最終話



 はるか昔、ただ座っていても汗が噴き出て止まらなくなるほど暑いラブホのサウナでわざわざ言い合いになって、二人で黙ったまま意地の張り合いになったことがある。
 理由はなんだったのかもう思い出せない。でも多分むちゃくちゃくだらないことだったのだとは思う。
 じわじわと流れ出る汗。むっつりと口を噤んだままそっぽを向く二人。出て行ったって良かったはずなのに二人ともそうしないのはベッドの上でついさっきまでラブラブだった余韻なのかもしれない。嫌いにはならないけど謝れ。俺は一ミリも悪くない。ツンケンした雰囲気がそう物語る。
 幼い頃からずっと二人でいたせいか、真面目な話が照れくさくて出来ないこともあったし互いに素直になれないまま時間が解決してくれた事案など山ほどあった。
 喧嘩なんて本当にしょっちゅうだった。口でなら正直バカともアホとも言ったと思う。悪かったなと思ったところで、俺からしおらしく謝ったことなんて一回もなかった。
 無論、朔夜だって同じぐらい気が強くて強引で、思い通りにいかないと機嫌なんてすぐ悪くなった。構わないと拗ねるし肝心なところで空気が読めないこともあった。でも、今になって思えば、それがいつからなのかは分からないぐらい自然といつも朔夜が折れてくれていたおかげで俺たちは成り立っていたのかもしれない。
 その時も、もう限界だ倒れると思った瞬間、先に朔夜が立ち上がった。
「ったく、小学生か俺らは」
 若干朦朧としていた俺の腕を引いて自分もよたよたとしながら外へでた朔夜は真っ赤になった身体で同じく真っ赤になった俺を抱きしめた。
「……俺絶対悪くないけど。朗がつらそうだから先に立った」
「……言うな、わざわざ……そういうとこだぞお前……」
「今出なかったら倒れてたくせに。てか何でサウナあんのここ? もしや中でしろってこと?」
「死ぬじゃんソレ」
「サウナ心中www」
 倒れそうなのでびしゃびしゃに濡れたままベッドに身体を投げ出すとすかさず朔夜は横に来て何も言わないまま口を寄せた。
「おい、しない、のぼせてんの俺は」
「……。やだ、したい」
「さわんなもう……おい、しな、ン……し、」
「それはしないの反応じゃない。やならちゃんと」
「しないっつってんだろ!!!!!!!!!!!!!!」
 マッパの股間を素足で蹴るのも多少の抵抗はあったがあんまりしつこい方が悪い。クリーンヒットして悶絶しながらしばらく床に蹲っていた朔夜だったが、涙目になりながら次にはぶち犯すとキレるのだからどっちもどっちだ。本気でプロレスばりの揉み合いを二人でしたら力では到底勝てなかった。最終的に無理矢理組み敷かれたところで悔しくて見上げると、朔夜は楽しそうに吹き出した。
「ぶははっ、勝ちィ。てかこんなわけわかんない状態からでもセックスしたら気持ちよくなれんの俺たちマジで意味わかんないよな」
「……」
 そりゃお前が入れてるからだろと言いかけて辞めた。悔しいが、されている方が気持ちいいのは間違いない。咄嗟の言い訳にも出来ないぐらい、これは絶対。
 でもそれは多分、相手が朔夜だから。例えどれほど身体がよがっても、心の奥まで気持ちよくなるには朔夜がしてくれないときっともう無理だ。分かってるよ。
 抵抗しないと分かったのか、強めに掴まれていた手首から手が離れてほっぺたを優しく撫でられた。くすぐったい。俺のことが好きで堪らない顔。こういうとこがすき。愛されていると実感できる時が一番だいすき。
 朔夜は唇のギリギリまで近寄っておきながら触れはせずに囁く。子供みたいに拗ねる朔夜も欲に溺れた低い呻きも俺にだから見せてくれる。本当は朔夜が思うよりずっと、ずうっと重たく好きでいるのは俺だ。
