|帷《とばり》の向こうで|囁《ささや》く|宵《よい》
この冥府の館は不思議な場所だった。清潔な飲料水も光源も、ふんだんに供給されている。館の真の主である夜の女神ニュクスが中央に鎮座し、その神秘の力で支えているからだ。彼女にとって、この冥府の館へと力を分け与えることなど些細なことだった。(とはいえ、地上の神々が住まうオリュンポス山にも匹敵するほどの加護が注がれているのだが)
アスポデロスの地を流れるプレゲトン川——そこは、燃え盛る炎と煮え滾るマグマが満ちた冥界の一角である。時折、その灼熱の熱気が冥府にまで押し寄せる。だが、それさえも些細なことに過ぎず、館に満ちる風が熱を和らげてくれる。せいぜい 「今日は少し蒸し暑いな」 と薄物を一枚脱ぐ程度の変化しかもたらさない。館にはたえず涼やかな風が流れ、快適な空間を保っていた。まさに至れり尽くせりの館なのだ。
その館の住人達の衣住食の環境を整えるのは一介の冥界の住人——ゴルゴン族のデューサの仕事であった。日頃の働きが認められ、侍女頭へと昇進した彼女はさらに仕事に精を出し、館は見違えるほど清潔に整えられていた。柱や床の大理石は丹念に磨かれ、艶やかに輝く。埃をかぶっていた帳は今や清潔に保たれ、時折そよぐ風に美しいドレープをなびかせていた。
デューサが素材を吟味し丹念に手入れしたであろう帷のなめらかな布の感触と、死神の冷たい肌、熱い吐息に挟まれながら、ザグレウスは何度も意識を手放しそうになる。けれどそのたびに、タナトスの責めがギリギリのところで正気を引き戻す。気を失わずにいられるのも、ニュクスの加護が巡るこの館の風が、熱を鎮めてくれるからかもしれない——。
ザグレウスの雄ははち切れんばかりにそそり立っていた。タナトスもそうだ。死神は自身の雄をザグレウスの雄に擦り付ける。布越しに伝わる硬さと熱にお互いの興奮が更に高まり熱い吐息がかかる。
ザグレウスの息が詰まる。布越しとはいえ、己の雄と義兄の雄が擦れ合い、熱と硬さが直接伝わってくる。
「っ……タナトス……」
声が掠れる。羞恥と快感が入り混じり、思わず腕に力を込めるも、タナトスの腕はさらに強く絡みつき、逃れられない。
「ザグレウス、感じているのか?」
低く囁くような声が耳元を掠める。それだけで背筋が震え、ぞくりとした熱が脊髄を駆け抜ける。
タナトスはゆっくりと腰を動かした。トーガの隙間から漏れる生身の熱が、より一層焦らすように刺激を増していく。
「ん、ぁ……っ」
「もっと、良くしてやろうか…?」
ザグレウスの喉から漏れる声を聞いて、タナトスの黄金の瞳が妖しく揺らめく。布の隙間から、死神の手が忍び込み——しなやかな指先が、ザグレウスの雄を撫で上げる。
「くうっ……」
わずかに肩を震わせ、ザグレウスは喉奥で息を詰まらせる。けれどタナトスは、それ以上の刺激を与えようとしない。ただ、布越しにゆるやかに撫で、指先でわずかに弾く。
「焦らすなよ……っ」
熱を帯びた吐息とともに、ザグレウスはタナトスの腕に指をかける。だが、その手はすぐに死神の片手によって絡め取られ、囚われる。
「俺に任せろ」
囁くような声。低く、優しく、それでいて抗いがたいほどの熱を帯びた声音に、ザグレウスの背筋がぞくりと震えた。
「……ッ!」
鋭く息を呑む。
「ほら、力を抜け」
言葉とは裏腹に、その指はゆっくりと、じっくりと触れては離れ、焦らすような動きを繰り返す。わざと焦らすように、ザグレウスの先端に触れるか触れないかの距離で指を滑らせ、さらに熱を煽る。
「くそ……っ、タナトス……頼むから」
「頼む?何を?」
たまらず、ザグレウスは震える声で懇願した。タナトスはあくまでも意地悪く、耳元に口付けを落としながら囁く。その声に煽られるように、ザグレウスは喉を鳴らし、耐えきれずに腰を押しつける。
「触れてくれ、ちゃんと……」
ザグレウスは拘束されてない手を使い自らの下帯を緩め始めた、もどかしそうに蠢き赤面するザグレウスと哀願するその言葉に、タナトスの目がわずかに細められる。次の瞬間、タナトスの手は躊躇なくザグレウスの下帯を一気に剥ぎ取り、迷いなくザグレウスの雄を包み込む。熱を持った指が、ゆっくりと扱くように動き始める。
