手のほどこしようがない
【キス】
まとまった雨が降ったので、診療所のまわりに植えたハーブが小さな森かという勢いで生い茂っていた。水やりの手間は省けても収穫が大変だとリンは思う。
相変わらず人が補充されないため、リン一人では手がまわらなくなった薬草園の作業は菜園の担当者に委託した。あちらも草取りや虫の駆除に忙しくしているに違いない。
朝一番にミスルンがやってきた。少し前にトールマンの使用人が焦りながら彼を連れてきたのをきっかけに、リンは彼の体調悪化の原因を突き止めた。
フレキへの聞き取りでは地上でのミスルンは毎日決められた時間に沿って理想的な食生活を送っているはずだった。しかし迷宮探索から帰還後、ミスルンは酷使したフレキに休暇を与える。留守中ずっと家に泊まり込んでいた使用人も通いに戻してしまう。そして本人は報告書の作成や次の探索の計画に熱中し睡眠を取らず作り置きの食事をたべるのも忘れてしまう。多めに作ってあるので三食を食べても二食しか食べなくても余るようになっていて、使用人はミスルンがちゃんと食べていないことに気付かない。ここまで聞き出すのにリンがミスルンとどれほどのやり取りを繰り返したことか。帰還後の、普段より多く食事をして身体を回復させなければならない時期にそんなことをしていれば体調は悪化する一方だ。
こんな単純なこと、なぜミスルンとたびたび顔を合わせているカブルーが気づかなかったのかとリンは怒りを覚えた。もちろんリンの冷静な部分はカブルーに彼の世話をする義務はないこと、博愛精神から彼と付き合っているのではないこともわかっている。庇護欲を満たすための同情や気まぐれな憐れみを与えるような人ならリンだってとっくにカブルーに愛想をつかせていた。
リンは薬師の権限を越えてミスルンの生活に口を出す決意をした。他に言ってやる人がいないのだからしかたない。使用人、特に住み込みできる人間の数を増やすこと。特に迷宮からの帰還後は徹底して彼らにミスルンの生活を管理させる。そのための手順書も必要なのでリンがフレキを叱咤しながら作成した。基本方針はミスルンに健康な生活をできる限り維持させる。それに尽きた。彼はこの先数百年を生きる。かつて身についていた生活習慣を取り戻させ基礎体力を回復させてやらねば。
調査隊ではシスヒスが面倒を見ていたとフレキは言う。
「あいつは幻覚術使えるから楽だったんだ。カブルーのヤツが隊長に言うこと聞かせんのうまくてさ、真似してマッサージとか色々やってみたんだけどな〜」
「あなたのこれまでの努力は否定しませんけど、一人や二人でこのひとの面倒みるのは限界があるでしょ。世話をする方だって疲れるし病気になることもあるんだから」
リンは厳しめの口調で言ったあと、ためらいがちにいたわりと反省の言葉を口にした。
「フレキさんはここに来た時いつも床に座りこんでたのよね。疲れてたのに、私は長い間気がつけなくて」
「いや? 椅子に座るのが苦手なんだよ」
フレキがニヤリと笑ったのでリンは恥ずかしさに顔を赤くし、ミスルンが肩を震わせるのを見てますます身悶えた。
(何笑ってんのよ! あなたにフォローしてくれなんて思わないけど、ほんとにエルフって大っ嫌い、最低)
異変を感じてからでは遅いので帰還したらできるだけ早く診察を受けにくるように言い渡した。それで今朝も律儀にやってきたようだ。リンはいまだにエルフもミスルンも好きではなかったが、倒れられるよりずっといいと諦めと共に彼の訪問を受け入れた。
フレキに説教をした手前、リンも一人で抱え込まずにこまごました作業を人に頼むことにした。薬草園もそうだ。届いた荷物を診療所や保管庫へ運ぶのはオークに頼んだ。掃除だけでなく、洗濯されたシーツをベッドに敷き診療所用のタオルをたたむのも城から人を派遣してもらう。診療や調合以外の時間を取られる仕事を振り分けた。
