秋になろうと扇は手放さない





「……加州清光、今時間はあるか」

 障子の外から覇気の無い声がする。あの若作り爺、また来やがった。これで何回目だ。いい加減諦めて折れてやったらいいだろうに、まだ懲りないらしい。年を取っているだけあるのか、古い刀はそれだけで面倒くさくて生きづらそうなものだと加州清光は思う。

「ないよー。俺爪紅塗り直してる所だから今忙しいでーす」
「その爪紅を塗りながらでもいいから頼む……俺の話を聞いてくれ…………」

 件の刀はだいぶ参っているらしい。しかし、聞かされる此方が毎度うんざりするような口から砂糖が出る話をタダで聞いてやる訳にはいかない。割に合わないだろう、手土産ないし見返りは絶対に必要だ。爪に乗せた刷毛を慎重に滑らせながら、清光は気のない言葉を返す。

「相談役を受けてあげる俺への報酬はー?」
「ぐっ……ならば花鳥堂の化粧水でどうだ。使い心地は俺が保証する」

 花鳥堂、と言えば万屋街に立ち並ぶ化粧品店の中でもかなり高級な銘柄の店だ。取り扱う化粧品の値段は最低でも甲州金四百朱から。中には六百朱以上のものもある。ものが良いのは間違いないが、毎日使って一月半程でなくなってしまう消耗品にここまで出すのは、清光自身としてはだいぶ勇気がいる価格帯の店だ。

「えっマジ? まさかそれあいつに貰った奴とかじゃないだろーな、俺に横流しとか恨まれるからやめて欲しいんだけど!」
「あいつから貰った分は既に自分で使っている! お前には、その、後で買ってきてやろう……」
「もう貰ってんのかよ、引くわ……ねぇそれ使い心地どう?」
「……悔しいくらい、良い。というかお前も使ってみろ、他の化粧水が霞むぞ」
「それ使い切った後が怖いんだけど。……いいよ、聞く。入ってきなよ大包平」

 スキンケアなど何もしなくたって腹が立つくらいの美丈夫だろうにそんな高価な化粧品を貰って日頃使用しているというのもぞっとしないが、今日は本気度がいつもと違う。いよいよもって男は切羽詰まっているらしい。すっと障子を開けて入ってきた大包平は、もう可哀想になるくらい顔が真っ赤だった。お相手の猛攻に耐えきれず逃げ出してきたようだ。刀剣の横綱の名が泣いてしまう。というかこれはもしや、匿えと言われているのでは。嫌な予感はするが、自分では中々手が出せない高級化粧水をタダで進呈、という誘惑には勝てなかった。だってそんなもの、使ってみたいに決まっている。

「で? 今回は何貰ったのさ」
「……これだ」

 机の上に載せられたのは白檀扇の文字が彫られた桐製の化粧箱だった。もう見ただけでも明らかに高そうな奴だ。塗りたての爪紅を乾かしている最中なので大包平には自分で開けてもらう。折角綺麗に塗った所にうっかりで傷をつけたくないというのもあるが、絶対に爪紅で汚す訳にはいかない代物でもあるからだ。中に入っていたのは黒い房飾りの付いた七寸ほどの扇子と、携帯用の扇子袋だった。白檀と書かれているだけあって開けただけでめちゃくちゃいい匂いがする。しかし親骨は白く艶めいていて、唐草模様の金の蒔絵が施されていた。明らかに、木ではない。これは……もしや象牙、とかいう奴では。ということは中骨の方が白檀で出来ているのか。付属の扇子袋の方はさり気なく正絹の帯地で仕立てられた、特注品のようにみえる。

「うわっなにこれ引く……」
「頼む引かないでくれ……俺にどうしろというんだこんなもの……」

 象牙が使われているという時点で間違いなく七千朱以上はするだろう。素材そのものが滅多と手に入らない貴重品だからだ。もはや化粧水とか比じゃない。あれは高くても所詮消耗品だ。こっちは刀とほぼ同じ分類、伝統工芸品である。いつも思うがあいつ、そんな金どこから出してくるんだ。本丸での戦働きによる給料に加えての各種内職、それもめちゃくちゃ儲かっているのか。……まぁ、使い道が無くて貯めるばかりだった所に大包平が来たことで金遣いの箍が勢いよく外れた、という可能性は大いにある。他者と交流したがらず、仲間への報連相も怠りがちな困った刀だが、あの堀川国広の兄弟だけあって好きな奴にはとことん尽くしてしまうタイプの片鱗は既に見え隠れしている。化粧水といいコレといい、そんなに大包平へ貢いで大丈夫なんだろうか。
 大包平曰く、件のお相手は万屋へ内職の傘と草鞋を納品した後に立ち寄った小物店でこれを見かけて土産に買ってきたらしい。しれっとしたいつもの仏頂面で、「きっとお前に似合う」と言われたそうな。そりゃあこの美丈夫なら何持たせたって似合うに決まっているだろう。親骨に象牙を使った白檀扇子なんて高価なもの、使いそうな刀は古刀連中くらいだ。三条派なら三日月や小狐丸辺り、一文字派なら山鳥毛や……あのくそじじいも日常使い用に数本程度は揃えていそうだ。清光にとってはちょっとしたお出かけですら使いにくいことこの上ないタイプの上品な扇子だが、大包平だったら今更動じるような品でもない。むしろ当然だとばかりにふんぞり返って受け取っていればいいものを、何故こんなにも狼狽えているのか。扇子を広げてもらったが、中骨の白檀には気が遠くなるくらい繊細で美しい透かし彫りが施されていた。そして親骨の内側には、胡蝶の金蒔絵がある。……ああ成程、大包平がここまで参っている原因は扇子じゃなくて、この蝶だ。