「……っ、あ……っ」
指先が緩やかに、そして執拗に先端を撫でるたびに、ザグレウスの喉奥から甘い息が漏れる。タナトスはその声を楽しむように、わざとゆっくりと、焦らすような動きを続ける。
「お前は本当に……」
囁きながら、タナトスはザグレウスの髪をそっと掬い上げ、白い額に口付けを落とす。そのまま、燃えるような黒髪を愛おしそうに指に絡める。
ザグレウス自身は気付いていない。彼の内に宿る 血の神の特性——温もりを帯びた生の息吹と、右目に宿る冥界の目。さらに、左目には母親譲りのエメラルドグリーンを湛え、その世にも稀な神秘の瞳。青白い顔立ちに映える燃え立つような漆黒の髪——。死神は、そのすべてに魅せられているということを。
「俺に触れられると、こんなにも素直になるんだな」
言葉では攻めていながら義弟を見つめる死神の眼はどこまでも愛おしげだ。
「うるさい……っ」
息も絶え絶えにそう返すザグレウスだったが、身体はすでに言葉とは裏腹だった。熱く滾る欲を持て余し、タナトスの手に身を預けるように腰を揺らす。
「そんなに欲しいのか?」
指先が、ねっとりとゆるやかに扱きあげる。
「ひっ……! た、タナトス……!」
ザグレウスの身体が震え、熱を持った腕がタナトスの肩へと縋るように伸ばされる。指先が逡巡するように彼の黒衣を掴むが、タナトスはそれを許すように片腕でしっかりと抱き寄せた。
「……もっと気持ちよくしてやる」
そう囁くと、タナトスの指先がさらに滑らかに動き、焦らしのない確かな快楽を与え始める。
「はぁっはぁぁっ……!」
ザグレウスは耐えきれず、タナトスの肩にしがみついた。その指が食い込むほど強くしがみつき、揺れる腰を止めることもできずに。タナトスは、そんなザグレウスの反応を満足そうに見下ろしながら、さらに愛撫を深め——。タナトスの指が巧みに扱き上げるたびに、ザグレウスの身体は震え、喉から甘い息が零れる。だが——。
「タナトス……」
熱く濡れた視線が、すっと細められる。
「どうした?」
タナトスが僅かに眉をひそめた瞬間、ザグレウスの手が彼の黒衣の隙間へと滑り込んだ。
「お前ばかり、ズルいだろ…」
低く囁くような声と共に、ザグレウスの手がタナトスの鍛えられた腹筋を撫でる。タナトスがわずかに息を詰めるのを感じ、ザグレウスは口角を上げた。
「そんな顔もするんだな」
指先がゆっくりと下へと降りていく。触れるか触れないかの距離で、焦らすようにタナトスの下半身をなぞり始めた。
「ザグ……っお前……」
今度はタナトスの方が、声を震わせる番だった。苦しげに吐息を漏らしながらも、タナトスの黄金の瞳には熱がこもる。けれど、それをザグレウスは楽しむように——今までの焦らしへの仕返しとばかりに、タナトスの中心を手のひらでゆるく撫でた。
「ふふっ……こっちも、すごく熱いじゃないか……」
挑発するように囁くザグレウスに、タナトスは片眉を跳ね上げた。
「んっ…くっ……生意気なことを」
「タンが先にやったんだろ?」
悪戯っぽく笑うと、ザグレウスの手はついに布の隙間からタナトスの雄を引きずり出した。剥き出しの雄の熱をしっかりと包み込み、ゆっくりと動かし始める。タナトスの喉奥から、わずかに低い息が漏れる。
「……っ、ザグ」
「なぁ、もっと感じてくれよ……タン」
囁きながら、ザグレウスはさらに指先の動きを深め——。タナトスの指がザグレウスの手を絡め取る。指と指を編み込むように握り合い、熱を持った中心へと導かれる。
「お前も、俺に触れろ」
タナトスの低く甘い声が耳元をくすぐる。言われるままに、ザグレウスは互いの手を重ねるようにして、その硬く猛ったものを寄せ合い重ね合わせ包み込んだ。熱い。お互いの熱が、直に伝わる。鼓動が手のひら越しに響き、互いに昂ぶっているのがありありと感じ取れた。
「……っ、タン……」
「ザグ……もっと、動かせ…」
ぎこちなく指を絡ませながら、ゆっくりと扱き上げる。粘膜の摩擦に敏感な先端が擦れ合い、互いの熱がじくじくと滲む。息が漏れ、震える手が次第に貪るような動きへと変わっていく。
