真景川中島
梅雨の夜は闇が地上にわだかまる。月も星も雨雲に閉ざされ、暗さを増した闇が湿気を伝い部屋に入り込む。
山鳥毛が目を覚ましたのも、そんな雨の夜のことだった。常から常夜灯なしで就寝しているが、それにしても暗い夜だった。瞼を閉じても開いても景色が変わらない。目の前は真っ暗で、さぁ──っという断続的な雨音が空気を支配している。
寝返りを打つと、生温かい湿気に混じり夏草と乾いた泥の匂いが鼻をかすめた。嗅ぎ取ったと思えば掻き消えるような、かすかなものだ。鼻の奥に鉄臭い残り香が沈殿する。戦場の匂いだとすぐに気づいた。
「小豆……?」
もしかしたら出陣帰りに恋仲の部屋をちょっと覗いていったのかもしれない。出陣先は昼間でも、本丸に帰ってきたら夜ということはままあるのだ。戦場帰りの小豆の匂いに懐かしさを覚えながら、また眠りの底に引きずり込まれていった。
翌朝は曇天だった。部屋はほの暗く、すっきりしない体で伸びをしながら起床する。あの匂いは何だったのだろうと考えるうちに、あっと声を漏らした。
小豆は昨日の早朝から修行に出ていて不在だったのだ。
奇妙なことがあるものだと思った。もしかしたら小豆の不在にナーバスになっているのかもしれない。変な夢を見たと笑った。
「はは、懐かしいな……」
あの匂いを嗅いだのは一度きりのことだったのだ。
匂いは気のせいだと思っていたが、ところが同じ気配が次の晩にもやってきた。寝入りばなに香りが漂い目を覚ます。さすがに怪訝に思い即座に電灯をつけたが、目の前に広がるのは整然とした自室のみだ。山鳥毛は普段から整理整頓を心がけているので、すっきりとした室内には隠れられる場所はどこにもない。障子と窓にも目を走らせたが、どちらもぴったりと閉まっていた。ただ昨夜よりも強くなった雨が窓ガラスを打ちつけているだけだった。
その夜は布団も敷かず身も横たえず、自身を抱えたまま床の間の前に陣取った。煌々と電灯の明かりに照らされた室内でじっと息をひそめる。大げさだと笑い飛ばすことは容易だが、いかんせん小豆は逸話に寄って立つ部分が多い。捨て置くのも良くない気がしたのだ。とはいえ山鳥毛も半信半疑ではあった。自分が考えすぎの可能性の方が高い。率直に言えば寝てしまいたかったし、どうしてわざわざこんなことをとも思っている。だから眠い目をこすりながらのんきに待ち構えていた。
そんな心持ちだったので、深夜三時もまわると集中力も切れてきた。静かな夜だった。日が出ている間は止んでいた雨は、今は霧雨となり無音で降りしきっている。肌はじっとりと汗ばみ着物が張り付いていた。不快感に眉をひそめる。風の音もしないのだ。これなら窓を開けても吹き込みはしないだろう。
窓のところの障子を開けた。山鳥毛の部屋は角部屋なうえ窓側は裏の竹林に面しているので外は真っ暗だ。そのせいでガラス窓は鏡のように室内の様子を映し出していた。もし|何か《、、》がいるなら映るかもしれない。そう想像してついガラス越しに背後をまじまじ見つめてしまった。天井から部屋の隅まで眺めまわす。いっそいたら面白いとすら思っていた。
山鳥毛の淡い期待も虚しく、いつまでたっても無人の部屋とひどいしかめ面をした自分が映るばかりだった。昔、君の無表情は怖いんだよと小豆に言われたことを思い出した。君の無表情もたいがいだと心中で言い返しながら、がらりと窓を開けた。
白い光が真っ直ぐ地面に落ち竹の根元をかすめる。夜の闇がのっぺりと人型を作る。影は地面ではなく山鳥毛の目の前に直立していた。
自身を抜き放ち目の前を薙いだ。それは窓を開ける前から目の前に立っていたに違いない。そう気づいてうなじの毛が逆立った。
山鳥毛の依り代は霧雨に濡れるだけで手ごたえはなかった。地面を見下ろすと山鳥毛の影が濡れる地面に落ちている。殺気に気付いたようで隣の部屋から日光が起き出す気配がした。窓から顔を出した日光に何も言うなと手で示した。
「起こしたな、すまない。気のせいだ」
日光は一言も発しなかったものの、もの言いたげな顔をしている。長には慇懃だが彼も一文字の刀なだけあって我が強い。何と言って誤魔化そうか考えていると、すうっと、植物特有の青臭さが鼻孔をかすめた。あの匂いだ。
