1-2 小瓶

「……まるで入れ物みたいね」

 机の上に整然と並べられたいくつもの錠剤を見つめ、鳳子は静かに呟いた。唐突なその言葉に、和希は思わず作業の手を止め、彼女の方に顔を向ける。

「入れ物?」

 和希は不思議そうに訊いた。 鳳子はひとつの錠剤を指で摘み、じっと見つめながら言葉を続けた。

「これは私の中にあるものを全部消してしまうのよ。だから、もう私はどこにもいない。だけど、先生は私にこれを毎日飲ませ続ける。中身を失った私は、ただの入れ物みたい……」

 その言葉を聞いて、和希は少し驚いた。寡黙な鳳子が自分の気持ちを言葉にすることなど滅多にない。彼は彼女の隣にそっと腰を下ろし、並べられた錠剤の列を見つめた。 それは彼女の心を安定させるための薬――だが、それは同時に彼女の現実感を曖昧にするものでもあった。それでも、和希にはそれを与え続ける理由があった。

 鳳子が抱えるのは、突発的に起こる自己破壊的な衝動。それが始まると、彼女は現実の区別がつかなくなり、時には他者さえも傷つけてしまう。それは和希自身が身をもって経験したことだった。

 鳳子の犯した殺人事件が発覚したとき、鳳子の精神状態は明らかに常軌を逸していた。事件後、彼女は鑑別所に収容され、最初に呼ばれたのが和希だった。

 その日々は今でも鮮明に思い出せる。まともな会話すら成り立たず、何度も自らを傷つけようとする鳳子の姿。誰もが最初は薬物の影響を疑ったが、その痕跡は見つからなかった。 既往歴を調べてみても重要な記録は見つからず、世成鳳子がどうしてそうなってしまったのか、誰にもわからなかった。

 凶器になり得るものを全て遠ざけても、鳳子はボロボロになった自分の爪でなお、自分を傷付けようとした。そうやって暴れる彼女を守るために、鳳子は縛り付けられるしかなかった。

 鑑別には、複数の専門家の見解が求められる。集められた医師の殆どが、鳳子を人間として救う事を諦める中、和希だけはそれができずにいた。 そして、鳳子には他人と決定的に違うものがあると気づくまでに、一度だけ鳳子によって傷を付けられたことがあったのだ。 更生を見込めない青少年の末路は悲惨な事を和希は知っていた。

 もしもあの時、鳳子が傷付けた相手が自分以外であったなら、と思うと和希は考えるだけでもゾっとした。

 結果的に、薬で彼女のすべてを押し込めてしまう形にはなってしまったが、それでも鳳子がこうして誰かと会話できるようになったことは、奇跡に近いものだった。

 和希は鳳子の髪を優しく撫でた。そして、「ちょっと待ってて」と静かに告げ、一旦その場を離れた。

 キッチンの戸棚を開け、手のひらに収まるほどの小さな空の瓶を取り出す。彼はそれを手に持ち、再び鳳子の隣に座った。

「鳳子、君に課題を出そう。何でもいい。この瓶を君が見つけたもので埋めてみてくれないか」

 鳳子は和希を見上げた。彼女の目には困惑の色が浮かんでいる。

「どうして?」

 彼は微笑んで答えた。

「それは瓶がいっぱいになった時に教えてあげるよ」

 和希はその瓶を鳳子の手にそっと握らせた。鳳子はしばらく不思議そうな表情を浮かべていたが、やがて小さく頷いた。



 翌日、和希は多忙を極めていた。市役所に提出する書類、学校への申請書、診療所の認可に関する手続き。次から次へと押し寄せる仕事を、彼は一つ一つ片付けていった。さらには、鳳子の世話や引っ越しの荷解きまで、全て彼の肩にのしかかっていた。

 本来ならば暁がすべきことも、和希が引き受けていた。それは、二人の間に雇用契約があったからだ。契約内容には、鳳子の治療や身の回りの世話、さらには父親の代理としての役割も含まれていた。 暁が提示した報酬は、十分すぎるほどだったし、鳳子に執着し家庭裁判所まで説得させる状況にまで持ち込んだ和希にとって、この契約を断れる理由はほとんどなかった。

 だが、ここまで全てを丸投げされると、不満の一つでも言いたくなるのが人情だ。和希は内心、ため息をついた。

「鳳子、今夜は何が食べたい?」 和希が忙しなく書類を片付けているのを横目に、暁は鳳子に声をかけた。鳳子はテストを解く手を一旦止め、「何でもいいんですか?」と返事をする。その問いに、暁は微笑んで頷いた。

