れぼりゅうしの後に


 中川淳庵は反動をつけて起き上がった。腰に手を当て、腹から思いっきり大声を出す。
「暇だッ」
 声は反響しない。広すぎる空間に吸い込まれてしまうのだ。辺りが無人なのを良いことに、淳庵は好き放題声を張り上げた。
「暇だ! 暇過ぎる! 読める本は片っ端から読んだ! 行ける所は全部行った! 手元にあるのは時間ばっかり! 何事も起こらず唯々流れる時間ばあっかり! たまに目新しいことがあってもそいつが終わってしまえば毎日毎日おんなじことの繰り返しで、そもそも一日ってどこからどこまでだよ! くそおっ」
 喉が割れるほど絶叫しようと、返ってくる言葉は無い。肩で息をしていた淳庵は、足を投げ出して座り込んだ。
「聞きようによっちゃ、贅沢な悩みだなあ……」
 打って変わって囁く程度の呟きも、拾う者はいない。ばったりと仰向けに上体を倒し、淳庵は先刻と同じ姿勢になった。
 自分が死んでから、何年経っただろう。
 十年までは覚えてる、こないだ二十年いってたっけ、と淳庵は泡沫のような記憶を辿った。昔はきちんと勘定していたのだが、段々と時間の感覚があやふやになっていって、今では昼夜の区別も怪しい。実際ここには昼も夜も無いのだから、当然といえば当然の話である。現世の基準は、彼岸では意味を成さない。
「荒れてますねえ」
 苦笑と同情に塗れた声が降ってきた。いつの間にか、枕辺に桂川甫周が佇んでいる。いつから聞かれていたのだろうかと思って、淳庵はひどい羞恥心に見舞われた。甫周が礼儀知らずなのではない、抜かったのは自分だ。行きたいと願いさえすれば瞬きする間に何処へなりとも移動できるのは、ここの常識である。
 淳庵は半身を起こし、ふと時間経過に関する手掛かりを一つ見つけた。甫周がここにいるということは、二十三年は確実に経っているのだ。ふやけた脳にも、仲間の没年くらいは刻み付いている。
「君は嫌にならないのか」
 端然と正座した甫周は、良家の子息らしく気品のある微笑を浮かべた。
「淳庵さんと違って、私はこちらに来てまだ日が浅いですから。慣れないことの方が多くて、気が紛れているのでしょう」
 温和な声音とは対照的に、淳庵の胸底で黒い波が逆巻く。それは彼なら受け止めてくれるだろうという、甫周への甘えだったかもしれない。彼に対する嫉妬も、含まれていたように思われる。わだかまった醜い闇は、喉を駆け上がって口から零れた。
「そうだな、甫周くんは向こうに長くいたからな。その間に色んなことを為して、様々なものを見てきたのだろう。良いなあ、羨ましいよ」
 甫周の面が気遣わしげに曇る。彼を困らせるだけだと分かっているのに、その言葉は止められなかった。
「私も、もっと生きたかった」
 拳を血管が浮き立つほど強く握りしめて、淳庵は俯いた。傷付いているであろう甫周の表情を見たくなかった。
 彼岸でも生前と同じように本が読めると知った時、淳庵は(物質的にではなく立ち現れる姿として)落涙するほど感激した。肉体を離れた己の自意識は健康そのもので、遠距離の移動に関しては生きていた頃より楽になったくらいだ。遺してきた人達には申し訳ないけれど、こっちの生活は悪くないどころか快適だな、とさえ思った。制約の取っ払われた「からだ」で過ごす日々を、暫くは謳歌したものだ。
 この身が全能ではないと思い知ったのは、初めて長崎へ行った時だ。病床にあって尚憧れ続け、とうとう一歩も踏み入ることの叶わなかった地を、淳庵は思う存分飛び回った。現世の地面に足を付ける必要はないので、文字通り上空を飛び回ったのである。特に目立つ建物の壁をくぐってみると、カピタンと通詞達が会話しているところだった。我ながら鼻の良さに感心してしまう。カピタンは自国の植物について語っているらしかった。通詞が筆を走らせている帳面を覗き込むなり、淳庵は幾つかの誤りに気が付いた。彼が不安げに書き付けた部分の正誤も、淳庵には全て容易く判別できた。訂正してやろうと懐から矢立を取り出し、穂先に墨を含ませ、帳面に向かって伸ばした筆は、その下の机ごと貫通した。
 淳庵はその時初めて愕然とした。死者が生者に話しかけることは出来ない。あらゆる事物に干渉することも不可能だ。そもそも自分はこの場に壁を通り抜けてやって来ているではないか。分かっていたつもりで、何一つ理解していなかった。新しく与えられたものに魅了されて、永遠に失ったものを忘却してしまっていた。むしろ夢中になることで、忘れようとしていたのかもしれない。
 中川淳庵は、もう死んでいる。
 一度目が醒めてしまえば、この「からだ」の不便な点は次々に見えてきた。存命中なら知人の誰かしらが提供してくれたであろう知識も、自力で得る他方法は無い。しかも自分から情報源に働きかけることが出来ないから、どうしてもまどろっこしい入手手段になる。そして見落とした情報があっても、誰も淳庵には教えてくれない。また、一瞬のうちに何処へでもゆけるが、空(くう)を漂う存在で集められる情報量には限りがある。興味深い話の詳細が掴めず、何度歯痒い思いをしたか知れない。
 それら全部のもどかしさが、命さえあれば解消出来るという訳ではないだろう。長崎や、まして異国へ降り立つ夢など、天寿を全うしたとしても叶わなかったかもしれない。それでも、淳庵は恐ろしく悔しいのだ。
 もっと、生きていたかった。生きて、もっと沢山のことを知りたかった。恩師と仲間と愛弟子と、皆で揃って見届けたかったものが、語り尽くせないほどあったのに。
