真景川中島
半ば伝説のようになった小豆長光のことを語る機会は多かったが、ある琵琶の付喪神と語りあうときはいつもふたりきりだった。朝嵐というその琵琶は、銘の爽やかさに反して長い黒髪にぽってりした頬が印象的な、まろい色気をたたえた女だった。
ふたりとも謙信以来の什器なので付き合いは長いが、琵琶と太刀なので接点はなく普段からつるむ面子のなかにも互いはいなかった。ただ時折人目を避け誰にも告げずに夜語りにふけることがあった。傷のなめ合いだった。ふたりとも昔、同じ太刀に恋をしていた。
豊臣家が滅び、天下泰平が確固たるものになった頃、小豆の不在が決定的なものになった。城内が沈痛な空気に覆われるなか、朝嵐が山鳥毛に声を掛けてきた。暗い蔵の一角で細い指が山鳥毛の肩をそっと叩く。振り返ると顔から垂れる長い髪が山鳥毛にも触れた。暗い顔で己を見下ろす彼女を外に連れ出した。憎らしいほど爽やかな、月の明るい夜だった。
小豆はついぞ朝嵐の思いを知らなかったはずだが、山鳥毛は小豆と恋仲になる前から気付いていた。小豆とふたりで話し、ふとひとりになると朝嵐の視線を感じることがあった。つい見返すと気まずげに顔をそらしてどこかに行ってしまう。刀は気配に敏感であるし、楽器は感情表現が雄弁だ。くわえて山鳥毛と朝嵐は滅法そういった方面に勘が働いた。
ふたりとも相手に己にないものを見ていたのだろう。献上物でもっぱら大事にしまい込まれている山鳥毛は、小豆と同様に謙信公の普段使いの什器である朝嵐が羨ましかったし、琵琶の精の方でも小豆と戦や血生臭い話ができる太刀は羨望の対象だった。
山鳥毛を見る朝嵐の視線はいつも戸惑いに満ちていた。恋敵を目で追ってしまうのは悋気ゆえかもしれないが、攻撃的な含みは感じられない。山鳥毛もこの琵琶が穏やかながらも気位が高いことは知っていた。それに当時の山鳥毛は己の恋が成就する予兆を感じ取ってもいた。音もなく遠ざかる後ろ姿を何とも言えない気持ちで見送ったものだった。
山鳥毛が小豆と恋仲になってからは視線もぱたりと途絶え、蔵で肩を叩かれたのが数十年ぶりの接触だった。そもそもふたりきりで話すこと自体初めてだった。
あてどもなく米沢城内を彷徨い、結局お堀の端に連れだってつっ立っていた。水面に半月がゆらゆらと揺れている。口火を切ったのは朝嵐の方だった。
「お前、泣いたか?」
「いや……」
「泣いた方がいいぞ」
「君はどうなんだ」
「少し……。止まらなかった」
「そうか」
朝嵐はその場に座すと自身をそっとかき鳴らした。佐渡まで届いたと伝わる音色が水面を揺蕩う。聞きとがめるものがいるかもしれないが、朝嵐の音ならば察して放っておいてくれるだろう。伸びやかな琵琶の音は低く長く響いた。
「刀はどうやって飲みこむんだ」
「え?」
「私たちはこうして己に語りかけるんだ。何度も語って語って語りぬく」
撥は絶えず弦をつま弾いては音色を奏でる。黙ってしまった山鳥毛は武骨な奴めと笑われた。
「小豆も答えられなかったと思うぞ」
嫌な言い方になってしまったが、朝嵐は機嫌を損ねた様子はなかった。
「彼は言葉が必要な質ではなかっただろう」
「そうだな。君とは違ってね」
「お前が選ばれるなら、私でも脈はあったと思うのだがねえ……」
何と返せば良いか分からず何も言えない。
「なに、破れたものの恨み言だ」
朝嵐はそれだけ言って笑うと、黙り込んで弾くことに集中してしまった。山鳥毛は隣に座り、その音をずっと聞いていた。
それから何百年ものあいだ、忘れた頃にふたりで夜を明かした。朝嵐の気が向けば琵琶を弾いてくれることもあった。彼女に言わせれば聞かせるつもりではないとのことだが、山鳥毛は勝手に聞き手になって耳を傾けていた。
