鳥の子3

どうしようもない出来損ないだってことに気付いた。
忘れたいことが増えた。あれほど幸せだったはずなのに、幸せであるはずなのに、わたしの全てが重石になっていつの間にか足元ばかりを見て。もうとっくの昔に心が割れていたんだ。割れたハートの片方は花びらみたいだから、心なんてものは当然簡単に散ってしまうってことにも納得がいく。花は枯れて、やがて死ぬ。風の吹かない場所でもひとりでに花びらは舞う。
わたしの知らない世界を知っている彼は、別にそれを自慢げに気取ることもなく淡々と話して聞かせた。彼の前世も花が舞い、住人は連れられた子供のように出会いと別れを示される。不思議な本《せかい》の話。
わたしは妙に憎たらしくなって、声を荒げて立ち去った。わたしが知らない世界をなんで知っているの? そこにわたし以外がいる必要ってないじゃない! お伽噺にはひとつも嫉妬なんてしないのに、あなたの距離が近い、ただそれだけでわたしはあなたのことを許せなくなった。だって今わたしたちは同じ世界の住人なの。どうして同じものが見れないの? あんなに書いたのにまだ伝わらないの?
わたしの怒りだって長い間じっくり煮込まれていて、どれだけ腕のいいシェフでも美味しい料理にすることは出来ないくらい鍋に焦げ付いていた。白地の中に刻んだ線は消したって無駄。シャーペンで引いた線は消しゴムで消しても線の名残は残ってるでしょ。わたしはそんなシャーペンなんかよりもっと鋭利な、冷凍肉だって切れちゃうような研がれたナイフを両手で握りしめてたんだから。
白地は見るも無残な姿に成り果てた。どれだけ形を戻そうと、消そうと、既に刻まれた奥底の黒地を誤魔化すことは出来ない。もはや切り絵のようなものだ。ドロドロと流れ出る闇が白地を際立たせる。或いは、既に私達の方が闇の引き立て役なのかもしれない。
囚われることって恋人みたいだって、前に話したよね。わたし、本当にそうだと思ってる。でもあなたはずっと否定して、今もわたしたちの関係にすら名前をつけられずにいて、ずっと曖昧なまま隣を歩いてる。それって囚われてるといえるの? あなたの強い怒りや苦しみを無視したいわけじゃないけど、なんでもいいから名前をつけるべきよ。そう、わたしがあなたに嫉妬してるみたいに!
許せないことばかり。あなたが苦しむ理由をわたしに擦りつけてることも、わたしの羽を奪ったことも。わたし、あなたにずっと期待してた。興味を持ってたから、あなたの言葉をとっても面白く聞いていた。でも結局あなたの世界のことだって別の誰かが語れるんだ。
そもそも話を強請ったのは君だった。楽しみにしていたのは紛れもなく君だったはずだ。私がその期待に応えられないだけで、これまでのこと全てを押し付けるのか。そうして生まれた感情を全て負に変換してしまったのは、結局のところ君の心が狭いからとしか言いようがない。どこまでも矮小で平凡な欲求の権化。なあ、本当に全てを捨ててしまいたいと思うか?
記憶って思い出せないだけだって言うでしょ。じゃあ私が忘れたことはどこかに残っていて、ずっと眠っているの。それって忘れたって言える? 本当はみんな初めから全部を背負って生きてる。全てを捨てることなんて無理なんだ。ねえ、だから苦しむんだよね。だからどこにも行けなくて、逃げたくて、あんな気の狂った天使なんて生み出しちゃうんだ!

怜の背なに翼が生えているのを見た。ありきたりな表現だが、穢れのない純白の翼だった。
その体躯に見合わぬほど大きな翼が今彼女の肩甲骨の下で、呼吸と共に緩く上下している。もしかすれば本当にこの翼を奪ってしまったのは、地に足つけることを強制したのは自分なのではないかと思った。それほどまでに私を圧迫するだけの質量を抱えていたのだ。
忘れたいことがある。まだ決して長いとは言えない人生の中で、忘れたいことなんてキリがないくらい数えられる。鬱陶しい歴史はずっと頭にこびりついて、黒い染みになって、いつしか囚われの小さな体を乗っ取った。わたしのこんなにも健気な生き様すら黒い足跡を残し続けている。忘れたい。全部を。はやく。今すぐに。
全てを捨ててしまいたいと、思うよ。
人生とは、そこまで悲観的である必要はない。決して苦しみ続ける必要はない。それなのに形成された歪みのせいで君はいつも生き辛そうだ。ならばどうして君の背に、今もまだ美しい翼が生え揃っている?
絶望こそが最も美しい。そうでしょ?

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