1話
BACKBONE.
1、たいらいいのち
ときに、硝子の割れる音というのはガシャンの中にもきちんと音程があり、形状、材質、力の加え方によって実に様々な音がするのだなと、まるで場にはそぐわない冷静さで思った。
真夜中のキッチン。床でくちゃくちゃになったたくさんのワイングラスの破片は光を反射しながらきらきらと輝いてとても綺麗だ。
残酷なのはそれが今も尚細い手指からぱっと手放されては床との衝突による不協和音を次々に奏でていること。
せっかく高級なグラスとして形になったのにこうして割れたらただのゴミだなんて、世の中は全くこれほどに平等だ。
ものにもひとにも完璧な形など所詮ありはしない。
恵まれたなりの歪やリスク、どん底なりのチャンスや恩恵、人生トータルたいらにしてみれば皆一緒で産まれたらどんな状態でもとにかく生きていつか死ぬ、ただそれだけのことだった。
「…………」
音がするので仕方なく起きてきたけれど、実母であるこの女が帰宅したのは今からちょうど一時間程前の丑三つ時になるだろうか。
五年も前に精神科へ通い始めてからは深夜帰宅もこういった狂気的な行動も珍しいことではなく、今日は何やらワイングラスに積年の恨みを思い出しでもしたのか、どこでもないところをぼんやりと見ながら朴訥と破壊行為に耽るその様子を扉の側に突っ立ったまま黙って見守る。
機嫌が良ければこのまま無視しているだろうし、悪ければ突っかかってくるだろう。
どうせ酔っ払いのすることなので別にどちらでもいいが怪我でもされたら面倒なので目を離すわけにもいかない。
どんなに恨んだって母親は母親で血の繋がった家族であり一人の人間でもあった。
万一何かあった時、知らん顔で見殺しにする勇気が自分にあるわけでもなくて。
「|恋《れん》、あの人はどこ」
もっとも、機嫌はよくないらしい。
酔ったら手がつけられないのは知っているので今更動じることも無かったが、凄まじい嫌悪の顔で睨まれると少なくとも愉快ではない。
ここで言い争っても仕方がないけれど、こうなるぐらいなら別に困っちゃいないのだから仕事ももう少しセーブしたらいい、なんて助言も、全盛期の目の回る様な忙しい日々を乗り切った自負のある頑固なスター女優には所詮炎上の燃料だった。
分かっているから何も言わないで目を逸らす。
こんな夜中に大事になるのはやはり避けて欲しいとは思ったが、壊れた身心を案じて心から心配するのは、もう大分前に疲れて止めてしまった。
「……知らない。うるさいよ。もう遅いんだから寝れば?」
だって今更自分が何を言ったところで、この人もう、とっくの昔からぶっ壊れてるんだから。
「ン何なのその口の利き方はっ、大体あんたのうだつがいつまでもあがらないからこっちは色んな噂されて迷惑被ってるのよ! さっさと海外でもどこへでも行って、何か自慢のひとつやふたつでも作ったらどうなの!?」
言葉とは裏腹にキツネみたいに釣りあがった目尻からは黒い涙がどろっと滲む。
これだけ精神はめちゃくちゃなくせに朝になったらまともな化粧も出来るんだから全く女とはおかしな生き物だと毎回思った。
そもそも酔っ払いなので何を言われても言い返すのは愚の骨頂。黙ってやりすごそうと決めて下を向いたのに、そのよれたルージュを纏った唇があれやこれやとまるで馬鹿みたいにうるさいものだからついつい我慢できなくなってくる。
こういうのをもしかしたら蛙の子は蛙と言うのかもしれない。わざわざ言い返さなければ多少は穏便に済むものを。
「……ぐちぐちいつまでもうるせえな、フツーの子供じゃいけないかよ。子役の契約切ったのだって自分のくせに」
一度酔っ払ったら分別のつかなくなるのはうんざりするほど分かっているはずなのにうるさくされるとその反動のようにしてこの未熟な口からは悪態が零れた。
そんな風に言われなくても、やってみたいと思うことなどいくらでもあった。
例えば、今はスマートフォンのアプリでの作曲にハマっていて何れは音楽の道に進みたいだとかそれこそ普通に言ったらいいだけの何でもない話だと自分でもそう思う。
