【重要機密】特務司書・アルケミスト:都竹和仁についての記録
事象記録①:耗弱状態または喪失状態にある文豪に対する洋墨を用いない補修について
発生日時:20XX年XX月XX日 XX時XX分頃
発生場所:帝國図書館内補修室 第1ベッド
潜書先:「ろ」段「金色夜叉」
潜書結果:浄化成功。軽傷者3名、喪失1名
対象文豪:徳田秋声(喪失)
「──傷ついた者は、補修室へ。すぐに処置に入る」
補修室を預かる森鴎外が、有碍書より戻った会派へ指示を飛ばしている。和仁も身を翻し、補修室へと急いだ。
「徳田先生」
ベッドの傍らに膝をつき、声をかける。返ってきた一瞥は、彼の放つ矢のように鋭かった。
「なんだよ!? そんなに僕が失敗して面白いかい!」
「……先生、いいから、横になってください。傷に障ります」
「寄らないでくれ、僕に構うのはよしてくれよ……!」
秋声の顔は、洋墨で黒く汚れていた。突き放すように顔を逸らし、秋声は和仁の手を拒む。心神喪失状態にあるゆえに、常にない刺々しさで和仁を突き放そうとする。激しく震える身体は、精神の不安定さを示していた。
「徳田先生」
「……っ!」
秋声の肩がびくりと震えるのを感じて、和仁は思わず目を伏せた。しかしすぐに顔を上げ、もう一度彼に向かって呼びかける。
「徳田先生」
「……」
返事はない。だが構わず続けた。
「手当てを、させてください。お願いします」
「……」
秋声がゆっくりと、首をもたげる。視線が合った(ような気がした)。
「お願いします」
和仁は重ねて懇願した。すると秋声は、根負けしたように小さくため息をつく。
「……わかったよ」
「ありがとうございます」
ようやく折れてくれたことに安堵して、和仁はほっと息をつく。
「……大丈夫か?」
「あ、森先生……はい、大丈夫です。今から始めますね」
簡単な傷の処置であれば補修室を預かる森が対応するのだが、耗弱または喪失状態となった文豪の「補修」は、原則としてアルケミストにしか行うことができない。
文豪の精神状態によっては、補修を拒絶される場合があるが、これは職務の一環であり、必要な行為なのだ。単に傷を癒やすというよりは、精神面のケアに重きを置くものだが、和仁はこの部分に長けている。傷ついた文豪たちに寄り添い、その声に耳を傾け、辛抱強く聞き役に徹する。それが己にできる最大の助力と、和仁は思っていた。
「……」
ベッドに横たわった徳田秋声が、じっと黙り込んでいる。少し落ち着いたのか、呼吸も安定してきたようだ。先程感じたような剣呑さは双眸から消え失せていたが、代わりに虚ろな眼差しがそこに残されていた。
「司書さん……」
「はい」
呼びかけに応じて、和仁は洋墨の瓶を開けようとした手を止め、ベッド脇の椅子に座る。
秋声は、しばし沈黙した。和仁は急かすこともせず、ただ静かに待つ。やがて彼が口を開いた。
「僕は……失敗したよ」
「……はい」
「まただ……何度失敗したら気が済むんだろう……やっぱり僕には無理なんだよ……」
その声色には、自虐的な響きがあった。自嘲と罪悪感がにじみ出ている。
「先生。どうか、おひとりで抱え込んでしまわないでください」
「君にも、心ない言葉をぶつけて……傷つけてしまう。大人げないだろ?」
「徳田先生……」
秋声は自嘲するように笑い、それから大きくため息をついた。そして、ぽつりと呟く。
「ああ……本当に、嫌だな……」
「先生、どうか……」
和仁は秋声の手を握りながら、静かに語りかける。その声音には、相手を思いやる気持ちが滲んでいた。しかし同時にどこか悲しげで苦しそうな響きもあった。
「……ごめん」
秋声はそう言って目を伏せる。
「大人として、君のことも守らなくちゃいけないのに。本当に、ごめん……許さなくていいから」
「徳田先生!」
和仁は、秋声のを手を握る手に力を込めた。
「謝らないでください。僕は、先生がご無事でいてくださっただけで、十分なんです。本当です」
「けど、僕は」
「どんなことがあっても……僕は、あなたをゆるします」
和仁の指先から、光の粒子が広がっていく。それは洋墨の染みを吸収するかのように、傷を塞いでいく。
「ですから……どうか、ご自分を責めないでください。僕は、いつだって先生方のおそばにいますから」
傷が癒えていくにつれ、秋声の表情が和らぎ、その顔色も血色を取り戻していく。
「……ありがとう、司書さん」
「少し、眠ってください」
「うん……そうさせてもらうよ」
秋声は静かに目を閉じ、ほどなくして深い眠りへと落ちていく。
「徳田先生の補修、完了しました。もう大丈夫ですね」
「ああ、……ありがとう」