「淳庵さん」
 静かな呼びかけが長い沈黙を破る。関節が白く浮き上がり、内側で爪を突き立てている淳庵の拳に、甫周はそっと手を重ねた。もう血は通っていないはずなのに、確かにその手は温かかった。
「『北槎聞略』のことを覚えておいでですか」
 飽和しかけた淳庵の記憶の中で、未だに鮮烈な輝きを失っていない言葉だった。おろしやから帰還した漂流民の見聞をまとめた記録書だ。筆録者である甫周は、淳庵の墓前にその内容を報告してくれていた。数少ない日本人として二人の名前が北方の大国に伝わっている事実を、涙に頬を濡らしながら教えてくれたのだ。
 淳庵はそろりと顔を上げる。甫周の口元は、優しい曲線を描いていた。
「勿論、覚えている。どうしようもないほど嬉しかった」
 功名心が満たされたからではなく、己の生きた証が遺されていたから。人生を掛けた自分の努力が、認められたような気がしたから。
「不思議だと思いませんか。あの世界に私達自身はもういないのに、私達の書いた本と研究の成果と、ついでに名前は存在しているんですよ。私達の死後に生まれた人が、会ったこともない私達の名前を知っているんです。でも考えてみれば、私達が読んでいた本の著者の方々も同じ境遇にあったはずですよね。どうやら私達は、恐れ多くも偉大なる先人と呼ばれる存在になってしまったようですよ」
「さしずめ〈歴史に名を連ねた〉というところかな」
 甫周は何度も頷いた。
「まさにそうです。私達はもう生者ではなく、歴史なんです。ということは、ものの見方も改めねばなりません。人間だった頃の考え方を捨て去る必要はないけれど、歴史の一部としての姿勢も身に付けていくべきなのでしょう」
 淳庵は瞼を伏せ、小さく息を吐き出した。漏れる息が、仄かな笑いの色をしている。
「未練にとらわれてばかりじゃ、まだまだってことだな」
「少しずつ馴染んでいきましょうよ。焦らなくとも、時間だけはたっぷりあるんですから」
 そんな言い方をして甫周がいたずらっぽく目配せするから、淳庵も今度は声をあげて笑った。その時、よく親しんだ気配を感じて、二人は同じ方に視線を向けた。
「久々に顔を見たと思ったら何だ、やけに楽しそうじゃないか。淳庵くんなど稀に見る上機嫌だ」
 総髪の男性が呆れ顔で腕を組んでいる。彼は甫周よりも三年早く、この世界の住人となっていた。
「良沢先生こそ、今までどちらにいらしてたんですか」
 淳庵は甫周と共に立ち上がって尋ねた。随分前に「ちょっと用事が出来た。大したものじゃないから、絶対ついてこないように」と言付けて消えられたっきり、良沢の姿を目にしていなかった。
「うむ、それはだな、何というかつまり」
「良沢殿はね、私を出迎えにいらしてくださったのだよ」
 歯切れの悪い良沢の言葉に、弾んだ声が被さった。聞き慣れたその声に、淳庵達は唖然とする。
「な、だからあれは偶然行き合わせただけだと……!」
「そんな訳ありますか。まあ別に構いませんけどね、そういうことにしてあげても」
 いかにも嬉しそうに返しながら良沢の陰から現れたのは、やはり淳庵達が思い描いた通りの人物だった。渋面を作って頬を掻いている良沢の傍らで、人好きのする丸顔を綻ばせているのは、紛れもなく。
「玄白先生!」
「やあ甫周くん、お久しぶり。まさか君にまで先立たれるとは思わなかったよ」
「先生は見事に天寿を全うされましたね」
「まあね。ところで、やっぱり君も若返っているのか」
「この姿でないと、彼には私が誰だか分かりませんよ。皆さんが揃ってお若いのも、そのせいではありませんか」
 固まっている淳庵の背を、軽く甫周は叩いた。玄白の眉がふにゃりと下がる。淳庵の口が、ようやく動いた。
「玄白、せんせい」
「淳庵くん。また君に会えて、本当に嬉しいよ」
 しっかと肩を抱いて、二人は再会を祝した。つと玄白が潤んだ目を細める。
「そうか……。君が旅立ってから、もう三十一年にもなるのか……」
 三十一年。口には出さずに復唱して、淳庵は何度か目を瞬いた。淳庵の中でふらついていた時計の針がぴたりと一点を指し、新しい時を刻み始めるのが分かった。
「ところで甫周くん、最初にお会いした時の良沢殿はこのようなお姿をしておらなんだが」
「どうも相手によって変わるようですよ。あとは書物に齧り付いていたりご家族とお話していたりすると気が抜けて、お年を召された姿になるみたいです」
「ふうむ。文字通り時間を忘れる、ということだろうか」
 玄白は少し考え込む体勢に入った。
「ちょっと甫周くん、君は何故私に関してそんなに詳しいんだね」
「これぐらいのこと、先生と多少お付き合いのある人なら誰でも気付きますよ。ねえ淳庵さん」
「そうそう。むしろ先生ご本人がご存じなかったことに驚きです」
「何だと?」
「皆様、どうでしょう、そういった事象の規則性も含めてですね」
 出し抜けに声を上げた玄白の瞳が、生き生きと輝いている。
「ここは一丁力を合わせて、この世界の色々な仕組みを解明してみませんか」
 良沢は否やを唱えず、甫周は「楽しそうですね」と笑顔で応えた。久しく忘れていた高揚感が湧き上がってくるのを、淳庵は全身で感じていた。
「そうと決まれば、さあ皆様寄って寄って。また昔日のように語り合いましょうぞ」
 役目を終えた〈風雲児たち〉の、憩いの時が始まる。
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