俺とおまえじゃたかだかソープオペラ
2
おかしなふたり暮らしには案外すぐに慣れた。
向こうは何も言わないから本当のことは知らない。けれどこの間帰ってきたら冷蔵庫に見覚えのないスイーツが詰め込まれていたから、ここでの生活に馴染んできたのは確かだと思う。
「……まァ、今更俺っちに気ィ遣うようなタマじゃねェよなァ~おめェは」
「何か言いましたか?」
「いんや、なァんにも」
洗面台周りには奴が持ち込んだと思われるスキンケアアイテムが所狭しと並んでいる。メイクさんがくれた美容グッズなんかはすぐそのあたりに放置してしまうから、俺自身の貰い物も紛れているのだろうが──いやよく見たらほとんどあいつの私物じゃねェか。俺がストックしといたワックスどこやったンだよ。
「おめェな、人んちのモンを勝手に動かすンじゃねェよ居候の身で!」
「使いやすいように整理しただけですが」
「てめェの使いやすいようにな⁉ せめてひと言言えよなァ」
「善処しましょう。風呂上がったならアイス食べませんか?」
「……。いただきマス」
要は冷凍庫からコーヒー味のパピコを引っ張り出し、袋から取り出したそれをふたつに割った。片方をこちらに差し出しながら「居候ねえ」とぼやく。
「〝居候させてください〟だなんて頼んだ覚えはないのですけれど」
「うがーーー‼ てめェマジで放り出されてェのか‼」
「うるさ……」
不意にぴとりと頬に押し当てられた氷の冷たさに驚き、ピャッと首を竦ませる。そんな俺の反応が愉快だったのか、彼は子供みたいにけらけらと笑った。
「だって本当のことでしょう? 俺なんて放っておけば良かったのに、ここに留まることを提案したのはあなたなのですよ」
「そりゃあ、放っておけねェだろうがよ」
「何言ってるんですか、もういい大人なんですよ、俺も。お金にも困ってませんし、しばらくホテル生活で凌いだって良かった」
ついさっきまで笑っていた目がふと鋭い光を帯びる。
「そうさせなかったのはあなたでしょう、天城。俺にここにいてほしいと思っているのは」
「……」
アイスの味なんてもう少しもわからなかった。めんどくせェ奴を住まわせちまったもんだ。
「るせェ、じゃあなんでてめェは俺っちの話を呑んだンだよ」
「俺にはデメリットが無いからです。タダ結構」
「……おまえ、昔っからそういうとこあるよなァ」
『シナモン』に行っても延々お冷で粘ったりさ。
それはそうと「すみません、いつもありがとうございます」くらいは返ってくると思っていた俺はしょんぼり、不貞腐れモードだ。もういい、酒だ酒。飲んだくれて寝てやる。
空になったアイスの容器をゴミ箱に放り込むとベランダへ向かった。簡単で丈夫かつつまみにも使えるからと、ニキのアドバイスで栽培を始めたプランターの大葉を収穫するためだ。
「……脱法ハーブ?」
「ンなわけあるか、馬鹿ヤロウ」
「あはは」
海に面したマンションのベランダは見晴らしがよく、天気の良い日は心地好い風が吹き抜ける絶好のロケーションだ。今夜はここ最近じゃ比較的過ごしやすい気候だし、椅子を出してきて夜風に当たりながら晩酌ってのも良いかもしれない。
「良いですね、晩酌」
「心読まないでくんね?」
「ふふ。わかりますよ、あなたの考えていることくらい」
「……っ」
先程とは打って変わって妖艶な微笑に言葉を失う。出会ったばかりの頃と比べて随分表情豊かになったな、なんて変な感慨を覚えてしまったせいだ。
あの頃も、対外的には破天荒なリーダーに振り回される可哀想なメンバー達、で恐らく通っていたのだけど。蓋を開けてみればいつだって翻弄されるのはこちらの方で、こいつの一挙手一投足から目が離せなかったものだ。だってこんなに危なっかしくて我の強い奴、他に知らない。
柵に肘をついて海を眺める要、を眺める俺。そこらに置きっぱなしにしていた灰皿を引き寄せ、セブンスターに火を点けた。酒の肴じゃないけれど、キレーなモンを見ながら吸う煙草は旨い、そんな気がして。
「──おや。まだ辞めていなかったのです、か……」
