春の祭典



 山鳥毛の本丸は周囲に丘陵を擁している。普段は馬を走らせたり白兵戦の練習場に使っているのだが、日本の風土にあっては放っておけばみるみるうちに木が生えそめ山野に返ってしまう。そこで毎年春の初めに火を放ち、野焼きをするのがこの本丸の恒例行事になっていた。時節は春分、彼岸中日。ぼた餅を食べながら春の訪れを祝うのだ。
 さて野焼きの当日は朝から忙しく立ち働くことになる。朝もまだ明けきらぬ頃から厨に皆が集められた。本丸の人数が増えて、ここ数年はぼた餅作りがかなりの重労働になったため、朝っぱらから準備に駆り出されるのだ。野焼きの方は例年繰り返したおかげでどこから火を付けるかも決まっている。野を焼くことが主役だというのに時間を食うのは調理の方だった。
 まだ厨仕事に慣れていない山鳥毛は南泉とひたすら炊き上がった米をすり潰していた。
 最初はぽつりぽつりと子猫と会話もあったのだが、単調な重労働に次第に言葉数が少なくなってくる。無言ですりこぎ棒を動かしていると、隣に立つものがあった。小豆だった。彼もご飯の入ったすり鉢を手にしていた。
「小豆を煮ていたのでは?」
「まかせてきたよ。ちからしごとは、わたしたちがやったほうがいいからね」
「そうか……」
動揺を顔に出すような無様はさらさなかったが、つい黙りこんでしまった。一月に連隊戦の報酬として顕現して以来、山鳥毛は小豆を避けていた。
 再会したのは顕現したその日のことだった。小豆に昔のことを覚えているか尋ねたのだ。小豆は「きのうのことのように」と大げさな口ぶりで答えた。冗談のようで山鳥毛も笑みを浮かべたが、ふと見た彼の表情は真剣だった。瞳の中にあのときと同じ熱があった。かつて見た、一度きりの熱だった。
 ぞっとした。小豆にとって、あの頃と現在は地続きなのだ。山鳥毛のような六百年の隔たりはない。まさしく「昨日のことのように」なのだ。小豆はあの若い情熱を持ったまま山鳥毛の前にいる。おそらく、求められている。決定的な言葉が彼から放たれる前に山鳥毛は言い訳を作って小豆の前から立ち去った。それ以来、ふたりきりでは決して会わなかった。
「きょうのごご、きみのじかんをもらえるかな?」
「君とか?」
「ああ、みなにはもうしわけないのだが、きみとふたりきりがいい」
口では殊勝なことを言っているが引く気がないことは明白だった。午後は野に火を放つ。点火は手慣れた古参の仕事であるから山鳥毛の手も空く。
「ふたりきりでないと駄目なんだな」
小豆はしっかりと頷いた。断ってしまいたかったが無理だろう。それにずっと避け続けるというのも無理な話だ。
「分かった。すまない、子猫。共に食べようと思っていたのだが……」
「いや、大丈夫っす! にゃ!」
南泉は慌てて首を振っていたが、小豆が謙信に呼ばれて立ち去ると物言いたげな目で見てきた。
「なに、心配することはないさ」
「そんな、心配なんて、恐れ多いっす、にゃ」
「まあ、積もる話もあるからな」
 昼過ぎに準備は終わり、昼餉の握り飯と出来立てのぼた餅を詰めて、皆が思い思いの場所に散っていく。ほとんどのものが野焼きを見物するが実際は自由時間だ。本丸内にいれば何をしても良いということになっていた。全員が揃うのは夜の宴会どきだった。
 小豆に連れて行かれたのは敷地の外れだった。野原が一望できたが背後は森となり木々が茂っている。辺りに人気はない。短刀に穴場を教えてもらったのだそうだ。
 森のそばに並んで立つと薄茶色の枯れ野が広がっていた。
「どうして、のやきをするかはきいたかな?」
「いや」
「やかないと、もりにかえってしまうのだそうだよ」
「それが自然の流れではないか?」
「あっち、みえる?」
小豆の指さす先に廃屋が数軒あった。
「ここにほんまるをたてるいぜんは、むらがあったのだ。いまはだれもいないけれど、かれらはまいとし、なんびゃくねんも、はるののはらをやいてきた。だからわたしたちもならうことにしたそうだ。すべて祖におしえてもらったはなしだけれど」
「私たちがいなくなれば、森に返るのか」
「だろうね。ひとがいないと、なくなってしまうふうけいなのだ」
「君のようだ」
小豆は肩をすくめる。こういう仕草は顕現してから身についたものなのだろう。
「いってくれるね」
「そうだろう? 君はやがて、いなくなる」
気負いもなく言ってしまった。感情が波立つことはなかった。痛みは確かに感じるが、諦めと納得の方が大きかった。だから簡単に口にしてしまえる。
 乾いた草が風にさざめいていた。
「ねえ、山鳥毛」
青い瞳が山鳥毛を見つめている。
「きみのことが、すきだよ」
不信の滲んだ顔をしても小豆は平気そうだった。いなくなると分かっていて、いまさら言うのか。
「くいはのこしたくないからね」
「後悔したのか」
「きえるまぎわに、きみにいっておけばよかったとおもったよ。わたしはお屋形様みたいにこうけつにはなれなかったのだ」
自嘲する姿は寂しげだった。
 小豆に手を取られる。真正面から顔を覗き込まれた。
「こいなかになってくれないかな」
「はっ、ひとでなしだな」
「わかっているよ」
握る手はグローブ越しにも熱かった。小豆に冗談めかした様子は欠片もなかった。笑みは消えて真剣勝負を前にした気迫だった。
