勧酒
謙信公が没した。
春日山城は春爛漫だった。山肌には生い茂る緑の合間に山桜が薄紅の花を付けている。里に目をやれば雪解け水が大地を潤し、田に注ぎ込む。長い冬が終わり、人々は農作業に精を出していた。朝寝を誘うのどかな空気だった。庭から空を見上げると、うっすらと雲にけぶっている。柔らかな霞がかった青だった。「春だな」と山鳥毛は誰に聞かせるでもなく呟いた。
謙信公の遺骸は自室に安置されていた。控えの者がいるだけで静かなものだ。行きすがら、法要の準備やら軍議やらで館はどこも忙しなかったが、その騒めきもここまで届くことはなかった。館には不穏な空気が満ちている。だがこの部屋だけは静謐と清浄が保たれていた。部屋の前で外を一瞥する。庭には明るい陽射しが射し込み春の陽気に満ちていた。だが一歩影に入れば冷気が纏わりついた。
控えている若武者は山鳥毛が通り過ぎても微動だにしなかった。板間に座して、主の眠りを守っている。誰もいなくとも緊張を途切れさせず、前を見据える眼光は鋭い。忠義心の厚さに好感を覚えた。
人間は誰も山鳥毛たちの姿を目にすることは出来なかった。名剣名刀を愛した謙信公も古精を見定めることはついになかった。彼が刀を手入れし、あるいは惚れ惚れと見守っていたときに、刀たちは誇らしい気持ちを抱えながら傍に侍っていたものだ。息を引き取る際にさまざまなものが枕元に集まっていた。そういうことも知らずに謙信公はこの世を去った。知る必要のないことだと山鳥毛は考えている。そういうものが見えるのは人の業ではないのだ。
「一晩ご苦労だった。大事はなかったか?」
「ああ、山鳥毛」
小豆長光がにこやかに答えた。
昨日の臨終から、亡骸を守っていたのが謙信景光と小豆長光だった。謙信公が息を引き取る間際まで枕元に置かれていたのも彼らだった。だから皆、一晩この二振りに守りを任せた。同じ付喪神として別れを惜しむ時間を彼らに与えたかった。
「なにごともなかったよ。びしゃもんてんのかごだろう」
小豆は普段と同じように莞爾と笑んでいるが、本性に触れたままでいつでも抜刀できる姿勢だった。謙信も膝の上に本性を置いている。握り締める手は白く、血の気が引いていた。
「謙信景光、ここは代わろう。休んで来たらどうだ?」
「でも……」
揺れる瞳が小豆を見やる。頰に涙の跡はなかったが、瞳は常より潤んでいる。まなじりも赤かった。
「おことばにあまえよう」
「うん、わかった」
気がかりそうな顔をしていたものの謙信は頷いた。惜しむように亡骸を見つめて立ち上がる。
「さきにしつれいするのだぞ」
涙を堪えているのだろう。ぎゅっと目元に力を入れて、謙信は言った。声はかすかに震えている。見送りながら、ゆっくり泣けると良いのだがと、それが気掛かりだった。こういうときは我慢すべきではない。思う存分泣き喚くべきだ。
立ち去る足音が聞こえなくなってから、山鳥毛も謙信がいた場所に座った。本性からは手を離さない。
「それで、はなしはなにかな?」
「バレたか」
「きみはかおにでやすい」
正面を向いたまま横目で隣を窺うと、小豆は隠すことなくじっと山鳥毛を見つめていた。
小豆長光は相手と視線を合わせることを厭わなかった。むしろ話すときは必ず瞳を覗き込む。いつも短刀たちには膝を折って目線を合わす太刀だから、その癖の延長なのかもしれない。とはいえ山鳥毛にはどうにも居心地が良くなかった。目を合わせるのは刀身を見つめられることとは勝手が違った。とにかく慣れない。底の底まで見透かされる気がする。
「顔に出やすいというのは初めて言われたな」
「めのかがやきがかわるんだ」
「肝に命じておこう」
顎に手をやって狼狽を誤魔化した。あまり感情が分かりやすいのも気恥ずかしい。それに威厳というものもある。だからと言って目を隠すわけにもいかないから、なかなか悩ましいものだ。
一瞬逡巡し、それから体ごと小豆に向き直った。居住まいを正した山鳥毛に小豆も正面から向き合った。
「小豆長光、葬儀では君に死出の旅路を任すそうだ。謙信公を頼む」
一息で言い切った。それを最初に聞いたのは屋敷に散らばっている付喪神たちだった。否応なしにいずれ分かることだが、誰が小豆に伝えに行くかという話になったとき、山鳥毛は自ら進んでその役を引き受けた。格別に理由があったわけではない。ただ己が伝えに行こうと思った。