「翼よ、何かにおわないか?」
「いいえ、俺のところには届きません」
ただ、そうかと答えることしかできなかった。
日光には寝付けず高揚していたの一点張りで押し通し、そのままその日は諦めて布団を敷いて就寝した。寝てしまえば異変は起こらず、何事もなく朝を迎えた。|あれ《、、》の背丈はちょうど山鳥毛と同じくらいだった。つまり小豆と概ね同じだ。あいつ大丈夫だろうか。
朝食の席では小鳥にあくびをしているところを見られ、心配ですかと聞かれてしまった。曖昧に頷くと「小豆さんは答えを見つけたようですよ」と微笑みながら鮭の塩焼きをつついている。もう三通目も届いたのだ。修行は順調に進んでいるらしい。
どうせ小豆は明日の朝には帰って来る。それならばもう開き直るしかない。別にちょっと気配がするだけで無害であるし、山鳥毛にしか感じ取れない。元から小豆はベースにしているのが実刀剣なのか逸話なのかもよく分からない男士なので、こんな不思議なことくらいあるかもしれない。小豆が帰って来てもなお続くようなら小鳥に報告すれば良いだろう。
その夜は堂々と布団も敷き真っ暗な部屋で寝た。居直ってしまったのもあるし、何よりしっかり寝ておきたかった。寝不足で出迎えたりしたら確実に揶揄われる。
この三日間で一番の雨の夜だった。大粒の雨が屋根や壁や窓に打ち付け、ばたばたと音を立てながら地上に降り注ぐ。雨の低い唸り声は眠りを深くさせるようで、本丸中が寝入っていた。山鳥毛もいつもならば眠り込んでいたところだったが、今日ばかりは眠りは浅かった。気配を感じた瞬間布団を跳ねのけていた。内心しつこいなと呆れてもいた。
香りが漂う方向をじっと見つめる。梅雨に見合わぬ乾いた香りだ。|戦場《いくさば》の野蛮な雰囲気をそのまま閉じ込めている。手探りで紐を引っ張り電灯をつけた。
灯りは一度点滅してから、ぱっと科学の輝きで部屋を照らし出した。昼の太陽よりなお白く容赦ない光が畳の目ひとつひとつまで白日の下にさらしだす。
何もなかった。ただぽつねんと布団が敷かれ、文机があるだけだ。雨の重低音が沈黙をより一層深める。
こめかみから汗が落ちた。はっと鋭く息を吐きだす。電灯が一度光っては消え、また光るまでの暗闇の一瞬、山鳥毛の目の前に、夜より暗い人影が立っていたのだ。覆いかぶさるように立っていたそれは、電気がつくその瞬間、山鳥毛の首筋をひと撫でしていった。
誰もいないはずの自室に何ものかがいた。山鳥毛は常になく驚いていたが、息を整えると灯を消し静かに窓を開けた。手探りで窓枠を乗り越え地面に降り立つ。足元で僅かに水の跳ねる音がしたが、この雨音なら掻き消してくれるだろう。濡れてぬかるむ地面は裸足には冷たかった。軒を出るやみるみる浴衣は水分を吸って重くなる。大粒の雨を頭からかぶり、瞬く間に濡れ鼠になった。
水滴が落ちる前髪をかき上げる。とにかく人がいないところに行きたかった。あのにおい、山鳥毛に触れる手つき、心の片隅で覚えはあったのだが、いよいよ否定できなくなった。ひとりで向き合いたい。誰にも知られたくない。だから雨の音に紛れるように竹林の奥深くに足を踏み入れた。
夜目のきかない山鳥毛にとって夜闇の竹林は漆黒と言って良かった。頭上に生い茂る葉のおかげで降り注ぐ雨量は減ったが、歩きにくいことこの上ない。何度か竹にぶつかりながら敷地を流れる沢の傍に出る。ここなら建物からも遠く、山鳥毛の声も水量を増した流れに掻き消されるだろう。
緩やかな斜面に置かれた石に腰掛けた。帯に差した扇子を取り出す。本来なら釈台と|張扇《はりおうぎ》も必要だが、山鳥毛は一度も使ったことがなかった。実を言えば扇子を使うのも初めてだ。素人芸の極みであるし、たったひとり聞きたいというひとがいたからやったことがあるだけで、聞かせられるものでは全くない。いざ斬りかかるその瞬間のように、鋭く息を吐き出す。
──そもそも川中島の合戦は武田方より上杉を攻め滅ぼすを……
講談を語る山鳥毛の声は雨を切り裂いて沢に響いた。声以外に何もない。ただ語るだけだ。それでもパアンという張扇の幻聴を聞いた。
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