鳥の子3


頭が割れそうに痛い。かといって横になっても片頭痛は治まるところを知らず、ただ自身がどれほど強烈な存在かをアピールし続けている。それほどまでに自己主張せずとも、僅かな痛みですら割けるだけの意識があるというのに。
実験は成功した。私は全てを背負い、また彼女も知らぬ全てを背負っている。いつもの晴れやかな表情は私が本来見たかったものだ。彼女はここに生きる人間として、よりよい生活を享受する権利がある。苦悩に溺れても救済される価値がある。どれだけ性根が穢れていても、容姿を美しいと評されずとも、誇りと共に己の足で歩くだけの理由がある。この先の未来に、ユートピアの花畑までの道のりに祈りを添えられていい。簡単に捨てられるかもしれないが、簡単に拾われてもいい。
かつて彼女が口にした言葉を覚えている。そして私も同じだけの言葉を扱える。
「sinulle、siunaus」
これは祈りの言葉だ。私達が決して訪れることの出来ないどこか遠くの地で生まれた、世界でとてもメジャーとは言えない言語。この意味を直接理解できる者はそう多くないが、現代においてあらゆる言葉は同時に翻訳できるまでに成長した。バベルの塔が崩壊して私達は散り散りになったと思われて、実際のところ礎はまだ残されていたということだ。私達はこの言語ですら、拙い翻訳機を頼りにすることで解読が出来るし、誰もが発音することだって出来る。
私達は誰にでも祈りを捧げることが出来るんだ。次の次、もっと先、人生の終着点まで。君の足元を照らす灯りになれる。或いは君の行く先を示す標識の一つに、君が道中拾った小石を集める鞄に。君が失ったと喚く羽にすら、姿を変えることが出来るだろう。
君に、祝福を。

体外の血管に繋がれることを不快と捉えていたのは、随分前のこと。今はもうこれがないと生きていけない。時々とんでもない不味さが流れこんでくることもあるけど、わたしの大好きなお話しはいつもここにあった。生クリームがたっぷりデコレーションされたケーキも、拍手で迎えいれてくれるみんなも、この甘さの中に隠されている。もちろん、あなたも。
ねえシキ、わたしは一人で生きていけないよ。
腕を伸ばしたら、まだすぐ隣にあなたがいてくれる。鏡越しに映るあなたの顔は相変わらずくたびれているけど、その疲れはきっとわたしが取り除いてあげられる。だってあなたはわたしのことをずっと大切に思ってくれているから。わたしの頬を撫でてくれるなら、わたしだってあなたの手の甲をなぞってあげる。
腕を伸ばして、血管もゆっくり追従した。ポタリと落ちた透明な血液がほんのちょっとの苦みを孕んでわたしの体に流れてくる。でもそれすらも甘いって思ったらもうなんにも怖くないよ。
情報量の多い電子画面も、場を緊迫させる機器も、全てベッドフレームの輪郭と一緒に解けていく。やがて管の重みも感じなくなって、ここにはわたしとあなたのふたりきり。耳障りな機械音も子供の金切り声もない真っ新な白地の向こうが見えてくる。どこからか光が差しこんで、でもわたしたちの影はひとつだって落ちやしない。わたしたちはただそこに、在るの。
白地には疲れも、苦しみも、痛みも、置いておく必要はない。苛立ちも後悔も焦りも不安も、嫉妬だっていらない。もっと自由に、頭蓋骨の蓋が開くみたいに、軽やかな翼を得たみたいに、日々の憂いを捨て去っていける。何が見たい? よく似たお話しばかりだけど、まだたくさんあるの。あなたに聞かせたいこと。あなたと作っていけるもの。
相互理解は生涯叶わない。何を見ようと私達はいつもすれ違っている。物語の幕が開けてから、この白地を覗いた時から、飽きるほど口にしてきたことだ。だが透明なガラス越しに分かたれた道を歩いていてもなお、私達の歩幅は同じなのだ。理解しようとしている。君のことを。
最後が全て空しいものだとしても、君の見せたいものを見ようと努力している誰かがいる。それは私かもしれないし、君が見向きもしなかった群衆の一人かもしれない。少なくとも私は、叶わぬ中で最善を尽くそうとしている。
すっかり軽くなった体は思うままに動かせて、わたしは曲に合わせて自分なりのダンスを踊ることだってできるようになった。何度もおんなじ振りを繰り返すのは知らないふり。ね、一緒に踊って? そうしたらきっと、今よりもっと素敵なダンスが踊れるようになるから!
ふわふわの足取りをゆっくり地に下ろして、わたしはずっと笑顔でいて、あの日食べたケーキの味なんかを思い出す。でもそこに未来はない。全部が過去のこと。忘れないように抱えてきた人生の、過去。忘れないように? わすれ――忘れていいんだ、怜。
拙い外界のフレーズは君がもたらす唯一の絵画だ。草木も生えない白の中で、君だけが色どりを与えられる。私達が光に照らされたとして、それは君がつけた感性なんだ。過去に育てられ発露したものを誰かから植え付けられた歪みだとは思わないでくれ。今日君が瞳を青色にしたいなら、それでもいいんだ。私はそれを受け入れる。
覚悟があったんだと思う。だからあなたは選択をして、お話しが始まっていく。でもそれすらわたしが与えたものだとしたら? 強い憐憫の意すら、積年の無力さすら、はじめからあなたに存在しないのだとしたら? シキ、あなたは何者なの?

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