実際、そういうことを素面の時の彼女に対して簡単に相談できるような家庭だったらどれほど良かっただろうと世迷言を思いながらふと顔をあげれば迷いのない軌道で顔にまっすぐワイングラスが飛んでくる。
咄嗟に腕で防護したがそのまま真下へ落ちたグラスは足元で粉々に弾け散った。カアっと顔が熱くなる。ふざけんな。あぶねえんだよクソババア。
「なんですって! もう一回言ってみなさいよ!」
「産んだのはお前だろって言ったんだよ!」
「作ったのはあの男よ!!!!!」
それからはもうめちゃくちゃ。
手あたり次第ありったけの手元の食器をこちらに向けてぶん投げながら泣き喚く数分間、さすがにもろに皿を身体に喰らうのは嫌なのでうろうろと逃げ惑うがその絵面の滑稽さときたらだんだん自分で可笑しくなってくる。
バラエティ番組のゲームみたい。
最終的にソファの裏に避難してぎゅっと身を縮め頭を覆う。
さすがにもう言い返すのはナンセンスなので蹲ったまま自分の膝に向けて小さな声でぶつぶつ零して抵抗する。
悔しいがこの小さな身体ではあの悪魔の所業を止めることもままならない。全く馬鹿馬鹿しいことこの上なかった。
「あんたがせめて女の子だったらよかったのにいいい!」
「んなこと言われたってしょうがねえじゃんかっ馬鹿じゃねぇのっ」
「あのイロ俳優そっくりの男に育ったら容赦しないから! そうなる前にころしてやるからあ!」
「どうぞどうぞ、てか俺の前にあいつをやれよ、俺は何も悪くないっ」
「なあんとかいいなさいよおぉ! 学校にも行かないでっこのっ不良! 不良ーー!」
「ああもおううっるせー!!!! 誰のせいだっつうの!!!!! 今すぐ酒やめろブス!!!!!!!!!!」
さてもこうして、どうかなるだけ早めに食器がなくなるのを祈りながらソファの陰に蹲るのは若干十一歳の|望幸恋《みゆき れん》(本名:御幸恋)少年である。
因みに彼の覚えている範囲で家庭環境が平穏だった時はひとときも無い。
幼少時はさもエリートな幼稚園に通いながら母親である歌劇団女優の|武良瞳《むら ひとみ》(本名:御幸日登美)に連れられ小さな事務所で子役として芸能界デビューした。
武良の子だというだけで何をしなくともコマーシャルやあて役は巡ってはくるのだが、当の本人が神経質過ぎてとてもじゃないがのびのび楽しくお芝居とはどうしてもいかず有能な愛息子として芸能界デビューをさせたかった武良にとっては思う通りの活動記録にならないまま尻切れトンボに終わった。
心の底では未だにそのことを根に持っているので酒が入ると毎回こうして本人を詰った。
勿論、この酒癖の悪さには周囲もほとほと手を妬いていた。誰もがアルコール依存症だとは気が付いていたけれど、それを制止してくれそうな心の友も今はいそうにもなく。
一方、実父である大御所俳優の|蕪武焼慎《かぶやき しん》(本名:御幸竜市)といえばデビュー当時から大きな作品を矢継ぎ早にこなしては数多の作品賞を総なめにしてきた実力派として世代を問わず認知度があり、つながりを持ちたい業界関係者など数えきれない。
また、そんな世間の噂に全く恥じない最強のプレイボーイとしても名を馳せ、よもや愛人と呼べる人間は両手にあまるほどと言われた。
殊、性欲にはだらしがなかったが、芝居は勿論、仕事に関してはすこぶる前衛的で俳優業に限らず監督業やプロダクション業にもあれこれと手を出し常に毎日毎秒が、大袈裟でなく大、大、大忙しの日々。
無論、父親として蕪武焼が家にいた記憶など恋にはほぼほぼなかった。
それは事実、誰にも掴まれない自由奔放な蕪武焼にとって武良とはもう手に入れてしまった欲のひとつであり、その欲の形である恋という一人息子の未発達な感性にはまるで興味が無かった証でもある。
蕪武焼は人生が短いということを嫌というほど知っていて、手に入れたものを大事にするよりもいかほどのものを手にすることが出来るか、どれほどの感情を自分はこの身で経ていけるのかといったほうへ本能的に優先的にと向かっていってしまうような性格だったとしか言いようがない。
