着信



公衆電話からの着信だった。
「あんなあヒトシ――。」
オバハン自分の携帯使わんかい、と思ったが、高座の直前に危篤やと言われたのを忘れた訳と違う。
それでも、さっきまでは、もしかしたらオヤジに、四人で地獄八景やったったで、と報告できるんかと思ってたんや。
このタイミングで掛かってきた電話が何を意味するのかはここにいる全員が分かっていた。
どうしようもない気持ちになりそうで「うん、うん。」と口にすることしか出来なかった。



電話を切って呆然としてるオレに「小草若、今の電話は。」と声を掛けたのは草原兄さんやった。
「臨終て言われたのはもう少し前やったそうです――。」とそこまで口にすると、草々がうっと唸って口に手を当てた。
「こっちの状況が分からんから、電話が掛けられんかったて。」
そうか、と言って項垂れた草原兄さんの隣で、喜代美ちゃんが草々の背中を押さえていて、四草も、泣くのを堪えているような顔をしている。
着替えはええからタクシーでそのまま行け、と草原兄さんに背中を押されたけど、急いでも意味がないことは分かってる。落語界の広告塔になったる、と大口を叩いて、そのままオヤジのとこに寄り付かんかった年月は、もう取り戻せない。
「今更、どうにもなりませんて。」と口にすると、そのまま口元が緩むのが分かった。
こういうときでも、案外笑えるもんやな。
「オレのこの着物の色、今のオヤジの前に立つには不謹慎過ぎますがな。」と紋付の袖を広げた。
真っ赤な紋付は、オレが子どもの頃に好きやった戦隊シリーズの赤の色で、いつもの天狗座の高座なら、陽気で豪奢で、場にふさわしい衣装だった。
「財布に金入ってるか?」と草原兄さんに言われて、首を縦に振った。
筆頭弟子の勤めは果たさんとな、とよく口にする兄さんらしく、今入っている分で足りるんか、と重ねて問われ、まだ頭は覚束ないままでも、はい、と返事は出来た。
マンション売ってもうても、まだ返さなならんローンが残ってる。ない袖は振れないと言っても、このところはオヤジの入院代の払いの立替とか色々と物入りが続いていて、これだけは使わないでおこうと思っていたとっときの通帳の中から、何かあった時のためにいくらかを引き出しておくようにしていた。
「若狭、お前は今のうちにタクシー呼んどき。」
やることをやって、泣くのはそれからや、と言わんばかりの草原兄さんの振舞だった。
「多めに持って行った方がいいですよ。」
こういうとき、兄さんと同じくらい冷静になれる生意気な男の言葉に、「草々、お前もいくらかは財布に金入ってんのやろ、小草若と一緒に着いてったらええわ。ここはオレらで片付けてから行くわ。」と草原兄さんが言葉を重ねる。
はい、といつもならデカい声上げるはずの草々は、さっきまでの意気揚々とした雰囲気はどこへ行ったのか、肩を落として泣いていた。
おい、今お前に先に泣かれたらオレが泣けへんがな。
「兄さんら、後はお願いします。」と言ってぐずぐずしている草々を引きずっていこうかとしたら、この手ぬぐいで顔隠してったらどうですか、と言って四草が草々の顔に袂から出した黒い手ぬぐいを掛ける。
「……お前、それやったらなんや、草々が警察に連れてかれるなんかの犯人みたいに見えるで。」草原兄さんのツッコミに「オレのこのカッコで警察に見えますか?」と言うと、喜代美ちゃんが吹き出した。
あかん、今はコントしとる場合とちゃうで。
まあ、草々は黒の紋付や、このまま行ってあかんことはないやろ。
「オレが着替えてる間に泣き止むんと違うか。」と言うて腰紐に手を伸ばすと、喜代美ちゃんが飛び上がって「私、あっちの部屋に戻ってます。草々兄さんはこれ持ってってください。」と言って懐から出したがま口を草々におっつけて、ぴゃっと控室を出て行った。
いつもなら追い出したみたいで悪かったな、と思うけど今は時間がない。
草々を見ると、四草の手ぬぐいで涙を拭いて鼻をかんでいる。
いつもの四草なら、何してるんですか、と文句のひとつも言うところだが、今日は何も言わない。
「おい、はよ着替えなあかんて言うてるやろ。せめて羽織脱がんかい。」
ひとつ年が上の男の尻を蹴飛ばす勢いで言うても、まだぐずぐずしている。
喪主はオレになるにしても、皆、若狭と夫婦になった草々がうちの内弟子部屋に住んでることは周りに知られてる。草若の名跡はこいつが継ぐと見ている人間も多いし、そのうちの半分は、こいつが喪主みたいなもんやと思うてるやろな。
そう思うと、高座に上がる前の動揺が嘘やったみたいに冷静になって来た。
「草々兄さんがこないして泣いてるとこどっかの記者にでもすっぱ抜かれたら、師匠が亡くなったこと、すぐに周りに知れてまいますよ。若狭の身内ならともかく、師匠が高座すっぽかした後も五月蠅いのがいてたでしょう。」
もう一人、冷静な顔をしてるヤツがいるわな、と思って四草を見ると、したり顔の男は、すっかり羽織を脱いでいた。
その帯を解く指が震えている。
こいつも、もう馬の骨ではないわな。
なんでこんな風になるまで、気づかんかったんやろ。
オレや草々だけとちゃう、オヤジの存在が、この場にいる全員にとってどんだけデカかったか。
「今は迷てる場合とちゃうな、四草、お前が小草若についてったり。」
草原兄さんに背中を押すような言葉を掛けられた四草は、目を見開いた。
「僕の財布、空っケツですけど。」と抵抗しているが、オレよりも手早く袴を脱いでいるその様子が何を意味しているか、オレには分かる。
オレもはよ着替えをせんと、四草に脱がされかねん。
「四草、オレの財布からちょっと貸すから今は持ってけ。」と草原兄さんが言った。
「……分かりました。」と四草はいつもの渋い顔をして財布を受け取った。
流石のお前も、こういう時は、きつねうどんを人に奢らすときの顔をせんのやな。


次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」

51 回読まれています