「朗、すき。嫌いなとこも全部だいすき」
「……分かってるし、そんなこと……恥ずかしいからいちいち言うな」
「嫌だね。お前は絶対言わないと分かんないヤツだよ」
 そう言って、やっと口に触れてくるので首に手を回して抱き寄せる。カラカラになった身体が求めるがまま互いの舌を貪り合った。
「……お前だって、言わないと絶対わかんないくせに……」
「そりゃそうだ。察してとか怠惰。大事なことはちゃんと言葉で言いなさい」
 ああ。
 それには何て返したっけ。朔夜とじゃなくても当たり前のことだ。ありがとうとかごめんなさいと同じぐらい大事な言葉なのに愛しているだけは、朔夜にちゃんと言えたことは無いような気がする。分かってくれていると思っていたし、実際、分かっていただろうけれど、果たして八年も引きずるほどの深い愛情を俺がこの身に飼っていたとは朔夜は思っていなかったのではないだろうか。
 或いは、普段の振る舞いでは到底伝えきれない愛があったから、こんなに長い間、辛くて苦しい思いばかり抱いていたのかもしれない。こうして会えなくなったら、叫びたいほど愛しているのだなんて朔夜にはきっとこれっぽっちも伝わっちゃいなかった。
 悔しい。どれだけ喚いても死んだら届かないのが、何よりも。こんなにこんなに、愛してたのにさ。
「……」
 とても静かに目が覚めると、例の如くひどい二日酔いですぐに吐きたくなった。ベッドから転がるように降りて這って便所までたどり着くと、今日もいつも通りの朝を迎えた。
 頭がガンガンして、悲しい気持ちと悔しい気持ちが半々にこだまする。でもなんだか昨日までとは違う感覚がした。懐かしい。ちょびっとだけ嬉しい。
「……ふ……」
 こんなにあったかい気持ちで笑みまで零れてしまうなんて久しぶりだ。とても深いところから突如蘇った記憶でもある今朝の夢は、ここ数年は忘れかけていた朔夜の嫌いなところもそのまま映し出してくれていた。
 思えば、確かに喧嘩ばっかりだった。当たり前すぎる存在だった朔夜に甘え続けて結局素直に好きだなんて言ったことがあったかどうか。自分がした行いは必ず返ってくる。そんな報いを辛辣に教えられた気もする。
 一昨日迎えた朔夜の八回目の命日は、例年通りどこへも出かけず店も開けずにただひたすら家で泣き腫らした。八年を通して、墓にも仏壇にも事故現場にも一度も行ったことはない。昼前には店の仲間や弓美弥達が喪服で訪ねてきてくれるのできっと代わりに墓参りに行ってくれているのだろうと思うが、どうしているのかは聞いたことがなかった。
 何ということもない。散々泣き疲れて眠れたらそれでおしまい。ただそれだけの一日。弓美弥以外夜はみんな店を開けに出ていって、命日の一晩だけ黙って弓美弥が側にいてくれる。
 それも終えたら当たり前だが、あっさりと九年目の朝になっていた。世界って残酷だな、とカーテンを開けた日差しの眩さにぼんやりと思った。
 朔夜の朝と夜はもう永遠にこないのに、世界はただただぐるぐるぐるぐる回り続けて俺の秒針だけを着々と進めていくんだから。なんなら、生きていくというのは命の時間に縛られている限りすごく不自由だとも思えた。
 ならば、朔夜は自由になれたのかな、ふと初めてそんな風に思ったのが昨日の朝の話。
 夢見が良かったはずの今朝は、いつにも増して胃の調子が悪くてどこにも食べには行かないで仕入れだけして店に向かった。いつもなら昼頃には榛葉から連絡があるのだけれどそれも来ない。まるで何かが抜け落ちてしまったような低いトーンの世界は昨年より昨日より、今日を境に大きく変化し変わっていってしまう喪失へのもしかしたら予兆だったのかも分からない。