ふたりとも、恋したものとして小豆を偲ぶには相手しかいなかった。山鳥毛は恋仲としての話を皆の前でする性格でもなかったし、朝嵐も己の真意は隠し通していた。恋仲になったものと失恋したものの仲だが、無駄にプライドが高いもの同士だ。言われて嫌なことくらい察しがつく。距離の取り方に苦労することはなかった。
山鳥毛が講談調の川中島合戦を覚えてしまったのは御一新が終わってしばらく経ってのことだった。もともと米沢は米沢藩十五万石の城下町であり置賜地方の中心都市だったが、鉄道が通ると行きかう人と物が一気に増えた。当時講談は庶民の一大娯楽の一つだった。講釈場では連日講談が口演され賑わっていた。
「それで、通ううちに覚えたと」
朝嵐はからから笑った。笑いたければ笑え。言い訳をするならば、ここ数十年でどっと聞く機会が増えただけで、講談で川中島の合戦を聞くこと自体は百年くらい前からあった。
「どうせ未練がましいと思っているんだろう」
「お前の執念深さなんて今更だ」
琵琶は庭石を脇息代わりにもたれかかった。草地の上に長い髪が広がる。杉木立が林立する一角で、覆いかぶさる枝葉に月明かりがまだらに差し込んでいた。夜といえどもことさらに暗い場所だったが、生い茂る夏草は生気を立ち昇らせ闇より深い緑色に輝いていた。
「いいな、|演《や》ってくれ」
「自分で聞きに行け。明日はいよいよ一騎打ちの段だ」
「謙信公にお会いしたこともない奴の話を聞いて何が面白い」
むっと膨れて、さあやれと急かされる。
「内容からして創作だぞ」
「だからお前の語りで聞きたいんじゃないか」
朝嵐は、というより上杉の重宝連中は皆そうだが、一度言い始めると強情だった。絶対誰にも話すなよと釘を刺し、まずは一段語ってやった。
珍しいことにそれから幾夜も連続して朝嵐と夜をともにした。講談は段で話が区切られている。一夜一段で語っていったのだ。
語ってみて分かったのだが、演者は口を動かしている最中も意外と頭のなかは様々なことを考える。話の情景が頭の中に思い浮かぶときもあれば、ふと意識が過去に飛ぶときがある。面白いものだなと思っていたら、いよいよ合戦に至るという段で、小豆とのことが思い出された。過去と呼ぶにはあまりに鮮明な記憶だった。小豆が川中島から帰還したとき、彼がどんな様子でどんな風に山鳥毛に触れたのか、かつてない鮮やかさで山鳥毛の脳裏に再現された。
夕日が差し込み燃えるように赤々とした春日山城で、山鳥毛は小豆を出迎えた。おかえりと言えば小豆は笑い返してただいまと答えた。愛馬の法性月毛がいなくなってしまったとか戦場であいまみえた信玄の様子を聞き、人気がなくなった途端、首に伸びてきた手を山鳥毛は黙って受け入れていた。わずかに首を傾げ、くちづけを待つ。首筋に小豆の無骨な手が触れる。指先の皮膚のざらりとした感触に高揚する。気配が近づく。夏草と乾いた泥と、鉄さびに似た血の匂いが山鳥毛にくちづける。
そんな光景を山鳥毛は今まで知らなかった。
唐突に語りは止まった。山本勘助、討死でもって武田軍がいよいよ崩れる場面だった。
山鳥毛が語りやめても朝嵐は黙ったままだった。
「君は分かっていたのか」
「何がだ」
山鳥毛が脳裏で見ていたのは思い出と創作と想像がまぜこぜになったものだった。あの頃、まだ小豆とはただの同輩だった。小豆から信玄と一騎打ちしたという話を聞いたこともない。ただとうに恋を自覚していた山鳥毛は、一番に小豆をねぎらい、戦の話を聞き、甘えられてみたかった。そう願ったことだけは覚えている。だがその願望に今は確かな質感がともなっていた。当たり前だ。山鳥毛は恋仲だったのだ。小豆の指の感触も熱も触れるときの癖も知っている。くちづけだって何度もした。ただあの時には、川中島の戦いのときには、なかったことなのだ。
ぐったりと幹に体を預けた。
「たわごとに飲みこまれそうだ」
朝嵐は目を丸くさせていた。
「語れば語るほど己の物語になっていくものだよ」
「ならさせるな」