小豆は驚く素振りも見せず、「わかった」と静かに微笑した。
「謙信景光にはわたしからつたえよう」
「大丈夫か?」
「あのこも景光だ。のりこえられる。だが、きみからもきにかけてやってくれるとありがたいな」
「当たり前だ。君のようにはいかないと思うが……」
「あのこはつよい」
小豆は繰り返す。山鳥毛も分かっている。謙信公が肌身離さず持ち歩いた短刀なのだ。芯は強い。
「つたえにきたのがきみでよかった」
柔らかく目を細めて小豆は言った。
「なぜだ」
「きみはせおうことをしっているから、まかせられる」
「ただのよしみだ」
「そういうことにしておこう」
きらりと青い瞳が光っている。この目が山鳥毛は得意ではない。。
「……君も休め」
「きみだけにするのもわるい」
「じきに五虎退も来る。……それに、私も謙信公に別れを言いたい」
横たわる遺体に視線を落とした。付喪の身では人に触れることもできない。それでも目の前にある亡骸はさぞや冷たいことだろう。きっと雪のように冷たい。だが山鳥毛は柄を握る熱い掌も己を振るった瞬間の息遣いも覚えている。二十数年、主の半生を山鳥毛は見守って来た。自慢の主だった。ここにあるものどもは、山鳥毛を含めて、謙信公と共にあったものたちであると後世語られるだろう。その予感が既にあった。
「安らかな顔をしている」
皺が増えるのも、健康を損ねて顔色が悪くなっていくのも山鳥毛は覚えている。物だから人の知りえない一面まで知ることができた。
「よる、そちらをたずねてよいだろうか?」
「私は構わない」
謙信公から目を離さずに山鳥毛は答えた。
亡骸の守りを代わって山鳥毛が戻ると、謙信は泣いていた。役を離れて気が緩んだのだろう。小豆の真ん前に座って、しゃくりあげながら涙をぼたぼたと流していた。
「ぼくはまだ、あつきにおそわることがたくさんあるのだぞ」
「これもだいじなおやくめだ」
「……わかっている」
泣き腫らした目で謙信は小豆を見上げた。顔は真っ赤で、熱を出した幼子のように頰がぷっくりと腫れていた。
「ぼくは、謙信景光だから。みおくらないといけないのだ」
「いいこだ。わたしもあんしんしてひがんまでおともをすることができる」
「でも……」
あの青い瞳が謙信の目を覗き込む。大きな手が頭を撫でた。見目は大人と子供の二振りであったが、幼児のように扱うところは初めて見た。
「あとをたのんだぞ」
深く低い声が鼓膜を揺らした。謙信は顔を引き締めた。上手くできず、それはまるで怒っているかのような表情だった。それでも大きく頷いた。
小豆は謙信の前では模範的な保護者だった。甘やかすこともなく厳格すぎることもなく、よく教え諭した。謙信に限らず上杉の小さいものたちのこともよく可愛がっていた。
それでも小豆長光は武の太刀だった。よく斬れた、と言うよりはよく斬った。戦場で血を纏うときはどの刀よりも荒々しかった。たたずまいも所作も静かだったが、眼光の鋭さが全てを裏切っていた。ふと漏れる太い呻き声には激情が沈殿していた。
小豆自身、荒ぶる姿を謙信たちに見せるのは躊躇いがあったらしい。興奮が収まらないと館の隅でよく身を潜めていた。
「血の臭いがひどいぞ」
普段は山鳥毛も小豆が自力で落ち着くまで放っているのだが、その日は夜がふけても殺気が収まらず、血臭が風に乗って蔵まで届くようなありさまだった。眠れないと小さなものたちに言われれば様子を見に行くしかない。
濡れ縁にも上がらず、小豆は地面にじかに座って身を丸めていた。山鳥毛の問いかけに答えることもせず、一瞥を寄越しただけだった。月明かりに瞳が爛々と輝いている。折しも春先で庭には桜が咲いていた。人が見咎めたら桜に鬼が出たと騒ぎになりそうだった。
一つため息をついて、持って来た桶で水を頭からぶっかけてやった。ばしゃりと一度水飛沫の音がして、それから暫く沈黙が落ちた。小豆は冷たい水にたまらず目を瞑っていた。髪の先から一つ二つと滴が滴り落ちる。
「もう一度かけてやろうか?」
再び瞼が開いたとき、険はほとんど取れていた。
「……だいじょうぶだ。せわをかけた」
「なら良かった」
これでどうにもならなかったら一発殴って気絶させるつもりだった。