「この前食べた、お肉が分厚いサンドイッチ……もう一度食べてみたいです」 遠慮がちに答えた鳳子の瞳には、いつかのサンドイッチを思い出す期待が浮かんでいた。

「ご要望ですよ、先生」 暁は和希に向かってそう告げるが、和希はすぐに反応する。

「しね」 その短い言葉で、暁の他人任せな態度を一蹴する。暁は昔から、他人を困らせて楽しむ性格だったのを和希は理解している。今でこそ鳳子を通じて二人は密接な関係を築いているが、その前から彼らは面識があった。それゆえ、表面的には怪しげに見えるこの雇用契約も、互いを知っているからこそ成り立っていたのだ。

「聞いたかい? 君の要望に対するあの暴言を。可哀そうに」 暁は楽しげに言い、鳳子は「そうなの?」という瞳で和希を見つめた。和希は、これ以上のやり取りが無駄だと理解し、話題を変えることにした。

「ところで、テストは終わったか?」 その言葉に、鳳子は満面の笑みを浮かべ、タブレットを手に駆け寄ってきた。彼女が取り組んでいたのはトロッコ問題だった。和希は問題の答えとその理由を説明するよう、彼女に指示していた。

 トロッコ問題とは、自分が加担して一人を殺すか、何もしないで五人を見殺しにするかを問う思考実験だ。 暴走するトロッコが向かう先には二つの分かれ道があり、一方には一人、もう一方には五人が横たわっている。目の前にはレールを切り替えるレバーがあるが、鳳子はレバーを操作しないという選択をしていた。

 和希が理由の欄を読むと、「五人が死んだらトロッコを戻して、もう一人も轢く」と書かれていた。彼は質問をする。

「どうして、一人まで殺す必要があるんだ?」 その問いに、鳳子は長い黒髪を指先に絡ませながら答えた。

「一人だけ取り残されるのが、可哀そうだから……」 和希はその言葉を否定も肯定もしなかった。ただ、テストをきちんと終わらせたことを褒めるた。 実は、鳳子がこのテストに取り組むのは初めてではなかった。定期的に同じ問題を繰り返しているが、彼女の答えは常に同じだった。すなわち、必ず全員を殺してしまうという結論だった。

 和希は鳳子がこの一人を自分自身と重ねているのではないかと考えていた。

「これ、ネットで一時期流行ったのを覚えてるよ。私はね……」 暁が口を挟んだ。

「お前の答えは聞かなくてもわかるよ。何もしないんだろう?」 和希がすぐに遮ると、暁は「ご名答」と軽く笑った。

 トロッコ問題が投げかけるのは、加害者になるか、傍観者になるかの選択だ。 倫理観を問うてるように見せかけて、何もしなければ五人を見殺しにするんだぞと、数の多さで脅し同情を誘うとしているこの問題が、和希は内心とても嫌いだった。



 和希が鳳子に瓶を渡してから、もう一週間が経った。彼女は毎日、少しずつ瓶に様々なものを入れ続けていた。小さな紙片に書いた言葉、庭で拾った石、壊れた古い時計の針。どれも彼女にとっては意味を持たないものだった。

 そして今日、瓶がいっぱいになった。鳳子はそれを見つめ、和希に問いかけた。

「これでいいの?」

 和希は静かに頷き、彼女の手から瓶を受け取ると、それを見せながら優しく語り始めた。

「鳳子、君が瓶に入れたものは、君が選んだものだ。どんなに小さくても、どんなに些細に見えても、それは君が感じたもの、君が大切だと思ったものだ。それこそが、君がまだ自分自身を持っているという証拠なんだよ」

 鳳子はじっとその言葉に耳を傾け、瓶の中身を見つめた。その目には、わずかながらも迷いが浮かんでいる。

「でも、私は……もう壊れてしまっている……」

 その言葉は、まるで自分を否定するかのように小さく、脆かった。和希は黙って瓶の蓋をそっと閉めた。

「壊れているかもしれない。でも、君の中にはまだたくさんのものが残っている。それが証拠さ。この瓶の中にあるものと同じように、君の心の中にも何かがまだ確かにあるんだ。それを少しずつ取り戻すことが、今の君に必要なことだと思う」

 鳳子は瓶をしっかりと握りしめた。その手には、和希の言葉を受け入れたい気持ちと、それを拒もうとする恐れが同居していた。和希はそんな彼女を見つめ、肩に手を優しく置いた。

「君は、ただの入れ物じゃない。君の中にはまだ君自身がいる。そして、君がそれを認めて、受け入れることができた時、もっと自由に生きられるはずだよ」

 鳳子は和希の言葉を胸に刻もうとした。しかし、心の奥底に潜む臆病さが、その言葉を簡単には受け入れさせてくれない。 それでも、彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の窓を開けた。外から差し込む柔らかな日差しが、彼女の顔を優しく包み込んだ。

 明日は鳳子の新しい学校への入学式が控えている。彼女がこれからどのような道を歩んでいくのかは、まだ誰にもわからない。 それでも、和希はまだ諦めてはいなかった。鳳子は自分自身の道を見つけられる。そして、和希自身もまた、彼女と共にその道を歩んでいく覚悟を決めていた。
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