持たぬ者などいない。けれど肉体を以て我が身を振るう感覚は霊体でのそれとは決定的に違うようで、肉体で己が思い描く通りに動けるようになるまではどの刀であろうとも相応の時間と努力を要するものらしい。それを言い訳にしたくなかった顕現初日の手合わせの時はどうしても納得がいかなかったのだが、徐々に身体が思考に追いつくようになった今になって漸く実感した。審神者も此方の性格をよく理解してくれているのか、演習以外でも頻繁に部隊に組み込んで戦に出してくれている。そこはまぁ、感謝すべきことだろうか。

 そんなわけで今は世話を焼くどころか、むしろ此方がものを教わらねばならない程に経験の差は開いている。出会った頃から今も只管あれを追いかける身であることに、変わりはない。何度追い付いて捕まえようと、あの細い月はするりとこの腕から抜け出して、また先を往く。「来い」とは、言わせてくれない。それがどうにも悔しくて、結局あの手合わせ以来、未だ一度も顔を合わせていなかった。城内であの男を見掛ける度、艶やかに刀を振るう姿が脳裏に浮かんでしまいとてもじゃないが顔など合わせられないのだ。
 繰り返すが、大包平は未だ顕現して日が浅い。対して三日月宗近は肉体を得てもう丸二年になるという。苦手だろうが何だろうが、今更寒さでどうにもならないなんてことに、なるわけがない。

 だから尚更何故そんなことを、それも当刃からでなく己の兄弟刀の口から聞かねばならないのか、どうしてもそれが解せなかった。たまに思うが、あの兄弟刀は何を考えているのかわからない節がある。

(……くだらん!俺には関係のないことだ……!)

 ぐるぐると頭の中を駆け回っていた記憶やら思考やらを無理やり片隅に追いやり、大包平は足早に廊下を歩く。折角湯で身体を温めてきたというのに、こう寒くてはすぐに湯冷めしてしまう。廊下を無心になって歩き、漸くたどり着いた自室の障子を開けば、ふわりとした優しい暖気が身に纏わりついてきた。あたたかさが身に染みて、思わずほう、と一息吐く。
 すると、部屋の奥からは兄弟刀の迷惑そうな声が漏れた。

「大包平、お帰り。……寒い、早く障子を閉めてくれ」

 部屋の真ん中で座椅子に座りながら背を丸め、肩まですっぽりと炬燵布団を被っているのは大包平の兄弟刀、鶯丸である。逆に障子を全開にしてやりたくなってしまったのは、別に悪いことじゃないと思いたい。……何故ならば。

「……鶯丸、お前はもう少し炬燵から動いたらどうだ。どうせ今日一日殆どそこから動いていないんだろう」

 炬燵机の上には審神者に頼んで現世から取り寄せたという、山積みの本。蜜柑の入った小さな篭と、食べ終えた皮。湯を沸かす為の電気ポッドに、急須と湯呑。ついでに言うと今朝の出陣前に見た光景から、机の上の内容物は殆ど変化していない。せめてどれか片付けるぐらいはしたらどうなのだろう。この兄弟刀は本丸が発足した初期の頃に顕現しているそうだが、今のその姿は練度頭打ちの古参とはとても思えない堕落ぶりである。

「こういう寒い時はな、炬燵でのんびりするに限るんだ」

 顕現して以来、毎日のようにひとをおちょくって遊んでいるこの失礼でマイペースな兄弟だ。余程の有事でなければ出陣の命が下ることはないこれが、のんびりしていない日など存在するものか。いや、どうせ突っ込んだところで「今日の俺は非番だったのだから文句を言われる筋合いはないぞ」とばっさり切り捨てられるだけだろう。喉まで出掛かった声をぐっと飲み干し、大包平は溜息を吐いて部屋の障子をぴしゃん、と閉めた。口の達者なこの兄弟の戯言に構っていらぬことまで口にすれば、また足を掬われてしまう。

「雪、降っていただろう」
「……ああ、積もり始めているぞ」
「そうか、布団が恋しくなってきたな。……そろそろ寝るか」

 漸くのそりと炬燵から出てきたかと思えば、この一言だ。向かう先は布団が仕舞われた押入れである。この兄弟刀、本当に今日一日ずっと、飯と厠と風呂以外では一切炬燵から動いていないのではないか。

「なぁ大包平、布団はいいと思わないか。いつだって俺達の身を優しくあたたかく、包み込んでくれる。布団にも付喪神がいるならば、俺は今すぐにでも求婚してしまいそうだ……」