おかげで余裕ができて、今では城で働いてる人のための食堂に行けるようになった。朝起きてからお茶をすすり乾いたパンやビスケットをかじるのに飽き飽きしていたからとてつもなく嬉しい。同じテーブルに続けて座っているうち、顔見知りができた。また苦手な人がきたので疲れた、天気がよすぎると頭が痛くなるなんて話しながら熱々のポタージュをいただく。
夜や休日は町に行けるようにもなった。客同士の会話を聞くともなしに聞きながら食事を口に運ぶ。店主は静かに過ごしたい客を瞬時に見抜き、誰かがリンに話しかけてきても間に入ってうまく会話を引き取ってくれる。
リンは暖かい季節には腕や肩の出る服装を好んだが、一人で夜間に外出すると嬉しくない言葉をかけられるのが悩みだった。でもこの店では着ている服が原因で嫌な思いをすることはない。料理の質は城の方がいいが、うるさすぎない適度な活気や見たところ女性客の多いのが気に入っている。それに、城の食堂でカブルーの横顔を眺めながら食べるのに飽きてしまった。
マルシルが時々診療所にやってくる。非公式の監査も兼ねているのかライオスたちの前では話しにくいことがあるのかは不明だが、色んな情報をもらえてかつ美味しいものを楽しめる気楽なお茶の時間は悪くない。
リンが監査を気にするのには理由がある。マルシルには秘密にしているのだが、イヅツミやファリンが持ち帰る魔物の一部を譲り受けていた。本草書に記録の残っていた薬を作るための血だの肝だの角だのどうやって手に入れるか悩んでいたのにこんな身近に伝手があったとは。残った毛皮や肉はライオスが活用する。センシの置き土産のレシピが役に立っているらしい。
薬はまだ試験段階だが、安定した品質で精製できれば製薬を産業にできるのでは、ということでヤアドが全体を監督していた。
古い本のぺージをめくりながらファリンと共に薬の調合をする。ファリンが目を輝かせてビーカーをのぞく姿をリンは初めて目にした。時々「兄さんから聞いた話」を喋りはじめて作業の手が止まりがちな欠点を除けば、魔術学校出身のファリンは役に立つ助手だった。
マルシルにも打ち明けるかと相談はした。しかし魔物嫌いのカブルーが見たら卒倒しかねない作業をしており、マルシルと黒魔術のイメージを結びつけたくないとのライオスの言葉が説得力を持った。それで彼らふたりには秘密にしている。カブルーはまず診療所にくることがないので無用な心配だが。
今日は酸味のある木いちごの砂糖漬けが練りこまれた焼き菓子。マルシルの手みやげはいつもリンの好みを重視してくれている。マルシルの気づかいには驚かされる。食堂で漏れ聞いた話によればマルシルの心遣いに喜んでいるのはリンだけではない。社交的な彼女は何十人分の好みを把握しているというのか。
茶を淹れながら、洒落た菓子に似合う食器がほしいと思った。薄くて上品で気取りすぎないものとか。
「リンのお茶っておいしーい。飲むとすっきりするね。昔住んでた家でもハーブを摘んできてお料理に使ってたから懐かしい感じもするんだよね」
ハーブティーのレシピは天候とマルシルが好みそうなものとの釣り合いに頭をを悩ませたので喜んでもらえると鼻が高い。リンはなかなか認めようとしなかったが、ここの様子を見にきたマルシルに初めてお茶を出した時の率直な反応に心を動かされていた。
(どうせお世辞でしょって思ってた。でも毎回毎回私好みのお菓子を持参されたんじゃ降参するしかないじゃない)
「お茶を気に入ったならその籠ごと持って行って在庫を減らしてくれない?」
収穫したハーブを束にしてそこら中に吊るしてあり、棚や床に置いた籠と瓶とに香りの強い草花があふれている。
「うわー、嬉しいな。でも薬草の保管庫ってこれを置いておけないくらい狭いの? 食糧貯蔵庫を増設する話が出てるんだけど――」
「食べ終わるまで仕事の話はしないって言ってたのに、マルシルってば」
「ごめんごめん」
