厄介
「やっと寝たな~~」
「そうですねえ。今日も一日やっと終わった、て感じですね。」
ベビーベットですやすやと寝息を立て始めた子を眺めてた喜代美ちゃんは、はあ、と大きなため息を吐いた。
赤ん坊と言っても侮れない。もうこの大きさになってしまうと周りの言うことはなんとなく聞き取れるみたいで、オチコはオレが帰るというとギャアギャア泣くわ、暴れるわ。
そないにお馬さんがおらんようになるのが許せんのかいな、このお姫さんは。
普段は暴れはっちゃくやけど、寝顔はまあ天使やな。
さてと、オレもそろそろ帰るか。
部屋で待ってるはずの男の顔を思い出しながら伸びをしてると喜代美ちゃんと目が合うた。
「草若兄さん、今夜はお疲れ様でした。もうおうち、帰らはります? ちょっと待っとってください。私お茶入れて来ますんで。」
「いや、ええて、ええて。」
「そない言っても、ちょっと休んでからの方が。」
喜代美ちゃんが言うのにそのまま甘えてしまうのもどうかと思う。
疲れを見せた横顔見てると、なんややっぱり子育てて大変なんやろう。二十代でもツラいて聞くのに、喜代美ちゃんはもう三十代半ばや。いや、まあ今もほんまに可愛いけどな。
「そんなら、オレが茶を入れて来るから喜代美ちゃんはそこに座っとき。」
そう言って、オレが格好付けて立ち上がると、我が子がぎゃあぎゃあ泣いてるとこも気にせずに爆睡していた草々が、いつもの継ぎ接ぎだらけの座布団からむくりと起き上がった。
「いや、若狭、お前が茶ぁ入れて来い。」
うお、びっくりした。
お前いつから聞いてたんや…いや、やっぱり突っ込むの止めとこ。
昨日は夜泣きのオチコをあやすために徹夜してそのまま弟子の稽古も見てたらしく、今夜の草々の顔は妙にむくんでいて、からかう気も失せた。
「お前いつから起きてたんや、草々。」
「今や、今。」と草々は億劫そうに頭をかいた。
昔はこういう仕草もようせんかった。なんや、お互い年食ったなあ。
「湯は沸かしてポットに入れたのあるし、片付けはオレがまとめてやるから、流しにそのままほかしとけ。」と草々が言うと、喜代美ちゃんは「はい、ありがとうございます!」と出会った頃のようにシャキっと立ち上がった。
ああ〜、行かんといてくれ。
オチコも寝てんのに、この場に草々と二人で残されるの敵わんで。
「……」
案の定、重っ苦しい沈黙がやって来た。稽古せえ、しとるわ、の応酬も最近はのうなって、こうなるともう、他に何を話せばええんやコイツと…て感じやで。この年で落語談義でもなしに、と思っていると水屋からはあの懐かしい「ちりとてちん」が聴こえてきた。
「落語、ホンマにすっぱり辞めるつもりなんか、喜代美ちゃん。」
「その話は後でええ。」
後で、て。
お前、今日はなんか他にオレに話したいことでもあるんか?
「……。」
たまには殊勝に聞いたろか、と思って待ってるのに、口をつぐんだまま、怒ってるて感じでもない。
なんやねん一体。
今からオヤジの十三回忌の話でもするつもりか?
「お前、それ、どないなってんねん。」
「それ…て何や?」
「それやから、それや。」
「だから、それ、てなんや、て言うてんねん。」
「パンツのゴム見えとるぞ、て話しや!」
お〜〜〜〜い、草々、お前!
後ろ、後ろ見んかい、このボケ。
「あ、すいません、草若兄さん。」という申し訳なさそうな声に草々が目を剥いて振り返った。
「その~、うちの子のお馬さんしてる間にズボンずり落ちてしもてたん、実は私も気ぃ付いてたんですけど。」
あ〜もう。
オチコのオヤジでなかったら、おまえのこと今から愛宕山に埋めに行くとこやぞ。
亭主関白気取りよって、結局これかい。
「言うても、どうせまたズボンは下がるし、意味ないかなと思ってたんですけど。ホンマにすいません。」とあっさり頭を下げられると、もうなんや肩ががっくり落ちてしまうわ。
まあ、内弟子の修行してる間に、散々オヤジの股引やら草々のパンツやら見てるわな。
「若狭、お前なあ……。」と草々は口を開けている。
おい草々、デリカシーないんかとか、お前の口からだけは聞きとうないぞオレは。
「喜代美ちゃ〜ん、気付いてたんなら教えてや…こんなん後から言われる方が恥ずかしいで。オレが女子高生なら、ここで『キャー!!』言うて倒れとるとこや。」
「ええやないですかそのくらい。私なんか出会うた頃、草々兄さんに毛糸の、」
「わ―――!」と草々が叫んで、起きてもうたオチコが「ギャーーー!」
ああ、振り出しに戻ってもうたやないか。
オレはもう帰るで、後はよろしく頼むわ。
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