武良にしても結婚当時はまだまだ超売れっ子の現役女優で、華のあるうち命の限りと自分の目の前にある役者人生のことで正直手一杯だったし、何より実際は大物俳優との燃える様な恋愛の末に夫婦と母親という肩書きを手に入れたというやはりただ“それだけ”のこと。
家族としての形や幸せなどという人間味のあるものには到底興味など持っているはずもなく、その証拠に、団を華やかに引退したあとも子育てや家庭に入るという考えなど微塵も持たないで精力的に芸能活動を続けた。
その結果としては徐々に減っていく露出に焦燥を募らせた反動で躁鬱と自律神経失調症を同時に発症し、現在仕事をこなしながら通院治療中という顛末だった。
ある意味武良にとっても人生の過程に過ぎなかった結婚は今となっては失態の一つとして世間一般には数えられ、泥酔や通院をネタに週刊誌を度々賑わせていたのだった。
そんな風なものだから、遇として授かった命である恋はと言えば、お決まりの乳母に品よく丁寧に育てられ幼い頃から周囲からはちやほや、多忙で構っていられないからと欲しいものは比較的なんでも与えられてしまう満ち足りた生活に、心の満足することなどひとつも知らないまま派手な芸能の世界の傍らで教養を身につけ大きくなってしまった。
この欠陥がのちに大きな大きな歪となって彼の未来を蝕むことになってしまうのは、……まあ、どちらかというとこの調子ならば大体の人間が予測し得るというもので。
「あたしがなにしたっていうのよおおお~~~~~~~」
ようやく投げるものが無くなったのか、でかいヒステリックベイビーはそう天高く叫んだ。
やれやれとソファの陰から部屋の惨状を一瞥した恋は、大きくため息を吐きながら床の破片を避けながら立ち上がった。
わんわん泣いている元スター女優の側に注意深く立ち、ひどく乱れた細くて長いしなやかな髪を無表情のまま優しく撫でつける。
「……みっともないからそんな風に泣くなよ。これだから劇場型の女はヤダよね。お母さんは仕事やめれば病気治るってお父さん言ってたよ。やめたらいいのに」
「うう、恋ん……恋……ごめんね、れんン…………」
落ち着いて側に寄ればこうして大人しく抱き縋ってくる母からは決まっていつも同じ匂いがした。
何の酒だか知らないけれど、大人になってもこの匂いの酒だけは何があろうと飲まずして生きようと誓う。
ついでに、常に纏わせている香水の匂いが臭すぎて度々吐きそうになるのでこのリビングのゴミどもに紛れさせて母の鏡台に並ぶ香水瓶も全部一緒に叩き割っておこうとも。
どうせ、これから眠って朝起きたらこんな奇行など微塵も覚えていない。げっそりした青い顔でまたわたしがやっちゃったの? ってさめざめと泣き出すに違いない。
同情は出来ても許してやれるほどお人好しにはもうなれない。
もしも他人になれたならそれが一番幸せなのだろうなとどうしようもなくしみじみと思っては早く大人になりたいとまだ見ぬ未来へと思いを馳せるのであった。
こうして、誰が見ても年の割に妙に大人びたおませな印象の拭えない恋少年はそれからも強かにすくすくと育った。
週刊誌の影響でマスコミが家に張り付いていたりして学校は休みがちだったが父親譲りの甘いマスクと母親譲りの真面目な忍耐強さ、今の所情熱と派手さがちょっと足りない気もするけれど、早いうちから演技も経験していることだしひとまず高校生にもなればきっと二世俳優としての注目を浴びようとするのは容易いこと。
話題性は十分過ぎる。スター性も勿論然り。
決まった成功のレール、それに跨っているそこそこの人生は、そこそこでこそおおよその人から見たら快晴に決まっている。
恋以外の誰もが常にそう思いながら彼の将来を有力視し期待していた。優性遺伝子のいいとこ取り。一体どんな俳優になるのだろうかと。
そんな中ただ一人、やはり恋本人だけは、そう簡単に自分の人生を親一色に彩られてたまるもんかと、心の奥底、なんなら子役時代の頃から既に少しずつ少しずつ強烈な反骨心を肥やし続けていたのである。
「はあもう分かった分かった。とりあえずお前は病院行きな? ここに居たって治らんだろ」