「遠慮なく日常使いしろって言われたんだ? なんなら|逢引《デート》にはそれ持ってこいって? あいつ、相変わらずやる事がえげつないなー……」
「出来るわけないだろ、持っているだけで落ち着かんぞこんな扇子……。それから、あいつと逢引など絶対にしないからな! 絶対にだ!!」

 単なる象牙白檀扇子というだけなら、態々選びはしない。単純に大包平に似合いそうな扇子なら、これじゃなくても清光が思い付く品は山ほどある。唐木なら重厚な色合いの黒檀も合うだろう。香りを重視するなら紫檀でもいい。透かし彫りがいいなら材質は総竹製でも十分上等な筈だ。あいつはこの蝶の蒔絵を見て、即決で購入したのだろう。親骨の内側にあるから閉じた時こそ見えないが、開いて扇いだ時には絶対に蝶の意匠が目に映る。その度に大包平は思い知らされるわけだ。これを贈った相手が、一体誰なのかを。何を想って態々こんな手の込んだ品を、持たせてきたのかを。扇いで涼むどころか、余計に熱が上がりそうだ。

「ねぇ、此処までされておいて何でそんなに頑ななのさ。大包平だってこれ貰って満更でもないんでしょ、もう折れちゃえば?」
「あいつのことは、嫌いでは、ないが……その、無理だ。絶対に、折れる訳にはいかん」
「嘘は駄目だろー、顔に書いてあるよ。嬉しくてしょうがないって」
「それは……当たり前だろう。俺の為にあいつが選んできた品だぞ、嬉しいに決まっている。嬉しいが、本当に困るんだ……」

 もごもごと真っ赤な顔で口籠る大包平に対し、清光は大げさに溜息を吐いた。困る理由だって知れている。まぁこの後お決まりの台詞が返ってくるはずだ。これだから、古刀は面倒なのだと言っている。

「……どれだけ年が離れていると思っている、四世紀だぞ、四世紀!」
「でた。年の差を理由に交際をお断りする偏屈爺の謎理論。顕現したのはあっちが先なのによく言うよ」
「五月蠅い! 如何にあいつが古参であろうと、刀としては俺の方が遥かに年上! 俺からすればあんな新刀、餓鬼同然だ! そんな相手に、手を出せる訳がない……!」
「その餓鬼に絆されかけてるのは何処の誰カナー?」
「う、五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い! このまま贈り物など受け取り続けたら、俺があいつを誑かして駄目にしているみたいだろう! 何か、いい方法はないか……! あいつが俺を、自分からすっぱり諦められるような方法は……!」

 いつもと何ら変わらないやり取りだ。というか『みたい』も何も、現状あいつを誑かして駄目な奴にしているのはどこからどう見ても大包平なのだが……何故認めようとしない。この手の理論は大体「こんな古刀を相手にするよりもっと若くていい相手を見つければいいのに」という経年で自己肯定感の低下したマイナス思考から来る卑下や新しいものに対する拒否反応のようなものだろう。世代間格差とか、若輩者の未来を奪ってしまう年長者の後ろめたさ……みたいな陳腐極まりない奴だ。が、大包平に関しては全く違う。そもそも卑下なんて言葉自体が、全く当てはまらない。手前の美しさには絶対の自信を持ち、実装刀剣としては最新鋭の刀である和泉守にさえ積極的に張り合っていくような、平安生まれとは思えない程若々しい刀だ。いつか飽きられるとさえ微塵も思っていないのなら、そもそも交際を躊躇う必要などないのではないか。あいつだってどうにかしてこの古刀を口説き落としたくてこうしてせっせと贈り物をこさえている訳で。大包平とて贈り物そのものにではなくそこに込められたあいつの心遣いや思惑、「どうしても振り向いて欲しい」という情愛に毎度心をぐらつかせている訳で。交際さえ成立するなら、あいつも以前の質素倹約さは取り戻す筈だ。その告白さえ受けてしまえば万事治まる問題だというのに、どうしてここまで踏み止まってしまうのだろう。その年上の矜持、本当に必要なものでしょうか。

「それ、あいつに名前捨てろって言う位無理な話だと思うんだけど。ひとまず返品したら?」
「『俺の為に態々選んだ』という品を、お前は返品できるのか……?」
「まぁ他の奴はともかく大包平には無理だよね、大包平には」
「分かっているなら聞くなッ!」

