『かがやくひと』本文サンプル

*ページごとに別々の場面の抜粋を載せています*


「近くまで来たから」
 玄関の扉が開いて早々、自前の弓矢で狩ったのだろう山鳥を二羽、むんずと掴んだ手を突き出してきた彼女の言葉は何の言い訳にもなっていなかった。彼女が暮らすイチイの森に覆われた渓谷は、神々の長の城が聳え立つ平原を越えた向こう側にあって、そこで狩った山鳥を羽が艶を失わないうちに東の海岸まで運んでくるには、彼女の佩く魔法の|板橇《スキー》を延々と半日走らせなければならない。それに東の海岸に在るのは海神の住む小さな家くらいで、何かのついでに寄ったというのはやはり無理がある。
 けれどそれを指摘してしまうと逸り気な彼女は自分に家まで来てもらいたくなかったのだと捉えるだろう。だから扉を開けた男⸺日焼けた肌に金髪を垂らした海神ニョルズは、言い訳に気付かないふりをして、彼女の贈り物を両手で捧げ持つように受け取った。
「立派な鳥だ。ありがたく戴こう」
「そう。……じゃあ日が暮れるから」
「待て」
 踵を返そうとした背中を呼び止めると、彼女の黒檀色の髪が潮風にひるがえる。ニョルズを見る瞳は細められ、一見不機嫌そうに見えるが、取るべき態度を図りかねているだけなのだと今のニョルズには分かる。
「少し休んでいったらどうだ」
 本当は谷をたたえた山間まで送っていきたいのだが、彼女は固く拒むだろう。もともと父の仇討ちのため単身、宿敵である神々の国にやってきた女だ。生まれ育った巨人の国を置き去りに、弓矢と板橇、戦士の矜持だけをたずさえて神の国の地を踏んだ女は、父の無念を|雪《そそ》いだ後もなお孤高の戦士としてここに在る。
 神々の前に現れた彼女を初めて見た時の衝撃をニョルズは忘れない。まだ少女と呼ぶにふさわしい見た目をした彼女は、積雪が陽光を返して燃えるように輝く白銀を背に、獣の牙より鋭い光を孕んだ眼で神々を睨んでいた。灰色がかった薄青の双眸に怒りと誇りをたぎらせ、我が父の無念ここに晴らさん、と高らかに告げた彼女の、まばゆいほどの勇壮。今もニョルズの眼裏に焼きついて離れない光景。
「……好きな時に帰ってもいいなら」
 そんなひとにわずかでも同じ屋根の下で過ごすのを許されたのだから、つね他の神々から凪のような男と揶揄されるニョルズの口端にも笑みが浮かぶというものだ。
「無論だ。君を縛れる男などいないとも、スカジ」
 一歩下がって家の中を示すと、スカジと呼ばれた女は靴の泥を払って海神の家に足を踏み入れた。ニョルズはその横をすり抜けて奥に向かい、贈られた鳥をいちばん大きな窓の前に丁重に置いた。それから扉に引き返し外に出て、壁に立てかけられていた板橇を家の中に運び入れる。赤々と燃える暖炉の隣に横たわらせ、いつでも履いて行けるよう留め具のもつれをほどいておく。
「相変わらず。誰に対してもそうなの?」
 一連の様子を眺めていたスカジの言葉にニョルズは床に膝をついたまま答える。
「誰でもではない。尊ぶべき相手に礼を尽くすのは楽しいものだ。妻に対しては特に」
「そう?」 
「そうとも」
 スカジはそれ以上は何も言わず、背負っていた弓と矢筒を背中から下ろすと、ふだん誰にも触らせないそれを立ち上がった夫の両手に預けた。


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