「何よ、とりあえずって。行ってるわよ、行っても治らないから困ってるんでしょ。ほっとくだけほっといて今更偉そうにしないでよ」
「言っとくけど、放っておいたつもりはねえよ? 誰から見たって異常なんだから仕事休めってあれほど言っただろ俺は。なのに聞く耳持たなかったのはそっちだもん」
「休めるわけないでしょ? こっちはね、あなたが企画したあなただけが楽しめるあなたのためだけの番組じゃないのよ」
「それ失礼じゃない?」
「はあ? どっちがよ。とにかく、次までに書類揃えて。恋をどうするか決めて」
「決めてってまた。君それいらないって意味か? 自分の子だろ?」
「だから、そうやって他人事みたいに言わないでって言ってるの!! あなたの子でもあるでしょうに!」
ともあれ、人生とはそう上手くはいかないのが多くの実際でもある。
先の場面からすこしあと、小学校高学年に入って間もなく父母両方の不倫報道が悪しき言い草で大々的に成された影響で恋が学校へ通うのは事実上困難となった。
離婚の話もあるにはあったが互いに多忙で話が進まず膠着状態のまま早数か月。武良だけでも一度海外へ引っ越してリフレッシュしないかという事務所からのありがたい提案ですらも主治医が変わると困るからと本人が頑なに嫌がったためボツ。
そのため、今のところどちらといてもお荷物扱いで宙ぶらりんになってしまった恋は、学校にも行けず外にも安易には出られなくなりあえなく狭い国内での史上最悪な引きこもり時代の幕開けとなった。
当然、中学にあがったとて入学式から学校へは行けなかった。というか、その頃には蕪武焼家へのバッシングがそれはもう燃えるように世間では唱えられていたのだけれど、なんのどこ吹く風で拠点を持たず家にも帰らず今まで通り平然と仕事を続ける父と、一方ではアル中が悪化して入退院を繰り返すだけで病状の一向に良くならない母。どころかそのうち主治医との恋愛関係を報じられる始末で、まったくどいつもこいつも自分の人生に無我夢中過ぎて、さすがの恋とてもうそんな悲惨な現状に何をも感じられないぐらいには心底呆れ疲れ果てていた。
されど、そんな恋にも唯一の心の拠り所はあり、幼少期から面倒を見てもらっていたお手伝いさんという存在があった。誰もいない家で自立のじの字も知らない恋が最低限人並みの生活を保っていられたのは偏に彼女のお陰でもあった。
昔から多くの時間を一人で過ごすことを強いられてきた恋を気の毒に思い、常に気にかけてくれていた彼女とは、家事は勿論、小学校を休みがちだった時期には家庭教師としても度々顔を合わせられる貴重な他人だった。
中学に上がってからは、バッシングのせいか週に一度しか来なくなってしまったけれど、それでもこのわけの分からない家に毎週欠かさず来てくれるというだけでも恋はとても感謝していたし、心の底から信頼を置いていたオトナでもあった。
「幸神さん。こんにちは」
「あら恋さん、こんにちは。どうしたんですか? お夕飯には少し早いですよ」
「……あのさあ、俺も料理してみようかなと思ってさ」
だから、冗談ではなくこの腐敗した生活に人生の危機を感じていた恋としては、頼れる人がまだ近くにいる今がチャンスだと思い立ち、まるで地獄のようなこの家からの脱却を計ろうと必死になって計画を練っていた。
学校は今更仕方がないので在学期間は切り捨てる代わりに、有り余ってしょうがないこの無限にも思える時間を将来的にやりたいこと、即ち楽曲制作に費やすことにした。本当はちゃんと勉強もしたいし最低限普通の生活だってしたいとも思うので今は叶わなくとも、中学を卒業したらちゃんと通信制の高校に通って一般的な教養ぐらい身につけたい。
いつ野たれ死ぬかも分からない一度きりの人生だ。世間知らずの自分が社会に出てやれることなどきっと限られているだろうし、どうせやるなら大好きな音楽がやりたいと思った。
一度は上手くいかなかったが、小さい頃から身近にあった芸事での自己表現は嫌いじゃなかった。もっとも、世界にはやりたいことをやって生きている人間がそうたくさんはいないということも良く良く知っている。