小豆は幾分すっきりした顔をして、ぶるりと一度身を震わせた。まだ肌寒い夜に濡れた体は冷えるのだろう。
「なにかのむものをもらえないだろうか」
口調は落ち着いている。山鳥毛を見上げる顔は先ほどとは一変して穏やかなものだった。
「仕方ないな」
取りに行ってやることにした。
徳利に水を汲んで戻れば、小豆は庭を見つめてぼんやりしていた。山鳥毛はどっかりと胡坐をかいて座り、徳利を縁側に置いた。小豆は緩慢な仕草で床に這い上って来て、無言で手に取る。胡坐を半分崩したような雑な座り方をしていた。片脚だけが濡れ縁から投げ出されている。
礼を言うこともなく直接口を付けて飲み始めた。小豆にしては珍しいことだが、明日になったら緩やかな笑みを浮かべて礼の一つでも言うに違いない。基本的に律儀で礼儀正しいのだ。
喉仏がごくりごくりと嚥下するたびに上下していた。よほど喉が渇いていたのか、全て飲み干しそうな勢いだ。随分美味そうに飲むものだと山鳥毛は感心しながらその様子を眺めていた。
「さけではないのか」
「今の君にはもったいない」
徳利が置かれ、重い音がする。日に焼けた拳がぐいと唇をぬぐった。手の甲に水の跡が線を引く。月明かりにちらりと光る。
「荒れているな」
「きょう、なずきをきった」
「脳天から叩き割ったんだろう」
「……やわらかくてあたたかかった」
思わず小さく噴き出した。物騒な話も一周回って可笑しく聞こえる。山鳥毛には果実のように潰れた頭も、血に絡まった髪の毛の隙間から赤黒い脳髄が飛び出しているのも容易に想像がついた。
「君も存外初心だな。初めてでもないだろうに」
「きるのはあまりすきではないんだ……」
「そう言う癖によく斬る」
「きるからには、いちげきでほふるべきだ」
抑揚のない声は冷徹にも聞こえる。片手で頬杖をついて、無表情の小豆を見つめた。普段の優しげな笑みが消えると玲瓏さが際立つ。
「君のそういうところは好ましい」
かすかに小豆の口元が緩んだ。
「ほかはこのましくないのかな」
「今日は突っかかる」
「山鳥毛」
手が伸ばされた。後頭部に回され後ろから押される。目の前に男の顔が迫る。表情はなかった。温かく濡れて、柔らかいものに唇が触れた。
青い瞳が山鳥毛の目を覗き込んでいた。瞼を開けたまま、重なった唇がやわやわと蠢く。下唇が食まれている。山鳥毛は逡巡していた。目を閉じたら押し倒される。
唇が離れた。だが顔は離れなかった。吐息も触れる距離で見つめあっている。
「ていこうしないのだな」
「しようと思っていたのだが……」
「だが?」
「流されてみるのも悪くなかろうと……」
「きみもずるい」
誰もいない部屋に入り込む。空き部屋は殺風景だった。板張りの床には春といえども冷気が滞留している。小豆はぴったりと山鳥毛の後ろに付いていた。開いた障子から月明かりが差し込み板間に二振り分の影を作ったが、すぐに小豆が閉めて部屋は闇に閉ざされた。視界が判然としないほど感覚が鋭敏になる。背後の気配が膨れ上がったように感じる。
振り向いても表情は見えなかった。障子越しのうすぼんやりとした月光に小豆の姿は影になっていた。黒々とした体格が浮かび上がるだけだ。手が頬を包み込む。口が塞がれた。今度は食い荒らすような荒々しさがあった。後ろに一二度たたらを踏んだので脚に力を入れて持ち堪えた。やられっ放しも性に合わない。舌を上下の唇の狭間にねじ込んだ。口内に舌を這わす前に吸い上げられる。じゅっと品のない音がした。
「山鳥毛……」
荒い吐息に混じって名を呼ばれる。わずかに甘えるような、だがそれでいて凛々しさがあった。全身の肌が一気に粟立った。そうだ、こいつは戦に酔う程度には血の気が多くて、それを律する程度には禁欲的だった。油断していた。これはほだされる。
また口吸いが始まった。互いに体は温まっていた。触れるそばから熱が上がる。肌が熱い。袂から手が侵入してきた。じかに触れる掌は熱く汗ばんでいる。首に手を回し髪を掻き混ぜる。口の中を這いまわる舌を捕らえて絡め合わせる。青い瞳はしっとりと潤んでいた。苦し気に眉根を寄せている。それに満足して山鳥毛は目を閉じた。
夜、山鳥毛が訪ねてみると小豆は眠る謙信を肩にもたれさせていた。閉じた目尻には涙の粒がまだ残っている。