 間違いなくさく、と表示された着信画面を見た時、本気で心臓が止まりかけた。まさか八年の想いがついにあの世へ通じたか!?と思ったのも束の間、カウンター越しの榛葉が「かけたよ!」と元気よく言い放った。
 混乱する頭で必死に状況を呑み込もうとしたが、どう考えても絶望的にしかならなくていっそ諦めた。朔夜のスマートフォンは事故に遭った日に壊れてしまって動かないのだけれど、朔夜の両親に頼み込んで今まで解約をしないでもらっていた。確かに渋々承諾してももらった記憶はあるが、つまりはもう、それもやめてくれと、そういうことだろうか。
「解約はしないでって言ったのに」
 気づいたら口から零れていた。あんまり急なことで、当然相談もなかったものだから、めちゃくちゃ傷ついてしまった。
 同時に思ってしまった。こんな風に他者から傷つけられるようなことを、俺は八年間してきたのだろうか。報い? なんの。いつの誰の何がこんなにいけなかったんだ。俺が朔夜を失って拠り所にしてきた携帯の番号まで無くさなくちゃいけないほどの、一体何を俺がしたんだよ。
 ふと顔をあげると、榛葉が口を引き結んだままこちらをじいっと見ていた。何の感情もはっきりとは読み取れないが、抑揚のない平坦な声が耳に届く。
「しまちゃん」
 その途端、心が強烈に榛葉のことを拒絶した。これまでにない嫌悪感。憎悪ともいえる強い強い負の感情が頭の中に渦巻く。
 大体、知り合った当初から榛葉の言いぐさや態度がずっと引っかかっていた。わざと過去を思い出させるような話題や余計な一言。なんでもかんでもこじつけて朔夜のいた生活を連想させようとしているようにしか思えなかった。それでも、そんな榛葉の言動を悪意だと思わずに今日までいられたのは、声も顔も似ているわけじゃ全然ないのに、榛葉が榛葉自身の意見を話す度、強い既視感に苛まれそのみなもとを恐々と辿ってみればそこには必ず朔夜の感性がある気がしたからだった。
 榛葉からは時々朔夜の片鱗みたいなものを密かに感じた。でも、こんなことを思ってしまうのは、朔夜が恋しすぎるせいであって、おそらく俺だけの妄想。誰にも分かってもらえないしその必要もない。そう思えば思うほど、毎晩毎晩榛葉がここに来てわけのわからない話をしてくれるのを楽しみに思っている自分がいた。
「……」
 本当はそれが、ものすごく怖かった。
「榛葉、そのスマホ譲ってくれないかな……」
「……」
「昨日までちゃんと繋がんないままだったもん、この番号は、誰かに繋がったらだめな番号なんだ」
 朔夜じゃない人に、朔夜を感じてほんの少しであっても安心しようとしている自分は、朔夜の死を永久に受け入れないでいようとしている自分を裏切っているみたいで、ものすごく嫌だった。
「もうやめよう、しまちゃん」
「……え……」
「嫌いになってくれていい。あえて言うよ。しまちゃんのそんな人生、誰も望んでない。これだって俺にはとても偶然には思えない。一緒に進んでいこうってエールなんじゃないのか?」
 そんな中放たれた冷淡にも思える榛葉の言葉は、からっぽの店内にいくつにも反響しながら俺を責めていた。世戸くん辺りが即座に何か言い返しても良さそうな場面だったけれど、誰も何も言わなかった。冷静じゃないからか、一瞬で頭に血がのぼってどこかこれまでの弱い生き方を強く否定するような言葉に思えてしまって榛葉を睨む。
「朔夜じゃないくせに、朔夜を分かったふりするな」
「でもしまちゃん、このままこうして一生生きるの?」
「関係ないだろ……!」
 激昂のままにカウンターを出て榛葉に詰め寄り胸倉を掴む。他人にどうこう言われていいような簡単なことじゃない。生き方に正しさなどないし朔夜との一生をどう生きていくかは誰にも決められない。分かって。分かってよ。俺にはこんなに分かっているのに。