「君のことはもう思い出にしたんだ」
「くいにおもわなかった?」
「思ったさ。それでも思い出だ」
「ならどうして、わたしをさけたのだ」
手を振り払い、踵を返そうとして二の腕を掴まれた。
「きみがれんどのじょうげんにたっするまでまっていた。こころをわずらわせたくなかったから」
「それで気を遣ったつもりか!」
かっと頭に血が上った。怒声が辺りを震わせる。無神経な言葉に腹が立つ。
 山鳥毛自身も驚くほどの怒りだった。沸騰するような怒りに駆られたことなど長い間なかったのに、声を荒げて苛立ちをあらわに叫んでいた。どんな思いで小豆が消えた報を受け取ったと思っているのだ。あの瞬間の虚脱感を思い出す。悲しみよりも怒りよりも喪失感が先立った。人前だというのに丹田の力が抜けてへたりこみそうになったのだ。
「放せ」
低い声で恫喝した。これ以上ここにいてはいけない。過去が蘇る。それは若かった頃を回顧するような軽々しいものではないのだ。眠っていた感情が呼び覚まされ、切なさが思い出される。
「すきだよ」
「言うな」
小豆が一言発するたびに、ぞわぞわと奥底から湧き上がって来るものがある。二の腕から伝わる熱が山鳥毛を苛む。
「おたがいに、にくからずおもっていた」
「何も言わなかった」
「いわなくてもしっていたよ」
「先に釘を刺したのは君だ」
「きみもこいなかになるつもりはなかったとおもうけど」
押し黙った。未練だったのは伝えなかったことだけで、恋仲になるつもりはなかった。
 色恋よりも誇りを尊びたかった。小豆を惑わせたくなかった。山鳥毛も惑いたくなかった。色恋の生々しい感情を互いに抱きたくなかった。青かったのだ。思い乱れて無様をさらすような真似を見たくなかった。見せたくなかった。恋に全てを投げ打てる性格ではなかった。
「山鳥毛」
やんわりと抱きしめられた。体格はほとんど変わらないが、小豆の腕が山鳥毛を包み込む。腕の中は温かい。それは今にも訪れようとする、春の温かさだった。
「嫌だ」
「どうして」
「……後戻りできなくなる」
「させたくない」
「君は……!」
小豆が山鳥毛を静かに見返す。
「きみのなかに、こいびととしてのこりたい。いちばんのゆうじんもどうりょうももらえたから、こいびとがいい。だって、すきなのだ。こんなふうにいとおしいとおもうのは、きみだけだった」
小豆の手が強張る頬を撫でる。もう片方の腕が腰を引き寄せて体を密着させた。体温にほっとする己がいる。じわじわと体が熱を孕む。抱き合うとはこういうことなのかと思いめぐらす己が嫌だった。
 棒立ちになり、目もつぶって視界から小豆を閉め出した。それでもぬくもりに浸食される。小豆の息づかいと鼓動を鋭敏に感じとる。
 抱き返すことも突き飛ばすこともせず、長いことじっと過去と現在に思いをはせていた。何を得て、何を失って、ここまで永らえたのだろう。答えは出ない。生ある限り、決して答えは見つからないことを山鳥毛は知っている。
 すう、と煙の臭いが鼻をかすめた。遠くから乾いた草が爆ぜる音がする。その音に誘われて、春まだ浅い野に目をやった。
 すでに炎は野を焼いていた。赤いほむらは一直線の列になり、広い枯れ野を焼いていく。炎は黒い煙を上げて突き進み、その後には黒い大地が残される。
 不意に西風が野を吹き渡った。枯草はばさばさと音を立ててなびき、火柱は天高く巻き上がる。
 ああ、と声もなく呟いていた。春は苛烈だ。これほど暴力的な季節はない。冬に眠らせていたものが目覚める季節。
 緩慢に小豆の肩に頭をのせた。寄り添うだけで温かみが増す。三月とはいえまだ外気はひんやりとし、肌に触れることが心地よい季節だった。
 小さく囁いた。
「君はいつ、気付いたんだ」
「くどいてくれたときかな。すごくひっしなかおで、はるがにあうなんて、いってくれるから」
「君も必死な顔をしていた」
「おもわずてをだしそうになったからね」
もうどうしようもないのだと、あるかなしかの笑みを浮かべた。
 火は大地を温め、新たな萌芽を生む。植物は、たとえ鉄が錆び落ち人が滅んだとしても、この世に君臨するのだという。その強靭な生命力をもってして、芽吹いた若草は一気に繁茂し野を覆いつくすだろう。
「君が好きだ」
口にしてみれば呆気なかった。声はかすれてなおも明瞭だった。ちらりと顔を上げれば小豆の瞳は柔らかく細められている。
 その目を見つめながら顔を寄せた。唇が重なる。瞼は閉じず、小豆の瞳をずっと見つめていた。恐ろしいほどに澄みきった青。彼の瞳には海の青が宿っている。
 くちづけは長かった。やわく唇を食む。何度も、自分の中に刻み込む。抱きしめる体の頑健さを記憶に留める。今この瞬間を刻み込む。それでもなお山鳥毛の脳裏にあったのは、かつてともに見た越後の春だった。
 凪いだ春の海、のどかに射し入る陽の光、はらはらと落ちる薄紅の花弁……
 どちらともなく唇を離していた。小豆につられて山鳥毛も眼下を見下ろした。盛る炎は鳥の翼のようだった。
「もえているね」
 ごお、と炎があおられる。
 火が冬を焼き滅ぼす。
 季節は移ろう。
 時は動く。





 ──春が来る






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