「それはお前、武器だろう? そのうえ頭は固いし講釈も下手だったから、お前が語れば何か違うものが見える気がしたのだ。期待したのだよ。私たち……楽器は、語らずにはおれないからね」
「二度とやらない。いいな?」
睨みつけて言うと琵琶は頷いた。ならば何度も偲ぶうちに変わってしまったものもあるのだろうということには、見て見ぬ振りをした。
第十六段を越えたところからいよいよ喉も辛くなってきた。喉はガラガラで浴衣は濡れそぼり、肌から体温を奪っていく。雨は弱まることもなく降り続け、髪からは雫がしたたり落ちている。それでもなお山鳥毛は語り続けた。小豆が帰還する前に決着をつけてしまいたかった。
部屋で指が首筋をかすめた瞬間、それは思い出のなかで夢見た小豆だと確信した。あの夢物語のような記憶を山鳥毛は誰にも話したことはない。あれは願望と祈りと妄執と劣情が折り重なったものだった。朝嵐にも詳細は語らなかった。語れるはずもない。それでも、口にしたことは一度もないものの、山鳥毛はあの妄想を忘れられなかった。幻想だと言い聞かせながら時折ひっそりと思い返していた。人は語ることを積み重ね、ときには過去すらねじ曲げるのだから、付喪神の己が少々夢に浸ったとして許されるだろうと思っていた。
雨はざあざあと降りしきり、段が進むほどに気配を近く感じた。懐かしく、愛おしい。小豆長光。謙信の愛刀。人が語り、そして山鳥毛が思い描く亡霊。恋仲であり、友人であり、立ち位置は違えども一つの時代を共有した刀。
後ろから抱きしめられる心地がして、山鳥毛は呆れ混じりの微笑を浮かべた。いつかはもう思い出せないが、こういう風に戯れあうこともよくあった。だがもしかしたら、刀剣男士として顕現してからの経験を思い出しているのかもしれない。記憶とは常に現在形なのだ。今というフィルターを通してしか過去を知ることはできない。
幽霊を見るのは神経のせいだと言われ始めたのは、明治に入っての頃だった。その言説は幽霊の類に近しいところにいる山鳥毛にも説得力を持って響いた。何もいないところを指さして幽霊が見えると騒ぐ奴もいれば、時たまにだが山鳥毛たちが見える者もいる。神経が幻覚を見せ、またあるいは常人には見えないものも詳らかにするというのは、ありそうなことに思えた。
もしこれが神経が見せるものならば、山鳥毛が刀剣男士でなければ、小豆長光が顕現していなければ、そもそも現れなかったかもしれない。現れたとしても捨て置いただろう。既に亡きものの残滓がどれほどのものという。だが今や小豆長光はこの本丸にいる。戦い、甘味をつくり、子どもたちを可愛がり、山鳥毛と酒を酌み交わす。亡霊は山鳥毛の一方的な血迷いごとになってしまった。背筋の凍る思いがした。一度語り思い描いたならば、もうなかったことにはできないのだ。
講談川中島合戦が長大なのは、合戦に至る経緯から上杉武田両陣営の武将を含め数多の登場人物を語りつくすからだ。だがやはりその核となるのは上杉謙信の生涯だ。山鳥毛が習い覚えたものは、その死を語ることで幕を引く。
「四十九歳にて逝去したまふ辞世に曰く」
語るまま首を傾げれば、唇の端に柔らかいものが触れる。それは小豆と同じ、温かなくちづけだった。
山鳥毛はこれを妄想だと断じなければならない。いま己を抱きしめているのは、山鳥毛が培ってきた六百年の追憶に過ぎないのだ。だがその追憶とともに山鳥毛は生きてきた。愛おしいと思わないはずがない。山鳥毛の小豆への愛情は転変する追憶を愛することでもあったのだ。
「四十九年|一睡夢《いっすいのゆめ》。|一期栄花《いちごのえいが》。|一杯酒《いっぱいのさけ》。まずこれをもって当講談の結局をつかまつる」
人も物も全てが滅びる。この追憶を道連れに、山鳥毛もいつかはその道をたどるのだろう。
余韻は残らなかった。ただ一切はうたかたとなり、雨音のうちに消えていく。そこにいるのは山鳥毛だけで、流水は全てを押し流していった。背に、肩に、唇に、降りしきる雨が冷たかった。
