れぼりゅうしの後に
遠くで笑い声がさざめいている。懐かしい声だ。忘れようもない、敬して止まぬ旧師らの声だ。あの場へ己が飛び込んでも、きっと彼らは歓待してくれるだろう。ならば行こう。あの人達に話したかったことが、私には沢山あるのだ。
駆け出そうとしたところで、杉田伯元は目を覚ました。咄嗟に伸ばした指先が、畳を掠めて宙を彷徨う。
伯元は自室に一人座っていた。ぼんやりと首を巡らす。右には廊下が伸びていて、開け放された障子の向こうから微風が流れ込んでくる。左側の障子は閉じてあるが、開ければ見慣れた庭が広がっているはずだ。それだけだった。声の主は、何処にも見当たらなかった。伯元はようやく、自分は夢を見ていたのだ、と気が付いた。
懐かしい夢の原因には心当たりがあった。書見台には、中ほどの頁を開いた『蘭東事始』が鎮座している。人に貸していたもので、先日返ってきたのだ。折角だから久々に読んでみようと捲っている内に、いつの間にか寝入ってしまったらしい。いよいよ私も年だな、と枯れ枝にも似た手指を見つめ、伯元は哀しく笑った。
年を重ねるというのは、それだけの年月を掛けて経験を積んだ証左でもある。だから伯元は、老いることを辛いとは思わない。しかし最近ふとした時、例えば書物の詰まった重い箱を苦も無く持ち上げる弟子達を見ていると、卒然と酷い焦燥にかられることがある。偉大な師に囲まれてしごかれ、朋友と勉学に励み、無自覚の若さを振り撒いていた、あの頃に戻りたい――と一度も願わない人間など、果たしてこの世に存在するのだろうか。
義父が記した書を今度こそ仕舞い込んでいると、弟子の一人が廊下から姿を覗かせた。
「伯元先生、お客様がいらしています。入塾希望者のようですが……」
弟子はどこか当惑した様子だった。
「その割りにはまるで礼儀がなっていなくて……追い返しましょうか?」
そういえば、最近ほうぼうの蘭学者に入門しては叩き出されている若者がいる、という噂を耳にした。何でも水沢から下ってきた人物らしく、そうなると伯元のつてを頼ってきた可能性も高い。水沢には養父の教え子が住んでいたはずだ。
その者を通すようにと命じて、伯元は客間に向かった。
待っていたのは月代頭の青年だった。青年といっても、まだ少年を脱したばかりのほどに思われる。なるほど賢そうな目をしているが、その賢さを多少なりとも包み隠そうとする気が全く見受けられない。
「話は聞いているよ。天真楼に入りたい、というのだね」
「はい、是非とも」
出された茶に、青年は伯元より早く手をつけた。初対面の年長者を前にして臆する様子の欠片もない。肝の据わった男だな、と甘めの評価を下しつつ、伯元は茶をすすった。
湯飲みを置くや否や、青年はとんでもない挨拶をかました。
「私は、日ノ本一の蘭学者となる男でございます。伯元さん、私を貴方の門下生にしてください。言っときますけど、こんな優秀な頭脳の持ち主は滅多にいませんよ」
伯元は手の震えを抑えながら湯飲みを戻した。もう少しで座布団から転げ落ちるところだった。言った方はけろりとしている。
「勇ましいのは、うん、良いことだ。若い人の特権だ」
あくまで鷹揚な伯元に、青年は不思議そうな表情を見せた。いっそ不服そうであれば、まだ救いがあったかもしれない。
「私は事実を述べているだけだます」
「……君、名前は何と」
いかにも賢しげに、青年は眉を持ち上げた。若者特有の、『努力さえすれば世界の方が己の夢を叶えてくれる』と信じ込んでいる、幸福な表情だった。だがどうしてか、伯元にはこの青年を足蹴にすることが出来そうになかった。懐かしい人を夢に見たせいかもしれない。かつて教えを乞うた師匠らは、揃って伯元の考えに賛同してくれるような気がしてならなかった。
彼の若さが、ただ眩しかった。前ばかり見て後先を考えぬ若者の、後ろ楯になってやろうと思えた。
そんな伯元の思いなど露知らず、青年は不遜な笑顔で名を告げる。
己が後に変名し、数多の出会いを経て壮絶な運命に身を投じる未来など、夢にも思わぬその者こそは。
「高野悦三郎と申します。これより以後は、どうぞお見知りおきを」
――蘭学の世界に新しい〈風雲児〉が訪れようとしていることを、まだ誰も知らない。
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