かわいい


「これ全部イチから覚えならんのか、と思うと気が重くて。」
「こら、小草若。お前は落語何年やってんねん。」
口が滑ったオレの言葉を聞くとがめた草原兄さんは、最近新しく入門したばかりの男を小突くばかりだった拳骨を、オレの頭に垂直に落とした。
痛い。
「小草若、ええか。師匠もよう言ってるけど、ずっと寿限無だけではこの先食っていけんぞ。そら、ここまで続けてたら、そのうちに師匠の寿限無やのうて、お前の寿限無にはなってくと思うけど、オレらには、今の師匠方が掛けはってる落語を、この先も伝えていく必要があんねや。算段算段て、入ったばかりのあいつが師匠にやいやい言うてんのもどないやとは思うけど、お前にはああいう熱意とか、もっと言うならしつこさが足りん。……これがええ機会や。暇な時には色んな落語のテープ聞いて、寿限無の他にも好きな話見つけて、それを覚えてったらどないや。」
よその師匠の落語でもええやないか、と付け加えられた一言が重かった。
「はい、兄さん。」と返事をしながら、オレは苦々しい思いでいっぱいになった。
こんな稽古も熱心に出来ない弟子なんか、よその師匠ならとうにおっぽりだされてしまうことくらい、鈍いオレにだってわかってる。
師匠は、おやじやからオレのことを引き受けてくれてんのや。
「もうすっかり夕方やなあ。」と兄さんは顔を上げて日暮れの夕焼けを眺めた。
「アイツらまだ買い物から帰って来いひんのか。」
今日は首脳会議があるから稽古はもう草原に見て貰え、と言ってオヤジとおかんが部屋に引っ込んでしまったので、天気がええから稽古は縁側でするか、という兄さんに東の旅発端を習ってたら、あっという間に時間が経ってしもうた。
アイツら、と言うのは草々と新しく来たオヤジの弟子のことや。今日のあいつは草々に付いて出掛けている。
師匠に算段の平兵衛を習いたいと押しかけて来た男が内弟子になって暫く経つ。稽古も本格的に始まったので、今日は弟子とおかみさんと師匠の六人揃って秋に鍋ものでもするか、というので買い出しに行っているのだ。
カセットコンロとガスボンベがあったら都合がええやろというので、ちょっと遠くまで足を延ばして、園芸やら掃除用具やらが揃う、よろづやみたいな店を回っていくことになるから、草々はその道案内のために一緒に出掛けて行った。
出来のええのは稽古をせんでよくて、オレはこうして草々がずっと昔に覚え終わった話を教わってる、てわけや。
同じ時期に師匠に弟子入りしたのに、オレの方では寿限無以外にまともに覚えられた話はない。
一度開いてしまった差は今ではもう歴然としていて、新しい話に身が入るでもないオレに、兄さんはほんまに辛抱強く教えてくれていた。
師匠が厳しいから、その反動でオレを甘やかしてくれてんのやと、そのことが分かっているのに、兄さんに甘えて、何でもっと厳しく叱ってくれへんのやと思ってしまう。オレが叱られたら拗ねるのが分かっていて、こないしてくれてるのに。
オレはほんまにアホや。
「ちょっと休憩するか、台所で茶でも飲もう。っと、その前に稽古場から本取って来るからお前先行って茶、入れててくれ。」
「兄さん、オレもそっち行きますわ。」
勉強は苦手やけど、草原兄さんから『好きな落語』の話を聞くのは好きだった。
オレ自身は、落語が好きや、て気持ちはすっかり擦り切れてしまったけど、弟子入りしてもう十五年、未だに落語に熱い気持ちを持ってる兄さんの話を聞いてると、忘れたはずの気持ちを思い出すことが出来る。
オレも兄さんみたいに古典の本でも読んだら下手な落語もちょっとはマシになんのかな。
まあ、舞台で噛むのまで移るのは遠慮したいけど……。


稽古場に足を踏み入れようとした時に、奥の部屋から声が聞こえて来た。兄さんはしーと指を一本立てている。
「師匠、今日からシノブに「まんじゅうこわい」教えたってんですよね……なんかあの子からいい話聞けた?」
シノブ?