「……」
「朔夜とのあり方は俺が決める! 俺の生き方はっ、」
「……しまちゃん……」
「……俺、の……生き方……は、……朔夜に、決めてほしいのに、……いなくなっちゃうから、」
「しまちゃん……」
 分かっている。主軸がないからどうしようもなくてふらふらするのだ。誰のために生きていたつもりもないのに、失ったら気が付いた。俺の人生は朔夜がいたから成り立っていた。朔夜といたから全部楽しかった。そうじゃなくなった世界で、喜べ笑えと言われても今度は朔夜がいないから素直になんにもできなくなった。
 榛葉に求めてきたのは決して朔夜との日々じゃない。でも、朔夜と似たようなことを感じて口にすることのできる榛葉を通して朔夜の感性の続きを見出そうとしていたのは否めない。
 だから今も無意識に待っていたのかもしれない。
 榛葉が、朔夜じゃないのに朔夜みたいに抱きしめてくれるのを。
「なんで俺だけ……」
 気が付けば榛葉の胸元で理不尽に負けて泣いていた。世界中で俺だけに降りかかっているこんなにも多くの災難が憎い。朔夜に会いたい。望んだのはただそれだけなのに、どうして何もかもを俺から奪うのか。
「何で、なんで俺だけ、こんな気持ちになんなきゃなんないの、かえってきて、さく、なんでもするから、もう嫌だって絶対言わないから……愛してるって、何回でも言葉にするから……」
「……しまちゃん」
 諭すように名前を呼んだ榛葉がそっと背中に手をまわしてくれた。朔夜にはこんなに優しく抱きしめられたことは一度もなかった。それがすごく悲しくて、全部が喉の奥で激しい嗚咽に変わっていく。
「さくやぁ……」
 息が詰まるほど泣きじゃくってどうしようもない俺を榛葉はぎゅう、とゆっくりかたく抱きしめてくるので、無意識に背中にまわしていた両手にもっと力が入る。離さないで。またいなくなるなら愛してるって聞こえるように今言って。
「さく、好きだよ、愛してる、……届いて、ここにきて……」
「…………」
 目の前に火花が散るほど強烈に錯乱しながら泣き崩れる思考の狭間、囁くような榛葉の穏やかな声が耳に届いた。嗚咽がやむほどぐらぐらする。榛葉の声なのに、朔夜じゃないのに、やっぱり朔夜みたいなことを言う。
「しまちゃんだけじゃないよ……」
「……っ……ぅ……」
「世界には、大事な人を亡くした人間はたくさんたくさんいるよ……」
「っう……」
「でもさ、その人たちが全員笑えなくなったわけじゃないのを、俺知ってるんだよ」
「……っはあ、……っ……」
「だからしまちゃんもまた笑って。辛くて泣く日もあっていいから、また笑ってもいいんだよ。しまちゃんが顔あげて幸せになってくれるのを、皆待ってる」
「……朔夜……」
 頭ではそうじゃないと分かっているのに、八年前に急に途切れてしまった朔夜との終わりの続きな気がして、切なくて愛おしくて胸がじくじくと痛む。そう思えたらもう何に泣いたらいいのかわからなくなって喉が切れそうなほどおいおいと泣いている間、榛葉はひたすら黙って抱きしめた格好のままでいてくれた。朔夜じゃないから受け入れ難いのに、榛葉だったから朔夜を感じてしまって訳が分からない。愛しい。寂しい。あったかい。朔夜。
 朔夜? ずっとここにいたの、お前。
 いつしか、柱時計がひとつ鳴る。やっと嗚咽がおさまり始めた頃、この体温の持ち主が本当は誰なのかを確かめたくて榛葉の名前呼ぶと、榛葉は困ったように返事を返した。
「榛葉……」
「はあい……。離そうか? ……世戸に殺されそうなんだよね……」
「……」