「話を聞かせてくれるのはありがたいけど。保管庫は広ければ広いほどいいもの」
「あ〜、もし予算の関係であとまわしになったらそれもごめんね」
「予算ねえ。調理場との人たちと結託しようかしら。ねえ、このお茶って賄賂にならないでしょうね」
リンがわざと真面目くさった顔で言えばマルシルはころころ笑う。
「大丈夫! みんなに差し入れ持って行くとどこでも一緒に食べてってくれって誘われるの。ひとり占めもいいけど誰かとおいしいもの食べたり飲んだりすると元気になるよね」
ライオスが言いそうなことだとリンは思った。いつもそばにいるから似てきたに違いない。そして、彼女の髪を編んだのもライオスだろう。頭のまわりを囲む編みこみはやけに細かいくせに詰めが甘くて拾いきれなかった毛が時々びよんと飛び出してる。
(一年前よりは進歩してるけど、相変わらず詰めが甘いのよね)
「そうだ、ヘアオイルも要らない? 色々しこんだタイミングでケルピー馬油が届いたから早く使いきっちゃいたくて」
「喜んで協力する」
「ライオスにつけてもらったらいいんじゃない」
木いちごの菓子をもう一つつまもうとしていたマルシルが手を止めた。
「私たちそういうんじゃないから」
笑いながら言う声にほんのりと高揚が含まれているのにリンは気がつかないふりをする。
「自分で手入れする気にならないから親切な彼に髪を編んでもらってるんじゃないの?」
マルシルは悪魔に欲望を食われ、髪を手入れする意欲を失ってしまった。立場上、公的な場で櫛を通しただけとはいかないので、手の空いた者がマルシルの髪をととのえることになっている。仮にも一国の王の手がそういつも空いているはずはないのだからカブルーが手を回してふたりの時間を作ってあげているに違いない。自分のことはろくにできない男が他人の世話をするのがあれほど得意だなんて皮肉なものだ。
「そうなの、ライオスには寝る前に髪を梳かしてもらってて。でも編んでもらうのも毎日じゃないし他の人にお願いする時もあるし」
マルシルはリンの想像を見通した上で間違っているよとでも言うかのように手のひらを振った。しかし耳の先まで赤くなっているので説得力はない。
(ほぼ毎晩一緒に過ごしてるってことでしょ。一昨日見かけた時もライオスが編んだっぽかったし)
リンは思ったが口には出さず、代わりにオイルについて詳しく語りはじめた。
「これは髪だけじゃなく全身、耳とか手とか足のマッサージにも使えるの。血行が良くなるし眠りも深くなるのよ。使い方を書くからちょっと待ってて。寝る前に使ったら朝には髪になじんでるから」
人の恋愛に口出しするのは野暮だが、あまり進展が遅いとライオスが年を取ってしまう。エルフの気長な時間感覚を知っているトールマンとしてリンはきっかけを作りたくなった。と言っても惚れ薬の作り方はどの本にも載ってない。マッサージを口実に手でも握れば何か起こるかもと期待した。もちろん髪にだけ使ったってかまわないし、何も起こらなくても誰も損はしないのだから。頬を赤くして考えこんでいる様子から、マルシルがライオス以外の誰かのことを考えてるようには思えない。遅めの初恋といった雰囲気のふたりをリンはほほえましく感じていた。
ハーブティーもマッサージに使えるオイルもエルフに与えられた本の中からリンが見つけたものだ。眠れないカブルーのために何かできないかと必死に書き写した。最近はゆっくり話す暇もないからカブルーがちゃんと眠れているかどうかリンは知らない。誰かがリンの代わりに気がついて世話をしてやっていればいいが。本と共に与えられた頑丈なノートはページ数が多く、いまだに同じものを使っている。新しいレシピを書こうとノートを開くたびに子どもの頃のリンの書き文字が目に入るのが切ない。
大量のハーブで患者の症状に合わせたお茶でも作るのがいいかもしれない。扱いが慣れている、よく眠れない人向けのものにしようかと考えたリンはミスルンのことを思い出し、自分でも驚いた。