 それがありありと分かる品だから、余計に突き返せないのだろう。大包平が受け取らなければ、この扇子は本当に行き場を失ってしまう。付喪神が宿りそうなほどに美しい、見事な造形の品だ。贈った相手に使われないのは、あまりに忍びない。……というか、どうせ今まで貰った贈り物の数々も全部突き返せず、かといって捨てる気になど到底なれず、処理に困って自室の箪笥や押し入れの奥に仕舞い続けてきたに違いない。その内私物も入らなくなるのではないか……否、もうあいつの贈り物で部屋が占領されきって使うしかなくなっているような事態に直面しているのかもしれない。ああ、お高い化粧水もその一つだった訳だ。結果押し入れも箪笥もどこを開けてもあいつの贈り物でいっぱいで、何を使ってもあいつの顔が脳裏に過ぎる。どう足掻いたって逃げ場はない。分かっていながら捨てられずに使ってしまうとはひとが良いにも程があるが、往生際も悪すぎる。落ちてしまえば楽だろうに。

「加州清光、居るか」

 ……なんて思っていたら、真打登場である。障子の外から掛かったこの声は間違いなく、大包平にこの込めた感情も値段もクソ重い厄介な扇子を送り付けた張本刃だ。大包平の息を呑む音が聞こえた。やっぱり逃げてきたのかこの偏屈爺。往生際が悪いにも程がある。

「はいはーい、どしたの」
「大包平は此処に来ているな? 声が聞こえたんだが」

 大包平は口元を手で押さえながらぶんぶんと必死で頭を振っている。それだって無駄な足掻きだ。目星付けられてる時点で逃げ切れるなんて思わない方がいい。あまり考えたくはないが、あいつだって大包平が頼る先など大体リサーチ済みだろう。赤くなったり青くなったりを繰り返している大包平ににっこりと笑いかけてから、清光は口を開く。

「うん、居るよ」

 多分、「貴様、裏切るのか」とでも叫びそうだったのだろう。大包平は目を見開きながら口元を押さえて必死で堪えていた。本当に残念だが、此方としては何も助言してやれることがない。そんなに好き合ってるなら年上だからとかいうくだらない意地張ってないで早く付き合ってほしい。願うのは、それだけだ。

「……妬けるな」
「待って止めてくんないそれ。俺に矛先向けんなよ、そんなんじゃないから」
「分かってる」

 そういう割に、件の男は随分と苛立った声だった。此方は此方で余裕がないにも程があるだろう、全く面倒臭い刀達だ。こちとら迷惑しているのだから本当に勘弁してほしい。一方大包平はうろうろと部屋中に視線を彷徨わせ、逃げ場を探していた。せめてもの慈悲、爪紅も綺麗に乾いたことだし、とどめは丁寧に刺してあげなければ。逃げようとしていた大包平の襟首を猫の様にひっ捕まえる。

「っ、お、おい、加州」
「じゃあ大包平の引き取り、お願いしまーす」
「ああ。悪いが邪魔するぞ」

 清光の呼びかけと同時にぱしん、と乱雑に障子を開けた『あいつ』こと山姥切国広は、軽装に身を包んでいた。相変わらずいつもの襤褸布を被ってはいるが、主から賜っただけあって中に着ているものはそれなりに上等な品だ。どうやらそもそも扇子を手土産に逢引へ誘った所で逃げられたらしい。それで別の男の部屋に逃げ込んでいたらもう世話がないだろうに。清光は机の上に置かれた扇子をそっと手に取ると、携帯袋に入れて大包平の袖に突っ込んだ。こんなもの、置いて行かれても困る。その洒落た恰好なら今から逢引に連れていかれてたって、何ら問題はない。まぁ、桐の箱をそのまま持っていては流石に邪魔になるだろうから、帰ってくるまでは預かっておいてあげよう。想い刀の登場で蛇に睨まれた蛙の如くかちかちに固まってしまった大包平の着物を軽く整えてやり、お相手に粛々と引き渡す。

「すまない、清光。迷惑を掛けたな」
「もうこれっきりにしてよ、大包平も観念していってらっしゃーい。花鳥堂の化粧水、よろしくねぇ?」
「………………ッ」

 山姥切にしっかりと指を絡めて手を繋がれた大包平は、部屋に来た時以上に顔が真っ赤になっていた。背が高いから俯いたって分かる。もう茹蛸だ。多分これから、嫌というほど口説かれてくるのだろう。もしかしたら本丸には、朝まで帰ってこないかもしれない。

「大包平、行くぞ」

 大包平は返事もろくに返せないかちかち状態のまま、手を引かれていく。打って変わって機嫌がよくなった山姥切により、障子はそっと閉じられた。
 結局あの古刀はどうにも苛烈に過ぎる新刀の恋心を受け止める踏ん切りがつかなくて、逃げられないと分かっていても心の準備を整えるための時間が欲しくて、清光に助けを求めて部屋を訪ねたのだろう。そんなになるまで気を張らなくてもいいだろうに、どこまでも生真面目で正直で初心な刀だ。

「上手くいくと良いけど。……ま、あれで上手くいかない訳ないかぁ」

 とんだ偏屈爺の愚痴でも、それが吉報なら喜んで話し相手になってあげようとも。






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