 それでもまだ顔を見ていないので諦めきれずそうであって欲しい願いを込めてそっと朔夜の名前を呼ぶ。今だけでいいから朔夜だったりしないかな。まだ離して欲しくない。ぎゅっと榛葉を抱きしめる。
「……朔夜……?」
 あり得ないのは分かっている。おかしな言動だとも重々理解している。でもそんな虚言を許してくれるのが俺の好きな朔夜だった。すると、榛葉は申し訳なさそうに背中を弱くさすった。
「……すまん、そうだったらいいんだけど違うんだぜ……でも、電話番号俺に譲ってくれたのはその人なんじゃないのかなあと俺は思う……」
「……」
「変なこと言った、ごめんなさい……」
 とうとう腕の力が緩くなってしまったのが嫌でまた涙がぶり返しそうになる。そうっと離れていく温かさにはどうしても期待しながら榛葉の顔をやっと、恐る恐る見つめる。
「……あの、ごめんねいきなり……」
 それは紛うことなき榛葉。どこからどう見ても榛葉で、淡い期待すら虚しくなるぐらい朔夜ではなかったその事実が、何もかもを今、一瞬で吹っ切ってくれた。
 じっと目が合ったままでいた榛葉の視線が泳ぎ、きまり悪そうに頭をかいた。
「……抱き、しめたり、その……すみません……」
 急にしどろもどろになって謝る榛葉の様子を見たら、なんだかこちらまで照れくさくなってきて思わずそっぽを向いて笑ってしまった。同時に疲労感がどっと押し寄せる。
 一体なんだったんだ、今の時間。
「てか、おい榛葉、表出ろ」
「ねえ呼び捨て???? 俺は何もしてなくない?????」
「した! した!! しただろ!!!」
 ひと段落したと思ったのか、問答無用で世戸くんが榛葉を外へ連れ出すと、乾いたベルの音が店内に響いた。
 その様子を鼻を啜って見守っていると吾妻が隣に並んで立って、穏やかな口調でお前榛葉と付き合えば? と言ってきた。勿論、冗談だと分かっている。涙声で笑いながらいやだと言う。
「嫌だよ。あんな空気読めない人」
「……ひでぇ。朔夜だって似たようなもんじゃん」
「ばか、さくはもっと強引でスマートでしたあ」
「…………」
 何も言わなくなったので隣を見ると、外の二人の様子を見つめたまま吾妻は音もなく泣いていた。それを見たらまた喉の奥からきゅううと切ない涙が込み上げてくる。
「俺は、いい男だと思うけどな。いざというとき、頼れそうだし」
「いざというときだけじゃやだ」
「理想が高いのよ……あ、弓美弥……」
 吾妻が驚いた顔をするので外を見ると、窓枠の向こうに弓美弥と雛ちゃんが居た。弓美弥は何やら榛葉に向かって鋭い目つきで喋っているようだが、隣では雛ちゃんが二人の間でおろおろしている。
「連絡してたの?」
 吾妻に聞くと、笑って目配せしたあとそのまま何も言わずに扉へとかけていった。ベルの音が再びカランカランと鳴る。
「店先でやめろお前ら~」
 ふと古時計を見ると、時刻は午前二時ちょうど。開け放たれたドアの外から冷たい風が吹いて頬をそっと撫でられた。世戸くんがぷりぷりしながら店の中に入ってきて赤い目尻で近づいてくる。
「てかっ俺だってずっと店長のこと好きだからっっっ」
「エッ」
「俺の方が絶対いい男なのにっっアイツ選ぶんですかっっ!?」
「エッ……!?」
 それだけ言ってカウンターに入って荒々しくドリンク作りに勤しむ世戸くんを呆然と眺めていたら、いつもの席に戻ってきて座った榛葉がぼそっと「選ぶわけないのよ」と零す。
「……俺は応援してやってもいいよ榛葉クン」
 その隣で薄くなったハイボールをちょっと飲んだ吾妻は弓美弥に聞こえないように言ったつもりだったろうが、弓美弥の拳がダン! とカウンターを叩いた。
「何言ってんの吾妻!?」
「おああ、いやあ……お、お前だってこの前は……」