(顔を合わせたばかりだから頭に浮かんだだけ。でもあのエルフったら油断するとすぐ唇はカサカサになるし、フレキの髪もいつもバサバサだし……。とにかく、いきなり渡すのは失礼だし本人に聞いてみなくちゃ。少なくてもマルシルより親しくはないんだし)
リンはマルシルのことを苦労知らずの高慢なエルフ、宝石盗難の容疑者と考えていた頃もあった。それが誰かと比較してだとしても、親しいと思うなんて。リンはふふ、と笑い、ついに自分がマルシルに友情を感じはじめていることを認めた。
「いつも仕事の相談に乗ってくれるのは嬉しいけど、何もない時でも来てくれていいのよ」
「そうだよね、じゃあお言葉に甘えてまたおしゃべりしに来ちゃおっかな」
マルシルは気負う様子もなく笑い、リンはぎこちなく目を細めた。
その夜もリンは町まで食事をしに行った。店に入るなり耳に飛びこんできたのは、職場での嫌がらせに抗議した顛末。
「さすがに我慢できなくて文句言ってやったら、急に向こうの態度変わっちゃって馬鹿みたい。仕事はやりやすくなったからいいけど」
「やるじゃない。じゃ、祝い酒どう? 一杯ならおごる」
「飲む飲む、どれにする?」
リンは酒を飲めないが、こういったやり取りを目にすると飲める人がうらやましくなる。この店では果実を煮たものを炭酸水で割って飲めるので、今日もそれを注文する。
(砂糖で煮てるのにみずみずしくて酸味がしっかり残ってておいしい。パンに乗せても良さそうだけどこの果物だけ売ってほしいってお願いするのは図々しいかな。あ、ハーブを足してもよさそう)
せっかくおいしいものを食べに来たのに気がつけば室内を占拠する草の使い道を考えてしまっている。リンは眉をひそめた。隣ではまだ職場の話が続いている。そういえばとリンは思い出す。
ある時期から城内の偉そうな患者たちのリンに接する態度が改善した。ミスルンと違ってぴんぴんしてるくせにちょっとした違和感ですぐリンを呼び出して診察してもらいたがる連中。リンは何度も抗議し時には怒鳴っても手ごたえがなかったので、途方にくれていた。それが急にしおらしくなった。
きっとカブルーが何かしてくれたに違いない。そういうことは得意だから。だが当のカブルーからは何も言ってこない。
(家族みたいに大事に思ってくれてる。根まわしもしてくれる。なのに私に声をかけようとは思わないの? いいわ、自分から言ってくるまで待つから)
自分では解決できなかったことをあっさり片付けられた悔しさもあり、リンはむきになって礼を言わないまま今日まできてしまった。
つまらない意地やすれ違いが重なって幼なじみの友情さえ薄れていくのだ。でも、少し離れた方がいい時期もある。リンはカブルーに会いたいくせに会いに行かない自分の行動に言い訳をした。
ひょっとしたらカブルーは何年もあとになって適当な相手が見つからなかった時、リンがまだ彼を好きでいることに気づいて受け入れる気になるのかもしれない。でもリンは期待することに疲れてしまった。
夕食を終えて城に戻ったリンをカブルーが診療所の前で待ちかまえていた。カブルーの顔つきから察するに、デートの誘いじゃないのは確実だ。
「やだ、珍しい」
「リン、聞きたいことがある。場合によっては君も処分を受けることになるから返答は慎重に。マルシルに渡したヘアオイルにおかしな材料を使ってはないよな?」
「使ってないわよ。マルシルに何かあったの?」
「彼女は……、一応無事だ。念のために確認したい。オイルの成分は?」
そっちが先に話してよとリンはじれったく思った。けれど彼は態度を崩さないつもりのようだからしぶしぶ説明する。
「美容用のオリーブオイルと菜園の人に分けてもらった種から生えたハーブ。ハーブも量が多いと反応は強めに出るけどヘアオイルは一度に小さなスプーン半分も使わないし、マルシルが間違えるとは思えない。肌のテストもして赤みが出てたら使わないように言ってあるし。あ、ラベンダーは市場で買ってきたんだった。うちじゃ栽培してないものね。必要なら領収書とレシピを見せるけど」
