1-1 新居
世成鳳子は、これまで幾度となく住処を転々としてきた。それは、彼女の母親――世成宵子が、幼い鳳子の面倒を見切れず、あちらこちらへ預けたり、時には行く先々に連れ回したりしたからだ。 宵子が届け出た記録だけでも、鳳子の住所は三度変わっているが、実際に彼女が寝泊りした場所をすべて数えれば、その数ははるかに多いだろう。
「………先生。準備、できました」
鳳子は病室を出て、扉の前で待機していた白衣の男――鳳仙和希に声をかけた。もう二度と戻らないその場所を片付けた鳳子が手にしていたのは、新居に持っていく荷物ではなく、すべてを詰め込んだゴミ袋ひとつだけだった。
「いらないものは職員さんが片付けてくれるから、それは部屋に置いたままでいいよ」
和希の言葉に、鳳子は無言で頷き、再び病室の扉を開けた。そして、空っぽになった部屋を見つめ、思い出を置き去りにするようにして扉を閉めた。彼女はもう一度和希に向き直る。それを合図に、和希は鳳子の手を取り導くように歩き出した。
◆
車は病院のロータリーにあらかじめ停めてあった。 和希が鳳子を助手席に座らせていると、病院の正面玄関から女性職員が出てきて、急いで和希に声をかけた。
「先生、今日で最後だったんですね。話は聞いていましたが、正確な日は知らなかったので。最後の日に出勤していてよかったです……」
彼女は和希と同じ病棟で働いていた職員だった。和希が今日付で職場を去ると聞き、慌ててお別れの言葉を告げに来たのだ。
「職場が変わるだけだよ。僕はこの道を離れる気はないから、学会には参加するし、研究が進めばいずれ論文も発表するつもりだ。今年の夏には発達障害関連の研修に出席する予定なんだけど、君もだろう?」
「ええ……また会えますよね……。私も本当は、世成さんの力になりたかったけど、できなくて残念です。でも、良くなることを祈っていますので、また夏に再会したら、世成さんのことを聞かせてください」
助手席の窓を覗いて、女性職員は鳳子に向かって手を振った。それに気付いた鳳子は、窓を開けようとしたが、操作がわからず空振りして、結局諦めた。 女性職員は苦笑しながらも、鳳子が何かしらの反応を示そうとしたことに少し嬉しさを感じた。
別れを告げた後、女性職員は病院の中へ戻っていった。和希はその様子を見届け、自分に忘れ物がないか念入りに確認してから、運転席に乗り込んだ。
和希はスマホを操作して、目的地までの交通状況を確認した。渋滞がないことを確認すると、誰かに電話をかけた。数回のコールの後、その人物が応答した。
「……あぁ、僕だけど。今から出発するよ。多分、二時間はかかると思う。……ああ、それじゃあまた」
通話を終えてハンドルを握ると、二人を乗せた車は病院を出て国道140号線へと入った。そしてそのまま真っ直ぐ、目的地に向かって走り出した。
◆
結局、箱猫市に着いたのは夕方の五時過ぎだった。天気予報では快晴のはずだったが、車を走らせて三十分ほどで突然激しい雨が降り始めた。そのせいでどこかで大きな玉突き事故があったらしく、和希たちは東京に入る直前で高速道路で長時間足止めを食らった。
それでも何とか無事に箱猫市の新居まで辿り着いた。激しい雨も箱猫市に着いた頃にはすっかり止んでいた。しかし、新居の鍵を持つ肝心の人物がまだ到着していなかった。和希は渋滞を知り、その人物に到着時間が遅れることを連絡していたが、結果としてその遅延がすれ違いを引き起こしてしまったようだ。
夕暮れの赤い光が、乾ききっていない車の水滴をキラキラと照らす。鳳子と和希はその光景を眺めながら、新しい一軒家の前でその人物の到着を待った。
しばらくして、品川ナンバーの一台の車が家の前に停車した。その見覚えのあるナンバーと車体を見て、和希は待っていた人物が到着したことに安心した。 運転席から一人の男が降りてきた。
「いやぁ、遅れて申し訳ない。お待たせしました。さあ、中に入りましょう」
男は爽やかな笑顔で謝罪しながら、スーツのポケットから鍵を取り出し、鳳子の方へと歩み寄った。
「初めまして……ではないですが、多分覚えてはいないでしょうね。なので、改めて自己紹介をしましょう。私は|暁凰雅《あかつきおうが》と申します。今日から私と君は家族です」
暁は鳳子の頭に手を乗せて撫でた。彼の手に合わせて鳳子の頭は左右に揺れた。その光景を無言で見つめる和希に気づき、暁は続けた。
「ああ、和希、ガレージを開けるから、車を頼むよ」
「俺、左ハンドルなんて運転したことないんだが」
暁が放り投げた車のキーを受け取り、和希は苦笑しながら言った。「ぶつけないでくださいね」と暁は和希をその場に残して鳳子を連れて家の中へと入っていった。
◆
家の中は白を基調としたシンプルなデザインで統一されていた。生活に必要な家具はすでに揃えられており、設備も最新のものだった。
暁は鳳子を一つの部屋に案内した。そこにはベッドや勉強机、本棚などが置かれていた。
「ここは君の部屋だ。必要なものは用意しておいたけど、もし足りないものがあったら遠慮なく言いなさい」
部屋を見渡す鳳子の肩に手を置き、暁は優しく言った。鳳子はゆっくりと部屋の中に歩み出し、そこに置かれたものに手を触れ、その存在を確かめていった。その中で、鳳子の目を引いたのは、窓のカーテンレールにハンガーで掛けられていたセーラー服だった。鳳子はそれに近づき、じっと見つめた。
「君の制服だよ。病院で着ていたものと同じサイズのものを用意したけど、後で一度着てみてほしい。来週には学園に通うことになるからね」
「……学園?」
鳳子は不安そうに眉をひそめて暁の顔を見上げた。 暁はすぐに鳳子の頭に手を置き、安心させるように言った。
「そうだよ。日本では義務教育だからね……。人と関わるのは怖いかい?」
鳳子は答えず、視線を下に向けた。 外はすでに日が暮れ、明かりが灯されていない部屋の足元は暗くなっていた。
「鳳子」
暁は彼女の名前を呼んだ。今までとは違い、その声は低く、重いものだった。鳳子がその声に反応して見上げても、暁はその視線を遮らなかった。
「私はお前を人間だと思っていない。人間扱いされたいのなら、それに相応しい振る舞いを身につけなさい」
鳳子の瞳には、暁の本当の顔が映っていた。 彼の言葉の意味が理解できず、鳳子は問いかけようと口を開きかけたが、その時、廊下の奥で玄関の扉が開く音がした。二台の車の駐車を終えた和希が家の中に入ってきたのだ。
「和希がやっと来たね。それじゃあ一緒に家を見て回ろうか」
暁は鳳子の頭に手を置き、にこりと微笑んだ。部屋を出て行く暁の背中を追って、鳳子も部屋の扉へと向かった。そして部屋と廊下の境界を跨ごうとしたとき、彼女は一度だけ振り返って部屋を見渡した。
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