「うっさい! 寝ぼけてんのか!? 朔夜の代わりってんなら俺が朗貰う! いいよね雛ちゃん!」
「……えっ? ……んン、ゥうぅ……?」
 これみよがしに、人生は様々だ。なんだかいたたまれない気持ちでいそいそとカウンターの中に戻ってみると右と左を見渡した吾妻は今なら選び放題だな、と寂しい顔で嬉しそうに笑ってくれた。
「…………」
 その瞬間、これまで榛葉に感じていた朔夜っぽさの理由がなんとなく分かった気がした。
 朔夜は朔夜としてはきっとこの通りもうどこにもいない。でも、あの日バラバラに散らばった朔夜の存在の片鱗は、こうして俺の目に映り触れ感じる全てのものに混ざって片時も離れないで側にあった。
 朔夜のありかとはきっと、この世界そのもの。今も昔も、どこにも行っていないし、いつもここにいた。
 そう思うことが今朝より、昨日より、一昨日よりも悪いことじゃないと感じるのは、
「う~ん。なんか悔しい。榛葉、やっぱ向こう一週間出禁」
「えっ!? うそ、嫌だよおっ……」
 出方次第ではと思っていたが、慌てた榛葉の真剣な目を数秒見たら満足した。
「……うそ。いつも、どうもありがとう」
 やっぱり朔夜が「ちゃんと言葉で言いなさい」と教えてくれていたからなのだろう。







 こうして、八年後の世界線でようやくあちこちに朔夜が溢れる人生に辿り着いた俺は今日も一人でこの世界と暮らす。
 なんとなく昼時も開けるようにしてからは一日を通して前より人が来てくれるようになった。朔夜と作った朔夜との世界だったこの店を選ぶ人に朔夜の片鱗がないはずがないから、顔なじみでも新しい人でも誰かが扉を開けてベルを鳴らしてくれる度、嬉しくなってどうぞいらっしゃいと心から歓迎した。
 榛葉は変わらず毎日のように訪れた。世戸くんはほんの少し前に海外へ行ってみたいと言い出してからなかなか日本に帰ってこなくなってしまった。少し大変な日もあるが世戸くんが戻ってくるのを期待して今は一人で店を開けている。
 食器を片付けていると柱時計がボォーンボォーンと二回鳴って十四時を告げた。外はカラッと晴れていて明るくていい日だ。ランチのお客さんはさっき帰った人で最後だった。
「…………」
 あの日、十四時ちょうどに朔夜から届いたメッセージでは単刀直入に結婚しないかと言われた。最後のやり取りになるなんてまさか思っていなかったし、どこか前向きになれない心のまま、いやだといつもの調子で返事を返した。すぐになんでと問われたので俺は「しなくても幸せにしてよ」と返した。
 結局、その返答は今になっても返ってこない。おまけに、その時思い描いていた幸せにはなれずジマイ。
 今でもそのことをふと思い出しては、自分の傲慢さをとても悔やんだし寂しくてやりきれなくて泣いてしまうこともあるがそれはそれでもうしょうがないと割り切って泣く。
 だって、辛くても悲しくても或いはそうじゃない時も、この命が続く限り精一杯在りきれば、いつかは俺も世界の片鱗になって朔夜みたいにもっと自由になれるのだと信じているから。
 だから、その時がきて欠片として世界に混ざり合いまた朔夜と出会えたら、今度は俺から結婚してくれとお願いしようと思っている。
 愛に迷うのはもうこれきり。好きな人と幸せになれることは誰しもの当たり前や平凡ではないことをこうして朔夜に教えてもらったからには、大事な人と毎日触れあい一緒にいられる奇跡、言葉を介して愛情を伝えることができる誰かの奇跡の在り方達を、この場所で静かに見守っていようと思う。 
 愛しい片鱗の宿る秒針が、いつか役目を終えるその日まで。






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