理由なんてなかった。してからこんなことを言っても言い訳にしかならないが、するつもりもなかった。月明かりを映してきらめく頬に、唇に、触れたくなった。それだけ。
「ぅ、ん……」
「……、あ?」
閉じていた瞼を持ち上げたら鼻先がぶつかる距離にあいつの顔があった。キスをしたらしいと気付いたのは数秒見つめ合ってからだった。
「……」
「……」
「……灰、落ちますよ」
「おっあぶね……ぅアッチ⁉」
〝落ちますよ〟じゃない、落ちた。Tシャツに穴が開いた。ドタバタとひとりで暴れる俺を可笑しそうに見ている要は少しも動じていなくて、やっぱりあの頃と同じだ、と歯噛みしたくなった。ちっとは俺にも翻弄させろや。
悔し紛れに「動揺したりしねェのかよ、抵抗するとかさ」と尋ねてみる。明確な意図を持って触れたのはあの夕立の日以来で、一緒に暮らし始めてからもそういう触れ合いは皆無だったから。
「それは、別に。自分に下心を抱いている人間の家に上がり込んでいるのです、それがどういうことか解らないほど子供ではありません」
「……あっそ」
何だそりゃ。つまり手ェ出されても文句言いませんよってことかよ。
おまえの言う通り下心はあるさ、そりゃもうドデカいのがな。だけどな、あの頃と変わらない部分もあるものの、やっぱり俺達は大人になった。てめェの都合だけで向う見ずに想いをぶつけて傷付けたり傷付けられたりなんて、若かったからできたことだ。今は違う。この歪で脆い新たな関係性を、大切に慎重に育てていきたいと思っているのだ、俺は。
「俺的には、片想いの相手にこうやって会えて話せるってだけでじゅうぶんなくらいなンだけど。もっと望んでも良いってわけ?」
意識して低い声で問い掛ければ怯んだように瞳が揺らぐ。おいおい、これじゃこっちが苛めてるみたいじゃねェか。
何だか興が削がれてしまった。大葉を数枚むしって部屋へ引っ込む際、ぽんと軽く肩を叩いてやる。
「ったく、ンな顔するくらいなら挑発するようなこと言うンじゃねェよ」
「す、みません……」
「いーって、あン時みたくおめェから誘ってきたら喜んで抱かせていただくけど、そうじゃなければなんもしねェから」
「……わかりました……」
後をくっ付いてリビングに戻ってきたそいつは心なしかしゅんと萎れて見えた。キスが嫌だった──わけではない、と思いたい。じゃあ何だ? 晩酌の準備をしつつ考える。
もしかして、め~っちゃくちゃわかりづらいお誘いのつもりだったとか?
「……。まさかな」
もしそうなら、本当にそうなら。……いや流石に下手くそすぎンだろ、いくら燐音くんが賢くたってわかんねェって。
悶々と考えを巡らせている間に、梅肉と鰹節と刻んだ大葉を混ぜ合わせキュウリのたたきと絡めたものをきっちり小鉢ふたつぶん、盛り終わってしまった。ニキ仕込みの手際の良さはここ数年のひとり暮らしで更に磨かれた。
「今日は先に寝ます」と言って寝室に向かったあいつの後ろ姿を思い出しながら、ああ今夜は酒の回りが早ェななんてぼうっと考えていた。
「ほんで二日酔いなん? しばくぞおどれ」
「ごめんってェ……」
単発ドラマの撮影を控えていたにもかかわらず前夜に深酒してしまった俺は、見事な頭痛に見舞われていた。最悪。プロ失格だ。ヤクザと警察の抗争を描いた連ドラの特別編、しかも久しぶりにこはくちゃんと一緒の現場なのに。
俳優として上り調子の元末っ子は、元兄貴分の背中を見てか必要以上にストイックに育った。今じゃ俺の出演作をチェックしてはダメ出しをしてくるほどだ。成長は何よりだが、たまに初々しかった頃が恋しくなる。
「まあええわ。仕事はきちっとせえよ」
「おう……ほんとこはくちゃんはきちっとしてンねェ」
「当ったり前じゃ、ドアホ」
「ぶふっ、」
容赦なく脇腹をど突かれて情けない呻き声が漏れた。スタジオの隅で待機中、誰も見てないからってそりゃねェっしょ。俺だって兄貴分なンですけど。
「ほんで? 要はんはどないしとるん? 仕事とか」