 今の今までぬくぬくと炬燵に収まっていた癖をして、この男一体何を抜かしているのか。

「……よし、明日は朝から雪掻きだ。その愛しの布団、引っぺがして庭まで引き摺って行ってやろう。働け」
「ほう、俺と布団の仲を裂くか。やれるものならやってみろ、現状の実力は俺の方が上だ」
「………………くそっ、今に見ていろ!すぐに追いついてやるからな!」
「ああ大包平、勇むのはいいが静かにな。もうすぐ消灯時刻だ」
「……ッッ焚き付けたのは、お前だろうが……!」

 口で勝てないことは重々承知だが、ああ言えばこう言うのだから全く腹立たしいものだ。しぃ、と指先を口元に当ててくすくすと笑うだけの兄弟が、もう憎らしくてしょうがない。

(……似ている、あいつと)

 この兄弟刀を見ていると、どうにもあの男の姿が脳裏にちらついて困る。
 笑みを浮かべてはいてもその内で何を考えているかまでは読み取れない表情。似たような時期に作られている筈なのに、変に達観している性格。……それからこうやって、ひとを揶揄って遊ぶ悪い癖だ。ふらふらと好き勝手に街を行くあの翁月の姿は、正に大包平をおちょくっているかのようだった。まるで鬼事なのだ。その割に追いかければ、あっさりと捕まる。今改めて思い出してもやはり、意味が分からない。

 蔵で寝るばかりの日々が、退屈であったから。外の世界を見るのが、楽しいから。だから抜け出していたのではなかったのだろうか。迷惑を被っている此方の苛立ちなど気にも留めず、爺の癖をして童のように嬉しそうに笑って。

(……それが見られなくなったのは、あの爺が先に此処に喚ばれてからか)

 あの男と中身がよく似ているこの兄弟刀だからこそ、仲良くなったのだろう。別に、断じて、羨ましい訳ではない。此方の手を煩わせることがなくなったのならば、それで良いではないか。他者から世話をされるのが上手いあの爺だ、周りには己がいなくたって世話を焼きたがる刀など大勢いる。実際大包平が居ない間は、誰かがあれの世話を焼いていた筈なのだから。

(嗚呼くそ、何故こんなにも振り回されなければならん……!)

 ちくりと胸に走った不可解な痛みで、また悪い癖が出ていたことに気づいた。少し油断するとすぐに意識があのいけ好かない爺へと引きずられてしまう。此方は約二百年間も続いてしまった世話役から漸く解放された身だ、もう十分ではないか。そろそろ勘弁してほしい。
しかし、さっさと寝て忘れてしまおうと押入れの襖に手をかけ、自分の分の布団を引っ張り出そうとすれば。

「大包平」

 何故かその手は、やたらゆっくりと名を呼んできた鶯丸によって掴まれてしまった。

「…………何だ、鶯丸」

 大包平の眉が、ひくりと痙攣する。
 鶯丸が、やけににこにこと笑っている。その釣り上がった口角で、口元は寒気がするほど綺麗な弧を描いている。嗚呼、嫌な予感がする。これはあれだ、この兄弟多分何か良くないことを考えている。今度はなんだ、一体何で、揶揄われるのか。

「三日月が心配か?」
「は」

 部屋の中は暖かい筈だというのに、妙に冷たい汗が一筋、背を伝った。
 ……何故この兄弟は、お見通しと言わんばかりにひとのこころを読んでくるのだろう。

「………………なッ、何故俺が。あんな爺の、心配など」
「前にも言ったじゃないか、あいつは寒いのがとにかく苦手だ。外は雪が降るほど冷え込んでいるのだから、今頃あいつは暖房器具の前に蹲って凍えているに違いない。……だろう?」
「ッば、……馬鹿を言え。お、俺よりずっと肉体に慣れている奴が、今更そんな」
「お前は面白いくらい分かりやすいな」
「ぅぐ……ッ」

 何故、そこまでしっかりと読まれている。
 こういう所が似ているから余計腹が立つのだし、やりにくいのだ。全て見透かしたようにものを言って、此方の心を揺さぶってくる。

「……だから何故! 俺が! あんな爺の心配をせねばならん! もう俺はあの爺の世話役など御免だ! 俺は絶対に! 行かんぞ!」
「俺は『心配か』とは聞いたが、何も『行け』とは言っていない」
「それは遠回しに行けと言っているようなものだろうが!!」
「……ああ声を小さくしろ。夜中だぞ、お前の声は大きすぎて煩い」

 ひとの神経を逆撫でするようなことばかり口走って、誰のせいで声を荒げていると思っているのか。胸倉をつかんでやりたい気持ちを必死に抑えながら、大包平は鶯丸をぎろりと睨む。これで怯むような男などではないことくらい知ってはいるが、無駄だと分かっていても挑発されると睨まずにはいられなかった。案の定鶯丸は肩を竦めて笑った程度で、まるで堪えたような様子もない。鶯丸の指先が、とん、と大包平の胸を突く。

