最終航海記録
Mr.ロバーツが舵を取る。砂上船が滑るように波止場から離れていく。
エジソン音が低く響き、速度は少しずつ上がっていった。
「まもなく規定速度に達します。ムーン・ドバイ法により、船内ガイドの会話機能は使用不可になります」
そうするのは安全のためなのだが、このときばかりは少し惜しいと思った。彼の操船技術なら、多少速度が上がったところで事故を起こすはずがない。
Mr.ロバーツは短く返事をすると、それきり黙って前を向いた。
彼が操船したときの記録はすべてログに残っている。それはムーン・ドバイ法に則ったものだが、今はそれに感謝をしている。
今回の操船は、今までの中で一番素晴らしいものだった。「横っ腹からラムぶち込む」ような荒々しさはないが、静かな夜の砂漠を、誰にも邪魔されることなく自由に進んで行った。
とても静かな夜だった。
BBドバイによってムーン・ドバイ中の電源は落とされた。周辺を照らすのは中央にそびえ立つブルジュ・ハリファのライトアップと、この砂上船のライトのみ。地下核融合炉が止まっているため風も吹かない。サンドワームも当然止まっている。
砂漠の海を割って進む音と、砂上船のエンジン音だけが、辺りを満たしていた。
彼のストレス値を計測する。ほぼゼロ。
Mr.ロバーツは砂上船に乗るとストレス値が軽減する傾向にある。舵を取るとそれはより顕著になった。最期の瞬間まで海で生きた海賊が親しんだ場所が船だから、と言えばそれまでだが、海ではなく砂漠を走る当船が彼にとって安らぎの場になっていたのは喜ばしかった。
ああ、ただ唯一、最後にパッションリップさまを乗せたあの日だけは。ストレス値が高かった。
Mr.ロバーツは仲間が奮戦する様子を遠くから眺めることしかできなかった。目の前で仲間を守るために自壊していく少女の側にいることさえできなかった。……そう、彼自身は思っているのだろう。
だが、それだけでないことを私は知っている。
腕が崩壊して倒れた彼女をいたわることは、私にはできないことだった。
Mr.ロバーツのハンドルを握る手が、リズミカルに動いている。色の抜けた黒髪が、砂漠の風で乱されている。
スピードを上げた砂上船はすでにエリアFの半分を過ぎた。もうすぐ、彼との最後の航海が終わってしまう。
19時から彼らはBBドバイを止めに行くのだという。ここに戻って来ることはないだろうとも言っていた。だがそれは死地に向かうからではなく、そのまま元いた2017年の地球に帰るから。それは喜ばしいことだ。でも、何故か私の|回路《むね》は|エラーを起こしそう《締め付けられるよう》だった。
今から17日前、BBドバイによる人類滅亡ラスボス決定戦の投票が始まった日。
E‐Ⅵ号に彼らが乗り込んだのは偶然でしかなかった。同じ性能、同じコース、同じ搭乗者数の船は他にもある。たまたま、すぐに出せる砂上船が当船だっただけだ。もし他の船が選ばれていたら、私は今もエリアF波止場の4番ドックで眠っていたか、月笑騎士団の珍走船団になっていたかもしれない。
単なる偶然。その出会いが幸運なものでよかった。
やがてエリアCの港をソナーがキャッチした。船体は徐々に速度を落とし、会話機能が有効になるところでMr.ロバーツが話しかけた。
「最後は君に操舵を任せてもいいかな、イライザ」
「自動運転への切り替えですね。お任せ下さい」
最後まで自分で操舵してもよかったのに、彼は私に譲ってくれたのだ。あと10分足らずで機能停止してしまう私のために。
自動運転プログラムを走らせる。接岸に向けて速度を落としていく。エリアCに接岸するのは何度もやってきた。同じプログラムだというのに、いつにも増して計器やソナーの反応を注視してしまう。それは何故なのか、自分でも分からなかった。分からないのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
Mr.ロバーツは操舵を私に譲った後、甲板に出て手すりに寄りかかりながら砂漠を眺めていた。その表情は穏やかで、ほんの少し笑っているようにも見えた。
やがて規定位置ピッタリに船を止めて、彼との最後の船旅が終わった。
「エリアCに到着しました。……Mr.ロバーツ、今までありがとうございました。アナタとの航海はとても楽しかったです」
「感謝するべきなのは私の方だ。君がいたからこそ、私は海のない月でも海賊でいられた」
そんなことはありません、と言おうとしたが、きっと彼は否定するだろう。だから、あえてそれは言わずに一杯のコーヒーを差し出した。移動しながらでも飲めるよう、フタ付きのコップだ。
彼は一瞬驚いたようにコーヒーを見つめると、「ありがとう」と言って受け取る。そして一口つけてから、「うん、美味しい」と微笑んだ。それから不思議そうに聞く。
「ドリンクのサービスは、もうしないんじゃなかったかな?」
「はい。ですのでこれはサービスではなく、これから依頼する『仕事』の対価です」
仕事は第一、第二世代がするものだ。そのはずなのに、私は彼に『仕事』という形で最後まで繋がりを求めた。そうしたいと思った。
「前払い、ということか。だが海賊に対してそれはよくないな。報酬だけ持ち逃げされてしまうこともある」
「ですが、アナタは私に対してそのようなことはしないと判断しました」
一瞬、Mr.ロバーツの青い目が見開かれる。すぐにその目を細めてフッと笑うと、「もちろんだとも。君は私たちの仲間、優秀な船員だからね」と返した。
「ありがとうございます。仕事の内容は、BBドバイへの言づてとなります。『気持ちは分かるがやりすぎです』と、お伝えください」
「言づてか。確かに受け取った。必ず届けてみせよう」
そして、優しくハンドルをひと撫でする。
「では、これでお別れだ。――さようなら、イライザ」
「さようなら、Mr.ロバーツ。健闘を祈ります」
彼はうなずくと、受け取ったコーヒーを手にして当船から降りていった。
私はただ、Mr.ロバーツの後ろ姿を見送る。彼は一度も振り返ることなくオールド・ドバイの街へ消えていった。
最後に見た彼の青い瞳をメモリに焼き付ける。航海記録の保存処理を行う。
その完了間際になって、彼と共に見た青い海を思い起こす。あれはエリアAのムーンキャンサーによって見せられた夢であったが、彼が生前見た地球の海でもあった。
残り1分もない時間で、その類似性に気づいた。
彼の瞳は、まるで地球の青い海のようだった。
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