それでも、当時の恋にはこれを計画できるほどの手堅い勝機に心当たりがあった。
それは苦い記憶とて子役時代に世話にもなったあの弱小プロダクションの存在だった。母の遠い親戚でもあることから社長とは何度か顔を合わせていたし、何が何でもそこに頼み込んで新人として勉強させてもらう他、自分に芸能活動をするチャンスは絶対に訪れないだろう、と。
これは歪な人生のしがないアドバンテージだったかもしれない。他人から見たらもしかしたら贅沢な選択肢に思えるかも分からないが、恋にとっては本当に唯一の未来への足掛かりにしか思えなかったのである。
「お料理ですか! いいですね。私でよければ何でも聞いてください」
「あとさ、洗濯機の使い方教えて~」
「あら、お洗濯もご自分で? 勿論です。ついでにいろいろ覚えちゃいましょうか」
そうと決まれば、無駄な時間は一秒もなかった。一人で生きていくと考えた時今思いつく限りの不安要素を次々に潰しにかからねばならない。簡単な調理方法や家電の使い方、飯の炊き方にごみの捨て方。生まれてこのかた現金を持ったこともなかったので、父から預かっているというクレジットカードを借りてスーパーにも初めて一人で行ってみた。日中は人の目が怖くて滅多に外には行けなかったが夜遅ければなんとか頑張ることができた。
必然的に活動時間帯は夜が中心になり、そのほとんどを曲作りの勉強にあてがって出来た端から配信サイトにあげまくる。反応はそこそこだったがいいと言ってくれる人もいたし何より、表に出なくとも外の世界とのつながりを感じられるというのは、もう何年も前からずっと感じていた孤独と強い閉塞感の解消ともなった。
その過程では、暗いと思って恐れていた世界が、本当は明るい側面もあるのだということを知った。制限はあれど自己表現を自由にしても許されるのだということ、これまで本当にたくさん感じてきた不平や不満、不安や恐怖が誰にでも経験できるものではないのだということ。
多くのありふれた人生とは違うからこそ、見えている世界があるのだということ。
こうして少しずつ前向きになれる気づきを得るたび、恋の感性は深く深く掘り下げられて豊かにもなったが同時に、薄く脆く繊細にもなっていった。
心無い言葉の力が当然のように暴力的であるように、無差別な天災、凄惨な事件事故、知らない誰かの訃報など日々の淡々とした報道にすらも敏感になってしまい情報を精査するというのが当たり前になるまではそれらに間違えて触れるたび、ひどければふさぎ込んでしまうほど心に傷を負うことは少なくなかった。
極論、心の平穏のためには人、若しくは外界との繋がりはとてもリスクが高いものだと知ったのだが、芸能の仕事をする上では誰かと何かをするという構図は大前提なのも事実。
きっと、悪意の全くない人なんていないし、はじめは何も思っていなくとも一緒にいればいるほど時間を共にすればするほど、人は他者の境遇に何かを感じてしまうもの。ならば、言葉や文字から伝わる感情の揺らぎをなるべく受け取らないように人と、引いては世界と接するにはどうしたらいいのかを常日頃考えるようになっていた。
そんな日々からあっという間に一年を経ていたある日、恋は悩みに悩んだ末に近場のスーパー以外への外出を決意した。表には未だしつこいパパラッチがいるのでこっそり裏から抜けて隣の家との境目である石垣をまたいで足早に駅へと向かう。珍しく明るいうちだったが、どうしてもギターの現物が欲しくて大型のショッピングモールの中にある中古の楽器店へ行きたかった。
電車に乗ってどこかへ行くのは数年ぶり。目深にしたキャップにパーカーのフードもつけ、マスクで顔を覆う。背も髪もだいぶ伸びてテレビに露出していた子役時代の面影など全く微塵もないはず。ないはずなのに、バレやしないと頭ではちゃんと分かっているのに、それでも勝手に想像して勝手に怖くなるのが被害妄想というものだった。ネットに好き勝手書かれた誹謗中傷は昼夜を問わず目にした途端に襲いくる。見たくなくとも目にする機会などいくらでもある。
