『かがやくひと』本文サンプル
「……いまだにあれは堪えるか」
「分かりきったこと聞かないで」
わざとぼかしたニョルズの問いかけにスカジは鋭敏に嫌悪を募らせる。
「決まっているでしょう。聞こえてくるたび、こう、頭蓋の裏側を爪か鏃でめちゃくちゃに引っ搔かれる気分よ。それか髪の毛の生えてるところに一本一本、焼いた鉄の針をねじ込まれる感じ。足の裏まで突き抜けて身動きが取れなくなる。最悪」
歯をのぞかせ鼻面に皺を寄せるスカジの表情は山犬か例の獣に似ていたが、ニョルズの記憶があの苦痛を妻と紐付けることはない。
「あなただって、――…………」
話の途中で杯に口をつけたスカジが瞳を丸くする。いったん杯に視線を落とし、二口、三口と続けて飲むのをニョルズは黙って眺める。杯をくゆらせながら唇を舐める仕草は他の者がやれば野卑にしか見えないのに、どうしてかスカジに限っては愛らしささえ滲むから不思議だ。
血が滾っているはずの戦や狩りの場でさえ凜と静まり返っている女の面差しが、情を浮かべてころころ移り変わるさまは見ていて心が安らぐ。胸の内の水面に穏やかな光が踊る。波の立てる泡のように、風に輝く漣のように、二度とは同じ形にならない彼女の美しい移ろいをできれば、近くで見ていたかった。それを赦される夫になりたかった。
「……私もあれらがいる夜はごめんだ」
自分の杯を傾けながら、ニョルズは暖炉の火に向かって口を開く。
「あれらの声に呑まれている間、失ったものの夢ばかり見た。捨て去った国が、夏の麦畑が、置いてきた妹が私に覆い被さり繰り返し囁いた。赦されない。赦さない。ここはお前の場所ではないと」
海神はこの国の生まれではない。軍神と豊穣神、権能を異とする神々同士の戦を終わらせるにあたり、豊穣神の国から人質として差し出されたのが海神だった。『ニョルズ』は、故郷の発音にならうと実は正しい名前ではない。本当の名前は軍神たちの発音に塗り潰されてほとんど呼ばれなくなった。海運は戦の要であるから、軍神の国は永久に海神を故郷へ還さない。世界が終わるその日まで。
「あなたの妹はそんなこと言わない」
巨人のきっぱりとした物言いに海神は苦笑を漏らす。
「きみは妹を知らないだろう」
「帰ってきてほしいならまっすぐそう言うべきだし、あなたの身内ならどうにもならないことを恨みがましく責めたりしない。あなたは私を責めなかった」
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