患者はよく薬師の言うことを勘違いし忠告を無視するものだがマルシルに限ってそれはない。菜園で余ってた種を植えたのがまずかった? リンは首をひねった。カブルーは一人で納得している。
「なるほど。そういうことなら君は大丈夫だ」
「何なの? ちゃんと教えて」
「マルシルと一緒にいたライオスに不審な言動があって、君がくれたオイルがどうとか口をすべらせた。……、魔物を材料にして薬を作っていると白状して、もしかしたら君が幻覚の薬でも作ったのかと」
ついにバレたかとリンは思った。しかし何だか予想以上に話がこんがらがっている。
「幻覚も何も、ハーブのオイルと薬は関係ない。完成した薬はヤアドが管理してるから許可がないと私だって使えないし、材料の残りは全部ライオスが持って行ってるんだから」
「ヤアドも一枚噛んでるのか? なんてことだ。ああ、それじゃ君はずっと安全だったのに俺一人で空回りしてたのか」
「さっきから何なのよ。あれの有効利用は国策でしょ」
リンはとっさに直接的な言葉を避けた。
「王の意向を気に入らない奴はいる。俺の足を引っ張ろうとしている人間も。もし君と黒魔術が関連づけられたら危ういなと思って――」
「私が黒魔術なんて絶対使わないのあなたが一番よく知ってるでしょ」
リンはとんでもない疑いに大声で反論した。と同時に、カブルーの不安の深刻さに気がついた。
リンの親は黒魔術に関わったと疑われた。その事件のせいでリンはエルフに保護されカブルーと出会ったのだ。恐怖に怯えるリンの姿は当時子どもだったカブルーにも不安を感じさせるものだったと彼の養母は後に告げた。
彼女は多くを語らなかったが、ウタヤの生き残りと呼ばれる彼の傷がまた開いてしまわないか心配したはずだ。親切心からカブルーとリンを会わせた責任も感じただろうし、愛する息子をリンと交流させるのにもためらいがあったはずだ。
カブルーはリンにそんな事情を感じさせず見舞いに来てくれた。おかげでリンは言葉を取り戻せた。カブルーも養母がしぶしぶながら旅立ちに同意する程度に成長し、今では容易に恐慌状態に陥ったりはしない。予想しない場面で魔物と遭遇しない限りは。
(最近は落ち着いて見えたから、ううん、ゆっくり話すことも避けてたからカブルーの不安を軽く見すぎてた。内緒にして心配させるなんて、ひどいことしちゃった)
「俺以外の誰も君のことを知らないのが問題なんだ。黄金城の書物は有用なのに古代魔術の影響を必要以上に警戒されて研究が進んでない。もし誰かが、ライオスやマルシルに害を与えようとしたって疑いを君に対してしかけたらまずいと思った。けど、色々考えすぎてたな」
動揺が深かったのだろう、今日のカブルーはしゃべりすぎている。笑い飛ばそうとした声はかすかに震えていた。リンが捕らえられ、再び言葉も発せられない状態に戻ってしまうかもしれないという恐怖がよみがえったのだろう。結果的には考えすぎだったにしてもリンを心配して来てくれた。リンはカブルーの深い愛情を感じて泣きたくなった。
「カブルー、薬のことを秘密にしてたのも、このことであなたに心配をかけたのも悪かったと思ってる」
「いいよ。リンの世話は昔から慣れてる」
カブルーは素早くリンの肩を抱きよせた。リンの気持ちは一瞬で舞い上がり、頬が赤く染まるのが自分でもわかった。カブルーも笑顔を作り、明るいブルーの瞳が薄暗がりの中できらきらと輝いた。かつてリンを暗闇の中から連れ出してくれた光だ。
リンはこのままカブルーの腕の中でうっとりとしていたかったが、彼がいつものように家族の抱擁しか与えてくれないことに気がつき、冷静になった。
(カブルーも私のこと嫌いじゃないのよね。だけど恋愛の雰囲気にはなりたくないみたい。こんな扱い、もう飽きちゃった)