ため息をついた途端、咳き込んだ。喉が痛い。粘膜が切れているかもしれない。ふらつくままに沢に下り、突っ伏すようにして水を掬っては喉に流し込んだ。水は泥混じりだったが気にする余裕はない。泥が喉に引っ掛かり咳き込んではまた水を煽ることを繰り返す。おかげで膝から下は泥にまみれ、ますますひどい有様になっていく。
一息ついて帰路につく頃には東の空が白み始めていた。小雨になったものの頭上からはごろごろと小さな雷鳴がしていた。雨の次は雷か。雷雲は遠いので落ちはしないだろうが、誰かに見咎められる前に帰ろうと足早に竹林を突っ切った。
玄関にまわるよりも、どうせ泥だらけにするなら自室だけのほうがましだ。足の泥は浴衣で拭うことにして自室の窓のところに帰ってきた。遠目にガラス戸が閉まっていることを不思議に思いながら近づくと、なかに小豆がいた。
向こうもすぐに山鳥毛に気付いた。怪訝な顔をしながら窓を開けてくれる。
「なにをやっているのだ」
邂逅一番、挨拶どころか小言を食らった。何も言い訳できないので黙って窓べりに腰掛ける。裾で足を拭おうとしたら水を張った洗面器ごと雑巾を渡された。
「しゅぎょうあけにさいしょにすることが、きみのへやのそうじとはね。まどくらいしめていきなよ」
「すまない」
「こえだいじょうぶ?」
「今日は一日この状態かもしれない」
山鳥毛の言いにくい雰囲気を察したのか、小豆はふうんと相槌を打つだけで、てきぱきと箪笥から着替えとバスタオルを出した。つくづく良い奴だなと感心する。防具とジャケットは自室に置いてきたようだが、ベストの下のシャツは以前と異なり黒いものに変わっている。極めて帰ってきてすぐに山鳥毛の部屋に来てくれたことが知れた。
「小鳥には?」
「あったよ。しょきとうどのといっしょにでむかえてくれた。ちょうしょくのじかんまでおとなしくしてようとおもったのだが、きみのへやのでんきがついていたからね。はいったらきみはいないし、あけっぱなしのまどからはあめがふきこんでるし。ねえきみ、どうしてしまったのだ」
「……喉が良くなったら話す」
多分、と心の中で言い添えながら、真っ黒になった雑巾をすすぐ。
体を拭いて着替える間に、小豆がお茶を淹れてくれた。依然外からは断続的に雷の音がしていた。彼方から届く重低音は穏やかだ。小豆によく似合っている。
「今日のところは君の話を聞かせてほしい。謙信公にお会いしたのだろう?」
「うん、そうだね。おあいした」
乾いた布を纏い、ひと心地ついて卓に座る。湯気を立ち昇らせる湯呑に手を伸ばしかけて、まだ言っていないと思い至った。
「小豆長光、よく帰った」
「ああ、ただいま」
卓を挟んで互いに頭を下げていた。
「ご苦労だったな」
「よっかしかすぎていないって、ふしぎなかんじなのだぞ」
小豆が笑って顔を上げる。装束は変わっても小豆の微笑は何も変わっていなかった。指だけで手招きすると、仕方ないなあという顔で近づいてくる。話を聞くよりも触れて小豆の存在を確かめたかった。
「心配した」
「はいはい」
小豆の手が首をかすめて後頭部にまわる。抱きしめ、腕の中の存在全てを頭に刻みつけた。
「さびしかった?」
「そうだな」
「え、すなお……」
ぺしりと肩を叩くと小豆の笑い声が肩口をくすぐった。小豆の匂いがする。柄にもなく泣きそうになった。
また己は性懲りもなく亡霊を呼び覚ますかもしれない。だが追憶とは永遠に辿り着かない事実を、追い求めては反復することだ。そして真実はその堆積した記憶の中に編み込まれている。
唇を押しつける。強く抱きしめられる。まるで何百年か越しの抱擁のようだ。
小豆からは夏草と乾いた泥と、かすかな血臭が漂っていた。
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