「すまない。わたしがたずねるやくそくだったのに」
「気にしないでくれ」
徳利と酒器を見せればゆるりと目尻がやわらいだ。置いた杯に酒を注ぐ。一口含んで小豆は目を丸くした。
「よいさけだ」
「なに、餞別だ」
杯を煽れば口の中に馥郁とした香りが広がる。味見もせずに持って来てしまったが、なるほどこれは良い酒だ。小豆とは今まで何度も酒を交わしていたが、これほど良いものは後にも先にもないに違いない。
「あまりきをつかわないでほしいのだがなあ」
「心付けだ。受け取っておくと良い」
桜は満開で、ひらひらと幾枚かの花弁が散っていた。夜の空気は柔らかい。
「明日、埋葬だな」
「ああ」
「緊張するか?」
「いや、いつもとすることはかわらないだろう?」
すぐ傍で謙信が寝ているので互いに囁くような声になる。状況がそうさせるのか小豆の表情は凪いでいた。まるで仏のようだと山鳥毛は考えた。透き通った表情は菩薩を思わせる。もう黄泉路に片脚を突っ込んでいるのではあるまいか。それは小豆らしくもあったが、残される山鳥毛としては明日までは人の世に留めておきたかった。
「私は君に妬いたこともあったんだ」
「それは……おどろきだ」
「いつも戦に連れて行かれるのは君だった」
どの刀よりも謙信公の武を間近で見て来たのが小豆だった。謀略も軍議も戦場も彼は主と同じ光景を見ていたはずだ。一振りの刀剣としてそれ以上の誉れがあるだろうか。
「わたしのことはいちどもうつくしいといったことはなかったよ」
「それで君は妬いたのか?」
「わたしもおさふねだからいちもんじにはまけていられない」
にやりと笑って問えば小豆は飄々と答えた。
杯が空いているのを見て酒を注いだ。
「あまりのまされるとこまるな」
「これくらいで酔わないだろう」
「きみものむべきだ」
すかさず酌をされる。
「良い酒を持って来たのだから味わって飲もう」
「きみがいうのか」
今晩で最後なのだという気持ちにはならなかった。明日も謙信公を偲びながら盃を空けている気がする。
「きみにあとをたのみたいとかんがえていたのだ」
思案するように視線を床に落として、小豆は杯を舐めていた。
「私か?」
「きみはせおうことをしっている」
小豆は朝に言った言葉を繰り返した。
「背負っているつもりはないのだが……」
今日の昼間、ひとりになってから山鳥毛は今朝言われたことを反芻した。己を律する軸に一文字であることだとかがあるのは否定できない。だが縁あるものを大切にするのは当然のことだ。
「これからきっといろいろなことがおこるだろうから」
「私がここに残り続ける保証はないぞ」
山鳥毛も流れ流れて献上されてこの場所にいる。物の運命など果敢ないものだ。
「きみはのこるとおもうのだがなあ……。てばなすにはあまりにおしい」
「手放すのが惜しいほど価値があるからここにやって来たんだがな」
「それでも山鳥毛、きみにおねがいしたい」
「粘るな」
「きみはきっとわすれないでいてくれる」
杯を煽ろうとしていた手を止めた。小豆はうっすらと笑みを浮かべている。
「ちがうな……きみにおぼえていてほしいのだ」
「小豆、それは卑怯だ」
その一言で忘れるわけにはいかなくなった。横目で睨んでも小豆はどこ吹く風だった。いっそ機嫌良さげにすら見える。腹立たしい。謙信ではなく己を選んだ理由も山鳥毛は分かっていた。謙信が何より大切にしなければならないのは謙信公だ。小豆ではない。
「いつか私が磨り上げられて全て忘れても知らないからな」
「そんなふらちなにんげんはきってしまえばいい」
無責任な冗談にますます視線が鋭くなる。残していくものは皆ずるい。
「……見届けることしかできないぞ」
「もともとわたしたちはそういうものじゃないか」
小豆は快活に笑った。
幸いなことに葬儀の日も晴れていた。盛大な法要だった。人が詰めかけ、涙を流す者たちが其処ここにいた。山鳥毛はその様子を遠くから眺めていた。傍には謙信が立っている。背筋を伸ばして口を真一文字に引き結び、葬列を見守っていた。
謙信公の亡骸は鎧を纏い、太刀を一振り帯びた姿で甕に納められた。
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