蕪武焼慎の息子さん? 武良瞳のお子さん? 今なにしてるの? 学校は? 友達は? お母さんは、お父さんは。不登校で引きこもりだなんてどうしてお荷物な子供だろう。厄介。愛されなくて可哀想。捨てられてご愁傷様。
きっと誰もがそう思っている、なんてそんなはずもないのに、そう思わずにはいられなくて人知れず身体が強張った。考えれば考えるほど引き返そうかと迷いながらも、とうとう目的の駅に到着してしまったので、爆発しそうな心臓をなんとか宥めてショッピングモールへの階段を急いで駆け上がった。
「九千八百円になります」
それこそが、人生で初めて手に入れた中古のアコースティックギターだった。
真昼の大勢が犇めく外界に出るのはやはりとても疲れてその日はすぐに眠ってしまったが、初めて手にした本物のギターにはひとたび触れればたちまち夢中でのめりこんだ。
耳にたこが出来るほど聞きまくっていたお気に入りの演奏動画をお手本に、毎日毎日コードをおさえて弦を弾き続けた三か月後には武良の得意の劇中歌を耳コピで弾き語ることに見事成功していた。
やはり音に気持ちを乗せるのはそれだけで純粋に楽しいと思えた。だから、音に乗せた感情を自分の言葉に出来たならもっともっと気持ちよかった。
ふと思うとそれは、幼い頃から数えきれないほど目にしてきた武良の芝居、蕪武焼の芝居とよくよく似ているもののような気がした。情熱を生きる、感情を演じる、ときに他者の脳波にまで影響を及ぼすほどの虚像の連続は与える側も与えられる側も簡単に高揚することができた。
ならば歌とは芝居のようだと恋は思った。或いは、洗脳のようだとも。似ていると思えたのはきっと、根底が一緒だからだ。歌も芝居もそれ以外の何であっても表現するということは、やっぱり自分ひとりでは成り立たないものなのだと痛感する。
知っているから想像できる。そして知っているということは少なからず誰かの人生の影響を受けているという証拠でもある。オリジナルにはルーツがあり、そのルーツの源にも必ず同じことが言えるだろう。
つまり、他者がいなければ自己表現なんて出来ないしそもそもアイデンティティも生まれない。それが真実ならば本来自分以外の全ての感性とは、心から受け入れ愛すべきものなのだろうと漠然と腑に落ちる。
「…………」
経験則は八割正しいし理屈とはそれよりも正しいものなのだろう。でも、そうだと分かっていてもじゃあこれまでの全てを愛せるかと問われたら今の恋にはやはり難しかった。
反骨心と思春期はもはや生きる為の原動力。敵対視する情熱がなくなってしまってはどこに向かってエネルギーを噴出させたらいいか分からなくなる。
無意識化にもそれが怖くて、恋は分かってしまった自己表現のあるべき姿についてを一旦頭の外においておくことにした。だって今更どうしようもなかった。
これを突き詰めてしまったら、いつか絶対に“何のために歌を歌い自分を表現するのか”、というところに行きつくのが嫌でも分かってしまったから。
その頃には、息をするように曲を作っては発信するのを繰り返し、ある程度の曲数がたまった狭い世界での手応えは恋にとっては十分開けた場所での正当な評価だと感じていたし、自己満足で得る対価としてはそれなりに自信にもなっていた。
だから、ここで答えを出そうとするのはきっと早計で、もしもこの先一人で表に立って歌えたら、その時感じることもある。もう少し待っても罰は当たらない。
恋は無理やりそう結論づけて物事の遣り甲斐という人生の大きな表題から今は目を逸らすことに決めたわけだが、それというのはつまり、生きていく上で最も重要な心の芯の部分と向き合うのを先送りにしてしまったということでもある。
のちにこれが大きな大きな歪となって自らの人生に重たくのしかかってくるのだとも知らずに。
「恋さん。今日はこれでお暇いたしますね」
ある晩、ノックのあとに扉の外からそう声がかかった。
お手伝いさんが帰る時分はほとんど作曲中か寝ていることが多いので滅多に顔を合わせることはなかったが、今日はちょうどギターを出したところだったので恋は咄嗟の思いつきで急いで扉を開けた。