リンはカブルーから身を離した。体の前で腕を組んで心理的に距離を取る。
「えっと、それでライオスは何をしたの?」
「マルシルは無事だと言ったが、実はかなり怒っていて手のほどこしようがない。ライオスがマルシルにキスをしたらしい。今は廊下に閉め出されている」
カブルーは苦々しそうに言い、リンはあんぐりと口を開いた。
「えっ、ほんとに? じゃあ私は惚れ薬か何か作ったと思われたの? あ、マルシルが魔物に見える幻覚薬とか? くっ、あはは、ふっふふふふふ」
思いも寄らない真相を聞かされたリンは張り詰めていた緊張の糸がきれて笑い出した。
「リン、笑い事じゃない。わかってるのか? ファリンもいないからふたりをなだめられる人間がいないんだ。あのバカなんてことをしたんだ。相談してくれたら段階を踏むようにぐらいの助言はしたのに」
カブルーは頭をかきむしりそうな勢いでまくしたてる。友人が彼に何の相談もしてくれなかったのが悔しいのかもしれない。リンは少し愉快じゃない気分になった。
「キスぐらいで大げさね」
「リン、キスを甘く見ちゃいけない。この前読んだ判例にいきなりキスをして暴行の罪に問われた男が――」
そこまで言うとカブルーは真顔になり、口を閉ざした。リンは吹き出しそうになるのをこらえて聞いた。
「いきなりキスをするとどうなるの? 教えて、カブルー」
リンの問いかけに一度は回復したカブルーの顔色がみるみるうちに悪くなった。迷宮での出来事をようやく思い出したらしい。
幻覚術によりあわや同士討ちになりかけた時、呪文を詠唱していたリンの口をカブルーはキスで塞いだ。あの時はそれが最善の手段だった。でも最良だったかは疑問が残り、謝罪もされたがお互いに態度はよくなかった。
「リン、あの時はすまなかった」
「何を今さら」
リンは大げさにため息をついた。その裁判のことを知らなかったらあなたはまだ反省してなかったんじゃない? と聞くのは意地悪すぎると思い口を閉ざす。押し黙ったリンが機嫌を損ねたと見たカブルーが重ねて謝罪する。
「気持ちを傷つけて悪かったと思ってる。君はあの時俺を殴っても良かった」
意外と真面目な雰囲気のカブルーにリンはどう答えたらいいの迷った。カブルーを殴ってやりたかったのはあの時のリンで、今のリンじゃない。かと言ってすべてを水に流すのもやっぱり癪に障る。
「ねえ、仕返しって今も有効?」
リンは人を殴ったことなんてない。地面にしゃがみこんで青々としたハーブを折り取る。育ちすぎた茎に葉っぱが二つずつ規則正しくついている。杖のように振りまわすとしっくりきた。
「リンシャ? その草で何をするつもりなんだ?」
引きつった顔のカブルーが怯えるので、リンはにっこり笑った。
「招雷はどう? 迷宮の外、ましてこんな杖じゃ威力は知れたものね。薬もあるし、私も治療と看病の経験をたっぷり積んだから心配しないで」
「……、わかった。ひと思いにやってくれ」
カブルーは覚悟を決めて目を閉じた。
リンは彼に仕返しのキスをできることに気づいた。背伸びをして肩をつかんで。それでリンの意図は伝わるし唇は届く。
(だけど私、キスはするんじゃなくされたいし、会いに行くよりは来てほしい。待ってばかりいるのも、たまに会えた時に必死でしがみつくのが駄目なのもわかってるんだけど)
もう一度ため息をつき、リンはハーブでぺしっとカブルーの胸を叩いて呪文を唱える。リンが紡ぎ出す言葉にカブルーのきれいにカールした睫毛がぴくりと揺れ、何か言おうと唇が開きかけたのを魔力を宿した指先で触れて閉じさせた。
(指で触るのも罪になる? カブルーの唇ってこんな感触だったっけ)
リンは思いきり魔力を放出する攻撃魔法が得意で、迷宮に潜っていた頃は治癒や回復はほとんどホルムが担っていた。過剰なエネルギーを与えれば却って負担になる。でも今のリンは落ち着いた気持ちで魔力の流れを制御することに成功していた。