「あ~……相変わらず××プロに勤めてっけど、最近ちょっと根詰めてるっぽい。……HiMERUっち的には『HiMERU離れ』してあいつの人生を歩めるようにって気ィ回して結婚勧めたらしいけど、裏目に出まくってンな」
「離れられてへんやないか。HiMERUはんも苦労性やなあ」
「そ。〝新しいマネージャーだなんて聞いてない、もうHiMERUに俺は必要ないってことなの⁉〟って号泣電話してンのも先週あたり聞いた」
「地獄やな」
「せやろ」
その日も絡み酒で大変だったのだと苦笑交じりに言えば、彼は苦虫を嚙み潰したような顔をした。
「……、どっちもどっちじゃ」
「……んん?」
よく聞こえなくて聞き返したら今度は思いっ切り頭をはたかれた。二日酔いに響くっての。
「いっでェ!」
「うっさいわ、静かにしいや。ほんまにもお……もどかしゅうてかなんわ、ぬしら」
「〝ぬしら〟……?」
「気付かれへんのは当事者だけや~っちゅうてな、ニキはんもわしも待ちくたびれたで。ええ加減にせえ」
「な、何言ってンの?」
「チッ」
やだ、舌打ちしたわよこの子。現場で会ったら大概カリカリしてる気がするけど、今日は輪をかけて機嫌が悪い気がする(俺のせいなの?)。
「柄悪ゥ……そんな子に育てた覚えはねェンですけどォ」
「兄はん方の背中見て大きなったんですぅ。話逸らすなや」
こはくちゃんは大きなため息を吐いてからこちらをビシッと指さした(「人を指さしてはいけません」なんて言った瞬間にブチ殺されそうだから口を閉ざしておいた)。
「あんなあ燐音はん、要はんな、わしやニキはんには連絡も相談もな~んもしてくれへんねん。この意味がわからへんの?」
「うん……?」
「カア~~~、こん朴念仁が! いくら〝デメリットが無い〟言うたかて、あの気難しいおひとが誰とでも暮らせるわけないやろ。要はんはぬしはんを選んでんねんで?」
離すなや、ちゃんと捕まえといてやり、ぬしはんやないとでけへんことじゃろがい。
すごい勢いで畳み掛けられて呆然としてしまう。とてもじゃないが一度に咀嚼できない。待て待て、どういうことだ。
「……えっとォ……」
「……もうええ、もう知らん。好きにせえ、ほんで死ぬまで片想いごっこ続けてろや。おどれにはそれが似合いや」
今作の主演俳優さまは「あほんだら」と捨て台詞を投げつけると監督のところへ行ってしまった。ぽつんと取り残された俺に「兄弟みたいですね」と声を掛けてきたのはメイクさんだ。何と返事をしたのか、この時はもううわの空でまったく覚えていない。
ええと、〝もどかしい、ぬしら〟〝気付かないのは当事者だけ〟〝要は俺を選んでる〟〝片想いごっこ〟──
「……マジ?」
脈アリかもとか、ゆうべのアレは実はお誘いだったのかもとか。都合よく考えすぎだと、先手を打って潰してきた可能性達なのだけど。
さっきの言い方だと、えーっとそれはつまり、客観的に見てもそう見えてるってことで。本人が自覚的かどうかは置いといて、でも本当にもしかしたら、あいつは俺に気があるかもしれないって、思っても良いのだろうか。
「天城くん調子良いね、なんか良いことあった?」
「あっハイ、いや俺っちはいつでも絶好調っすよォ!」
俺はそれ以降の撮影で一度もNGを出さず、こはくちゃんはそんな俺を遠くから薄目で見守ってくれていた。
そういうわけで無事クランクアップした帰り道、可愛い弟分は「もし振られたらニキはんと慰めたるわ」と恐ろしいことを言い捨てて去っていった。本当に人が悪い。一体誰の影響だろうな。
さて、家に帰って要と顔を合わせたとして、どう切り出したものか見当もつかない。「おまえ俺のこと好きなの?」なーんつって、言えたならこんなに拗れてない。
「──天城?」
ドアを開けるのを躊躇して玄関前に佇んでいたら背後から名を呼ばれた。今帰りらしい。
「おう、おかえり」
「何をしているのですか、家の前で。鍵をなくしたとか?」