「……お前が勝手に『必要ない』と思っているだけで、向こうは案外そうでもないのかもしれない」
「そんな、わけが……ッ!」

あるか。
言葉はそう続く筈だった。

(…………否、違う)

 あれが此方をどう思っているかなど、どうでもいい。要はただ己自身がそれを許せぬという、意固地なだけだ。三日月宗近という刀は、問答無用で他を惹きつける。何も自分だけの話ではない。そも、博物館でさえそうだったのだ。あれが世話を焼いて欲しいと宣言していたわけではなく、しかし大包平自身が気づくよりも先に、周囲はあれを放っておかなかった。『自分たちでは行けないから、代わりに行ってきてほしい』と小さき付喪神達はあれを此方に任せてきただけの話だ。この城に集められた付喪神はただでさえ強い力を持つものばかりな上、今は肉体を得て行動の自由などいくらでも利く。新参者である大包平に、今更出る幕などない。

(俺はただ、力が伴わないのに、あの男の隣に立ちたくないだけだ)

 無論、純粋に日本刀としての己であるならば、誰よりもあの刀に並び立つに相応しいという自信はある。しかし刀剣男士としては他の刀達を押しのけてあれの隣に立てる程の力を、顕現したばかりの己は未だ手にできていないのだ。あれにすら追いついていない無様な姿で、共に在ったあの頃のように偉そうに世話など焼きに行ける筈がないだろう。説得力の無い半端な力と覚悟であの天下五剣随一のうつくしさを誇る刀の隣に立とうものなら、あれに対する冒涜にもなりかねない。そんな姿、自分自身が一番見たくないのだ。

「……そら、噂をすれば影だ」

 静まり返っている筈の廊下から、小さな足音がする。
 それは大包平にも知れてしまった。控え目な音は夜だからではなく、あの男のものであるからだろう。嗚呼嫌だ、どうか通り過ぎてはくれまいか。大包平のそんな願いもむなしく、近づいてきた足音は部屋の前でぱたりと途絶えた。

 心の臓が、どくりと疼く。

 障子の向こうから聞こえたいつも通りの暢気な調子の声に、ざぁ、と大包平の血の気が引いた。

「……鶯丸よ。夜分にすまんな、ちょっといいか」

 暖かい部屋の中なのに寒気に襲われるという奇妙な感覚に襲われ、大包平の思考が停止する。その隙に、鶯丸は断りもなくすらりと部屋の障子を開けた。立っていたのは、今一番会いたくなかった男。

 ―――老い耄れを自称する癖にとびきりうつくしい見目をした、蒼い月だ。

「どうした、三日月」
「こうも寒いと眠れそうになくてな。湯たんぽを借りに来たんだが、持って行っても構わんか?」
「……ああ。丁度お前が寒がっていたんじゃないかと話していた所だ、好きに使え」
「すまんな、忝い」

 この部屋に、湯たんぽなんてものははなから存在していない。ずかずかと部屋に入ってきた三日月が徐に掴んだのは、まぎれもない、大包平の腕だ。
 湯帷子の布越しでも分かる程に冷え切った、三日月の手の感触。一瞬それにたじろぐも、大包平はすぐに我に返った。

「……お、おい待て、じじい! 俺は湯たんぽではないぞ!」
「いやぁ連帯戦ではちょうどいい湯たんぽが来たと思っていたんだ。では鶯丸よ、借りていくぞ」
「ああ、大包平は体温が高いからな。きっと役に立てる。おやすみ三日月」

 この爺、刀剣の横綱とも呼ばれた日本刀の最高傑作を捕まえておきながら、湯たんぽ呼ばわりして抱き枕なぞにしようというのか。失礼且つ贅沢にもほどがある。

「おい待て、鶯丸! 勝手に話を進めるな! じじい、手を離せ! 俺はそんな気など……いだだだだ!」

 しかし、太刀の付喪神にしては細いこの腕のどこにそんな力があるのだろう。振り払おうにも男の力は強すぎて、びくともしない。……おのれ、これが練度の差か。ぎりぎりと骨が軋むような強さで腕を掴まれたまま、大包平は部屋の外、薄暗く寒い廊下へと引き摺られていく。

「全く鈍いな、三日月も苦労するわけだ。……まぁ、はっきり言わないあいつもあいつか」

 障子を閉める間際、ぽつりと部屋に響いた鶯丸の声は、もはや大包平には届いていなかった。



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