「っ、ぁ、タナトス……!」
ザグレウスが震える声でタナトスの名を呼ぶ。タナトスもまた、僅かに息を乱しながらザグレウスの額に口づけた。
「イくのか?」
「っ、タン……っ、あ、あぁ……っ」
さらに擦り合わせる動きが激しくなる。互いの雄が、ぬるりと滑る熱に包まれながら、より深く求め合う。
「俺も……お前と一緒に……っ」
熱を持った瞳が重なり、荒い息が混ざる。そして——
『——っ!!』
ザグレウスとタナトスの身体が同時に跳ねた。絡め合った指先に熱いものが弾け、混ざり合う。タナトスは荒く息をつきながら、ザグレウスの手をそっと解き、己の熱を滴る精ごと絡め取るように握り直す。
「お前とこうして果てるのも、悪くないな」
満足げに微笑むタナトスに、ザグレウスは未だ上気した顔で睨みながらも、肩で息をしていた。
「……クソ……、あんたのせいで……こんなに」
「ふっ……まだ足りないなら、続きも付き合うぞ?」
「バカ……っ」
ザグレウスは乱れたトーガを無理やり整えながら、タナトスを軽く押しやる。だが、タナトスは余裕の笑みを浮かべながら、ザグレウスの乱れた髪を撫でた。
「また、お前が逃げないように……こうして閉じ込めておくべきか」
「俺は亡霊か何かかよ」
不満を漏らしながらも、ザグレウスはタナトスの腕の中から完全に逃れることはなかった。互いの熱をまだ名残惜しむように二人はしばし、絡めた指を解かずに互いの余韻を味わっていた。
荒い息を整えながら、ザグレウスはふと帷に目をやった。そして、その端に飛び散った痕跡を見つけた瞬間、背筋が凍る。
「タ…タナトス」
低く呼びかける声に、タナトスも視線を向ける。そして、彼もまた事態を悟った。
「……」
二人の間には、先ほどまでとは異なる緊張感が漂っていた。ザグレウスは唇を引き結び、苦々しげに眉を寄せる。
主従関係とはいえ、配下であるデューサに正直に話し謝罪したところで(正直に話せる内容ではないのだが)、激しく怒られるのはザグレウスの方だ。夜の女神ニュクスから厚い信頼を受ける彼女には、ザグレウスもまったく頭が上がらない。
「このまま黙っておくか?」
過去にデューサが丹念に磨いた壺を割ってしまい、怒った彼女に能力で石化されかけたことがある。ザグレウスは戦々恐々とし、そしてタナトスの顔を窺うように視線を向けた。タナトスは沈黙したまま、己の精が付着した痕をじっと見つめる。長いまつげの奥で、黄金の瞳が動揺で僅かに揺れた。
「そうだな……気づかれる前に別の帷と取り替えよう」
ザグレウスもそれに応じ、二人の間で無言の同意が交わされる。そっと保管庫に忍び込み(忍び込むのは瞬間移動を得意とするタナトスの役目だ)真新しい帷を首尾よく持ち出した二人は、汚れた帷を外し新しい物に付け替えた。そして何事もなかったかのような素振りで通路に戻る。汚れた帷はザグレウスが何食わぬ顔で洗濯室に放り込んだ。
「ああ……なんだか一気に疲れた」
館の一角にある談話室のカウチへと、ザグレウスはぐったりと身を投げ出した。
「今日はもう館を出るなどとは考えず、大人しく部屋へ戻り、読書でもするなり身を休めることだな」
タナトスは淡々とした口調で言いながらも、どこか満足げだった。先ほどまでの情事は、ザグレウスの家出を見透かした義兄が、彼を引き止めるための口実でもあったのだろう。——もっとも、それ以上の欲が勝っていたようではあるが。ザグレウスは、素直にタナトスの言葉を受け入れ、私室へと向かう。
冥界には夜も昼もない。その曖昧な時間の流れの中で、ふと静寂が深まる瞬間がある。
そして、彼は知っている。館の空気がよりひそやかに沈む頃、タナトスが再び彼を訪れることを。その時、また互いに求め合い、確かめ合うのだろう。伴侶と認めた相手だからこそ交わされる、奇妙で心地よいひととき。
冥界の時間は曖昧で、その流れは緩やかだ。神である彼らにとって、時間の概念は限りなく希薄である。けれど今はただ——タナトスが訪れる確信だけが、静かな期待となって胸の奥に灯っていた。
——終——
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