森は、その一部始終を息を詰めて見守っていた。目の前で繰り広げられた光景は、人の領域を超えているのではないかと直感的に思い、手当てを終えた文豪のひとりに、館長を呼ぶよう頼んでいた。自分が今目にしたものに理解が追いついていなかったが、不思議と恐怖心はなく、むしろ神聖なものに対する畏敬の念に似た感情が湧き上がるのを感じていた。
インタビュー記録:耗弱状態または喪失状態にある文豪に対する洋墨を用いない補修について
日時:20XX年XX月XX日
対象:帝國図書館 特務司書 都竹和仁
担当:帝國図書館 館長
館長「忙しいところ、時間を取らせて済まないな。先日、補修室で起きたことについて、話を聞かせてもらいたい」
都竹(やや緊張した声で)「はい」
館長(苦笑しながら)「そんなに緊張しなくてもいい、責めようというわけではないからな。ただ……前例のない事象だったものだから、君の話を聞いて状況整理と検証を行う必要がある」
都竹「はい、わかっています」
館長「では、さっそく質問に入ろう。まず、確認だが……今回補修したのは徳田秋声だな?」
都竹「はい」
館長「森鴎外から報告を受けた。『洋墨を用いずに補修した』というのは事実か?」
都竹(困惑した様子で)「はい……そう、だと、思います」
館長「……どうやったのか、教えてもらえるだろうか?」
都竹「それは、あの……すみません。僕自身にも、よく、わからなくて」
館長「意図的にやったというわけでないんだな?」
都竹「はい。洋墨の瓶を開けようとして、徳田先生に呼ばれて、それをやめて……ただあの時は、徳田先生がご自身を責めるのをやめてほしくて、その一心で呼びかけていて……」
館長「原因も具体的な方法も不明、と……なるほどな」
都竹「……お役に立てず、すみません」
館長「謝ることはない、初めてのことではな。今回はひとまず、次に同じようなことが起きた時に速やかに対処できるよう、前例として記録しておこう」
都竹「はい」
館長「君自身の体調の変化はないだろうか?」
都竹「はい。いつもと変わりません」
館長「そうか。不安はあるだろうか? 何かできることがあれ、協力を惜しむつもりはない」
都竹「……いいえ。今のところは、大丈夫です」
館長「精神をすり減らした文豪たちは、時に心にもない強い言葉ことを口走ってしまう者も少なくない。君自身、そういった言葉を受けたことはあったか?」
都竹「はい。でも……僕は平気です」
館長「それは何故だろうか。君は文豪たちの言葉を真摯に受け止めるが、それに対して反論は一切しないと聞いている。それが君の流儀なのか?」
都竹(少し考え込んでから)「……そうかもしれません。僕が先生方にして差し上げられることは、そうやってお話を聞いて差し上げられることくらいですから」
館長「そんなことはないと思うぞ。文豪たちに話を聞くと、君への感謝を述べる者、信頼を寄せている者、力になりたいと願う者、文学に対する姿勢を評価する者──様々だが、君の真心は彼らに伝わっているだろう」
都竹「……先生方が、僕をそんなふうに思ってくださっていることは、嬉しいです」
館長(苦笑して)「まあ……君はまだ若く、歴史上に名を残す文豪たちに畏敬の念を抱いているであろうことはわかる。何はともあれ、文豪たちの気持ちを否定せず受け入れる君の姿勢は、賞賛に値するものだ。理論付けはできていないが……『彼らの力になりたい』という強い願いの発露が、今回の事象にあらわれたのかもしれないな」
都竹「……」
館長「その思いが、今後どのような形をとるかは誰にもわからない。今回のような事例がまた起こるのか、はたまた二度と起こらないのか……注意深く見守っていく必要はあるだろう」
都竹「はい。わかりました」
館長「何かあれば、いつでも相談してくれ」
都竹(ほっとしたように微笑んで)「ありがとうございます」
以上
まとめ:喪失状態の文豪の補修に「洋墨を用いない」という異例の事象が発生。発生の条件およびメカニズムは一切不明。特務司書が持つ特殊な性質が原因か。あるいは、「力になりたい」という強い願いの表れか。
今後の課題:当事象が文豪の精神にどのような影響を及ぼすかを注視すると共に、発生条件やメカニズムを解明する。また、特務司書自身への影響も考慮し、慎重に経過観察を行う必要があることを認める。負の方向へ作用しないとは限らないため、自らの意思で制御できる兆候がみられるまでは、能力の使用を禁ずる暫定措置をとるものとする。
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