れぼりゅうしの後に

 背後で微かに衣擦れの音がした。
 良沢は身体ごと、ゆっくりと振り返った。誰が立っているのかは、顔を見るまでもなく分かっていた。
 予想通りの人物と目が合う。途端、玄白は相好を崩した。
「お久しぶりです、良沢殿」
 人懐っこい笑みは在りし日と全く変わっていなかった。密かに思案していた台詞が、良沢の頭から丸きり消し飛んだ。喉に何かがつっかえて、言葉が出てこない。
「遅いぞ、馬鹿者」
 溢れ返りそうな何かを飲み込んで、やっとのことでそう悪態をついた。
「今少し、急ぐべきでございましたか」
 玄白は平然と尋ね返した。『急ぐ』の意味するところは、およそ歓迎されるものではないことを知っているにもかかわらず、である。
「誰がそんなことを言った」
「たった今、遅いと仰ったではありませんか」
「うむ……確かに言ったが……そういう意味ではなくてだな」
 良沢は言い淀む。玄白はにんまりしてみせた。こうすると童顔なのもあって年より若く見える。それを抜きにしても、今目の前にある彼の姿は、良沢が最後に会った時よりも確実に若返っていた。
「お変わりないようで何よりです」
 むっつりと腕を組んだ良沢の髪は、黒々と豊かに流れていた。この風体は、玄白の記憶が正しければ『解体新書』の編纂に手をつけ始めた辺りの年格好だ。玄白が良沢の後ろ姿を認めた時、良沢が振り返った時、彼は確かに総白髪だったはずなのだが。
 ここでは外見も瞬く間に変動するらしい。もとより常識は通用しない場所なのだ、このくらいでいちいち驚いていられない、と玄白は思った。現に良沢は気に留める様子もない。既に数年――これとて現し世の単位だが――過ごしているから、この現象にも慣れているのだろう。
「変わっていてたまるか。人間は然程簡単に変わらん」
「そうでございますね。彼岸へ足を踏み入れたくらいでは、人の本質的なものは変わらないのでしょうね」
 何度もゆっくりと頷いて、玄白はしみじみと繰り返す。
「本当に、貴方は変わらない。それがどんなにか、私を安心させたことでしょう」
 良沢は苦笑を唇の端に浮かべた。彼が初めて見せた笑顔だった。
「生憎だが此方も同感だ。そなたはいつ見ても変わらん」
 玄白が少し瞠目したためか、良沢はぷいと横を向いてしまった。何やらもごもご口の中で言うのを挟んで、つっと戻された視線が、真っ直ぐに玄白を捉える。
「……玄白殿。貴方に再び見えることが叶い、心より嬉しく思う」
 その声は、紛れもない喜色に染まっていた。玄白の丸顔がくしゃくしゃになる。
「良沢殿、本当に、本当に、お会いしとうございました」
 どちらからともなく歩み寄り、二人はひしと互いの肩を抱いた。ちょうど彼等と仲間が血を吐く思いで作り上げた本を、初めて目にした時のように。
 片やこの国の学問を向上せしめんと、異国語の研究に命を捧げた男。
 片や西洋医学を広く世に知らしめ、後進に蘭学の道を示した男。
 前代未聞の偉業を成し遂げ歴史に名を遺した〈風雲児〉、前野良沢と杉田玄白の、これが再会だった。
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