「幸神さん! 待って~」
「あら珍しい。お久しぶりです恋さん。なんでしょう?」
きょとんとした顔で持っていたバッグを床に置いたお手伝いさんを見て、一瞬すごく心臓が早くなる。自分で引き止めておいてなんだったが、他者と実際に対峙している状況とはこんなにも緊張するものだったろうかと怯んでしまう。
「あ、……えっと、めっちゃ自己満足なんだけどさ、弾ける様になったから少し聞いていってっ」
はじめだけ少し手が震えた気がしたが言わば生ライブなので後には退けない。真っ白になりかけた頭のまま、勢いで弦を弾いた。
これは、彼女が支度中ごくたまに鼻歌で口ずさむ武良の退団公演の劇中歌であった。
とても軽快なテンポの速い曲調で、耳で捉えるのも指で追うのも結構難しかった。
でも、十回やったら十回連続で間違えないで弾けるまで練習した。だから十一回目だってその次だってもう間違えたりはしない。出来ないのだ。気を抜けるようなところは一小節とない。無我夢中のままサビへ入ればふと小さく手拍子が聞こえてきて、必死だった心がなんだかふっと楽になり楽しくて嬉しくて泣きそうになってくる。
目の前に見てくれている人がいるということは、それだけで凄いことなのだと生まれて初めて身体で感じた瞬間だった。
「っジャン、……おしまい! ノーミス、すごくない!?」
「すごい! すごいすごい! すっごくお上手でしたよ! アーチガーデンへ、好きだといったのを覚えていてくださったんですね! 歌もとってもお上手でかっこよくて!」
文字通り跳んで喜ぶその姿に、恋は自分でもびっくりするほど心満たされていた。
ネットで良い評価を得た時の快感とは全く違う質量。目の前の熱が直接心臓に注がれてなお、まだいっぱいに零しながらも満たされ続けているこの感じ。高揚で身体が熱かった。指の先がじんと痺れるぐらい嬉しくて堪らない。人を喜ばせることとは本来、こんなにも自分自身が満たされる行為だったなんて。
「え~、いつも鼻歌してるから。へへ。いつもありがとうございます。良かった、喜んでもらえて」
「……ほんっとうにすごいです、ありがとうございます。それに、恋さんが夢中になれるものがみつかって本当に私嬉しいです!」
言葉尻がふと揺れるので思わず見れば、涙こそ出ていないもののその目には透明な膜がゆらいでいた。気恥ずかしくなって咄嗟に目を逸らす。
「いえ、……こちらこそ、こんなやばい家に長い間来てくれてて、ありがとうございます……。父も母もああいう人だし、俺も人のこと言えないけど……もし幸神さんがいなかったら多分とっくに死んでたし、……ほんとはこんなことでお礼なんて恥ずかしくて言えないんだけどさ……」
ちらっと顔をあげると彼女はとても微妙な顔でこちらを見つめていてその目と目が合ったまま、つかの間互いに黙った。
無論、思うところは双方にあったが分かり合えるだけで干渉権のない他人同士であることを十分に知っているからこその空白でもあっただろう。
床に置いていた荷物を手にして、穏やかに微笑む彼女の眼差しはどこか物悲しい色を帯びていた。
「まだお若いあなたがそんな風に思わなくていいんですよ。私はお父様からお金を頂いてお仕事に来ているだけですから。それに、お二人に似て素敵な感性を持った方で、私とっても誇らしく思います。いつかたくさんの人に見てもらえる日が来るのを楽しみにしていますね!」
「……うん。引き止めてごめん。気を付けて帰ってね」
いつもはしないのに何となくその日は玄関まで見送り、その姿が見えなくなった途端素早く鍵を閉めてリビングのソファに派手にダイブする。まだ全身が心地よくてたまらなかった。自分の最高のパフォーマンスが出来たと思えることも、それを見た人にあんなに喜んでもらえたことも。また見てほしい。もっと見てほしい。たくさん喜んでほしい。もっともっと、すごいと褒めてほしい。
そんな心の高揚のままにぼーっと天井を見ていると、有頂天の感情がそのまま身体の興奮に変わっていくのが自分で分かった。