――もし自分が選ばれないとしても、必要な時にはいつでもカブルーを癒やしてあげたい。今は無理でもいつかそんなふうに思えたなら。リンはひそかな決意と共に癒やしの力をカブルーの身体に流しこんだ。
「どう? 私の回復魔法もなかなかのものでしょ」
「すごいな、溜まってた疲れが取れた。リン、君って本当に寛大で素晴らしい女性だ」
すっかり許されたものと思って感謝を述べるカブルーを前に、リンは自分の気持ちをどう伝えるべきか思い出した。
「いいのよ、キスのことは貸しにしておくから。マルシルたちのところに行きましょ」
夜遅い訪問にも関わらずマルシルはリンを部屋に招き入れた。誰かに話を聞いてもらわないと気持ちがおさまらないようだ。ライオスとカブルーも小さくなって部屋の隅に立っている。
「私もたくさん悩んだんだよ、寿命のこととか、色々……。でも悩めば悩むほど残り時間が短くなっていくのもわかってた。だから例えばね、例えばなんだけど、ひざまずいて手を握られて、口づけしてもいいか? って聞かれたら、まあ、いいかな……って思ってた。けど、おでこだよ! キスする時にそんな中途半端なことってある?」
「ええっ? いい雰囲気になったのに、おでこにキス!? それはかなり罪が重いわね」
マルシルの怒りにリンは同調した。
「なんで日和ったんです? そこまで行って土壇場で逃げますか普通」
カブルーも呆れはてていた。
「マルシルにはいつも笑顔でいてほしいのにキスしようとしたら怖い顔になったから安心させようと思って、ひたいに……、そしたら余計に怒らせてしまった」
ライオスは憔悴し、半泣きになっていた。
「緊張したら顔ぐらい強張るわ!」
その後、マルシルがライオスへの気持ちを思うさま吐き出し終えたタイミングでリンはカブルーと共に部屋を出た。ここから先はふたりでゆっくり話し合うなりキスをやり直すなりすればいい。
「ライオスもマルシルにかなり大きい借りを作っちゃったわね」
「そうみたいだ。ところでリン、さっきの貸しって……」
「知らない。いつ取り立てられるか怯えながら暮らすといいのよ」
「怯えてはないけど。今度ふたりで食事に行こう」
「さっさと回収させるつもり?」
「どうだろ。リン次第かな」
「考えておくわ」
調子が良すぎて憎たらしいのに、やっぱりカブルーには甘くなってしまう。リンは差し出された腕にそっと指を絡めた。
END
ダン飯二次創作
https://notes.underxheaven.com/preview/60d21635cd25a39928d0631ee073369c
絵文字送っていただけると嬉しいです
https://wavebox.me/wave/8z1xvx5ydh9auxep
続き書く元気はないから全部詰め込んじゃえ!って長くなってとても読みにくい。最後まで読んでくれた方は本当にありがとうございます。何回も書き直したからちゃんと辻褄があってるのか不安だ。
魔法の仕組みはよくわからないし原作読んでても勘違いして記憶してるとかあると思うし他の描写ももりもり捏造して書いたのでうのみにしないでください…!
書いてる間摂取した・影響を受けたコンテンツ(あとで自分がフーンとなる用)
「トーベ・ヤンソン短篇集」(トーベ・ヤンソン、冨原眞弓/ちくま)
「破果」(ク・ビョンモ、小山内園子訳/岩波)
「虎に翼」(4週目まで)(吉田恵里香/NHK)
「さよーならまたいつか!」(米津玄師)
「マリはすてきじゃない魔女」(柚木麻子/エトセトラブックス)
「修道士カドフェル」(エリス・ピーターズ/社会思想社現代教養文庫、光文社)
「キャノン姉妹の一年」(ドロシー・ギルマン、柳沢由実子/集英社)
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