言いつつ俺を押し退けた手が当然のようにキーケースを取り出し、鍵を差し込んだ。ほとんど無理矢理持たせた合鍵。ちゃんと使ってくれている。何だろう、たったそれだけのことで胸が一杯になって、身に染みる。
──ああ、こいつに惚れてンだな、俺。そりゃもうベッタベタに惚れちまってる。今更隠しようもないくらいに。
「天城? 入らないのですか?」
玄関に立って迎える側にあんたが立って、扉の先に俺が立って。あの日とは逆だななんて、可笑しくなってしまう。
突っ立ったままでいると投げて寄越された訝しげな視線に、目だけで返事をして自分も中へ入った。
「ただいま。おかえりなさい」
「ん、ただいま」
来客用に置いていたブルーのスリッパはすっかり彼専用になった。毎日使うハンドソープは彼の好きな香りを選んだ。柔軟剤だってそう。コーヒー好きの彼のためにカップとソーサーを二客揃えた。インスタントじゃなく、コーヒーショップで挽いてもらった豆を置くようになった。
交通事故みたいに始まって、いつ終わるかもわからない奇妙な日々。こはくちゃんはああ言ってくれたけど、俺にとってはこの生活ですら、既に勿体ないくらい幸せなのだ。今すぐにこれ以上を望もうだなんて思えるわけがない。
「今日は桜河と一緒だったのですよね? どうでした、彼の座長ぶりは」
「堂々としてたぜェ、立派なもんだよ」
「ふふ。誇らしいですね」
「おまえは? 仕事」
「俺は……、近頃は他事務所との折衝などをやっていますけど」
「楽しい?」
「え、別に楽しいものでは──」
「じゃあさ、提案なんだけど」
だから、今の俺に言えるのはこれだけ。
「要。俺のマネージャー兼プロデューサーになる気、ねェか?」
おまえと今すぐにどうこうなりたいわけじゃない、だけどそばにいてほしい。考えて考えて考え抜いた末の答えが、これだった。結婚なんかしなくたって、恋や愛じゃなくたって共に生きる手段はある。それを証明する。おまえを繋ぎ止めておくために持ってるモンはぜんぶ使うって決めたんだ、たとえ狡くても。
右斜め下の方へ泳がせていた目線をのろのろと正面へ戻す。ぱちり。お月さまによく似た金色の瞳が瞬いた。
「……」
「……駄目?」
「……駄目じゃ、ないです、けど」
呆けたように動きを止めていた彼は何度かまばたきを繰り返したあと、不遜極まりない笑みを浮かべた。
「本気なのですか? 俺と組んだらあなたは、生涯アイドルですよ」
「うん」
「めちゃくちゃ仕事獲ってきますよ」
「いいよ」
「俺の理想は高いですよ」
「おう」
「食事や運動量の管理も」
「夜の運動には付き合えよ」
「馬鹿、今真面目な話……っ、ふ、あはは!」
堪えきれないといったように吹き出した彼は涙まで滲ませて笑っている。こっちだって真面目な話をしているつもりだから、そんな風に笑われるのは心外だ。
手を伸ばして顔を隠している横髪を掬えば、三日月型にたわんだ金色と目が合う。
「天城、あのねえ……あなた、俺がいたら無敵になっちゃいますよ。最強。天下獲れる」
「はは、かもなァ」
笑みを引っ込めて、一音一音噛み締めるみたいに、唇を動かす。
「その覚悟は、あるのですか?」
「……望むところっしょ」
これほど重たい誓いの言葉もない。少なくとも俺達にとってはダイヤの婚約指輪よりもずっと価値のあるもので、お役所に届ける書類などよりもずっと確かなもの。
歪だって良い、誰に認められなくたって構わない。俺はおまえと一緒に歩んでゆきたいのだ。
「頼りにしてるぜ?」
「誰に言ってる。勝ち馬に乗ったつもりで来い」
自信満々に返ってきたひねくれた言葉が嬉しくて、真っ直ぐなまなざしが眩しくて。何故だか目頭が熱くなった。やられっぱなしは癪だ。
「おめェこそ。すぐにでも惚れたって言わせてやるから覚悟しとけ」
そんな風に張り合ってやったら「期待しています」なんて嬉しそうに微笑むもんだから、俺の負け記録はまたしても更新されることとなった。
(燐ひめ利き小説企画お題『結婚』に加筆)
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