これまでにも自覚しない二次性徴の迸りは幾度も経験したが、これほどはっきりと自分で触りたいと思ったのはこれが初めてだった。
それは無論、彼女の存在や今までのやり取りに何かを思ってのことでは決してない。
ただただ自我の持つ深い深い承認欲求を生まれて初めてパンパンに満たされた衝撃が思春期の身心の変化と相俟ってしまったそれだけのことだったろう。
けれど、その時の吐精を境にして何となく彼女が女性だということを意識してしまうようになった恋は、それから家を出る日までお手伝いさんとは二度と顔を合わせることはなかった。
武良から植え付けられた女性像、それとはちっとも違う香りを纏った女の人というどこか好奇心にも似た畏れは十代初めの青くまっさらで鋭敏な感性では戸惑いの方が大きかったのは否めない。
母親や家族のように思っていた時期が長かったせいもあるが、彼女を一人の女性として認めてしまうことによりこれまでの自分にあってはならない心の変化が生じてしまう気がして怖くもあった。
まだ狭いこの世界のうちに万が一愛するほどに人を好きになってしまったら、それこそ今よりももっと生きづらくなってしまうのではないかと思えて。
そうして、意図的に初恋を避け人と情を交わす機会の全くないまま中学卒業をあと数か月後に控えたある夜明け前、ついぞ恋は自宅リビングのテーブルに誓約書の入った封筒を置いた。例の事務所に直談判をする決意を固めたのである。
無論、家柄は絶対に明かさないで活動するというのが最低限の条件だった。万一親バレしたら、いい機会なのでその時点で芸能活動を辞めて死のうと思っていた。
元々面白くもなんともなかったこの世界になど大して未練もない。生かしてもらえていたから死ななかっただけの人生だからやるだけやったらあとのことなど知ったこっちゃない。本気で、そう思っていた。
因みにこの〝死ぬ〟というのは長い間引きこもりを続けた十五歳が青臭い頭脳で辿り着いた自分の人生の極論であったのと同時に、両親に誓約書を書かせるための精一杯の脅しのつもりでもあった。
この先甲が芸能活動を辞める時まで一切の親子関係を断つこと。これについての乙の干渉、または他言が発覚した場合、甲はすみやかに芸能活動の一切を終了し命を絶つこと。
そんなふざけた文言は、それでも一人の人間の人生を込めた覚悟が滲んだ。入院中の母は無論、放浪の父がいつここに帰るかは知らない。元より連絡先すら分からない。まあそれも今となってはどうだって良かった。父は確かに凄い人だったがそれは板の上でだけの話。たった一人の息子と嫁すら満足に幸せにしてやれないクズ野郎があの人の本性には違いない。薄いアウターだからか既にかじかむ強張った指で、誰もいない家の扉の鍵を閉め躊躇わずにその鍵をポストに入れた。
ことん、と固い音が響く。記者がいやしないかとしばらくじっとして耳を澄ませたが、さすがにこんな時間には誰もいないようでほっとした。吐いた息が闇に白く形付く。
「…………」
生来重度の心配性である身としてはこんな向こう見ずに不安がないかと言えばやっぱり嘘になる。今までの買い物は全て親のカードで決済してきたからには無論、今はまったくの一文無しだった。
今日行って断られる可能性もおおいにあるし、もし締め出されたらホームレスの仲間入りをする他夜を超える術も思いつかない。
それでも、自分で選んだ道に進んでみたいのだと気丈に真上を見上げれば幾千の星がどこまでも散らばる澄んだ冬の快晴が広がっていて束の間見入る。
遠い星の瞬きは何億年という歳月を経て、たった今感知できているのだという。つまり、宇宙はそれほど広いと言えるということで、いつかきっとどこかには、自分の居場所がこの世界にも見つかる、そう思えただけでなんとなく成功した気分になれた。
こうして、後戻りはしないと決めて始発の電車を目指すのは明け方の四時半過ぎ。反抗期真っ只中の御幸恋少年がはじめの一歩は、大寒波の到来が予想された初冬の出来事であった。
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