「いや、あいつ、ほんまに口固いわ。煙草はやってたみたいやけど酒はよう飲まんような顔して、一番は酒です~とか、しれっとした顔でいいよる。」
「困ったわねえ。手がかりないと、初高座のお祝い、何にしようか迷てしまうわ。」
「初高座か……。志保、お前、あいつがそこまでうちにおると思うか? オレはあいつが覚えたいて言うてる話を教える気はさらさらないで。」
「算段の平兵衛ね。珍しい話を好きになる子がいるなあ、て思うけど、師匠かて、あの噺がカッコええと思ったから今もああして時々掛けとるんやないの?」
「……まあ、あいつがこの先、崇徳院でも覚えて完璧に出来るようになったら分からへんけど、草々でもあの噺はまだ完璧とは言えん。何年も待たされたら、そのうちしびれを切らすやろ。」と師匠はおかみさんをからかうでもない真面目な声で言った。
おやじはあいつに崇徳院をやらせようと思っているらしい、と聞いて、オレは草原兄さんと顔を見合わせた。草々ですら、あの噺を始めるまでにかなりの時間が掛かったのに。
カッコつけのあいつを困らせるために飛び切りのアホが出て来る話を覚えさせようとか、そういうつまらん了見で言うてるようには聞こえなかった。オヤジはあいつのことをそない買ってるのか、と思ったオレは、またひとつ気分が重くなるのを感じた。
「絶対おるよ。あの子、師匠のこと大好きやもん。まあうちの弟子はみんなそうやけど。」
「はあ~。お前がそない言い切るとはな。」と師匠が言うと、おかみさんはいつものようにころころと笑っている。
「そないいうならひとつ、お前があいつに合うと思うもん贈ったったらええんとちゃうか?」
「そうかな? 私が一方的な見立てでシノブに似合うと思うようなもんを選んでも、それではあかん、と思うのよ。食べものひとつとっても、あの子は、うちの献立みたら、みんなが何好きで、何食べて来たかわかるでしょう。でも私らはあの子の好きなもんを何にも知らん。これからお互いを知っていく。……今日はいつもと違う、『きょうの料理』やけどね。皆と一緒なら、シノブもおかわりの遠慮しないでつつけるでしょう。」と言っておかみさんは笑っている。
ははあ、なるほど、と言う顔をした兄さんと顔を見合わせた。
石狩鍋て、これまでのうちではようやらんかったからな。
鍋と言えば、適当に練りものとかこんにゃく入れて嵩マシした関東煮とか、冬になったら適当に安い魚を入れたごった煮みたいな海鮮鍋とか。あいつが何食いたいかおかんの方でもリサーチ中てわけか。おかみさんからしたら、入門仕立ての頃の草々と比べて、うさぎみたいな量しかよう食わんな、て風に見えてんのかもな。
はあ~、それにしても、天狗座行くのにかに道楽の看板見ると、たまには蟹すきとか食いたいとか思うけど、オレが一番好きなオヤジの落語かて、居並ぶ錚々たる師匠方の中では今だに中堅どころと言った立ち位置やもんな。
カニへの道のりは遠いで。
「これでシノブが女の子なら、可愛いアクセサリーとか、キラキラしたもん好きだから簪とかでもええと思うんやけど、難しいわね。」
「志保、お前何言うてんねん。男のアイツらですらこない苦労してんのやから、女の弟子なんてオレはよう取らんぞ。」
「ちょっと言うてみただけよぉ。先立つものもそんなないのにお酒飲むのが好きな師匠がこれ以上弟子取ったら、うちは破産します。」
「そやなあ、」
「でも、これだけ男所帯やとひとりくらい女の子おってもええのに、て思うのよねえ。私も梅田に買い物行くのちょっと楽しなるし。」
「志保、お前また脱線しとるで。」
「……あ、そうやった! 先にシノブの話や。何あげたらええんやろ~!」
なんでもええやろ、あいつおかんがくれるもんなら何でも嬉しいて顔しよるし。草原兄さんもそう思ってる顔をしているのが分かったので、ふたりで抜き足差し足で台所に戻った。
それで、茶を啜りながらの説教タイムや。
「小草若、お前もそろそろ兄弟子の自覚持たんとあかんで。」
「そない言うて、草原兄さんかて、あいつにはいけずしはるやないですか。」
「はは、まあ今のおかみさんやないけど、あいつがもし可愛い女の子なら、もうちょっと当たり柔らこうするわな。」
「そらま、そうですけど。」
なんやあいつが可愛かったら、オレの方でもきつく当たれんようになるやないですか。
「師匠、おかみさん、ただいま帰りました!」
晴れ晴れとした草々の声が聞こえて来ると、ただいま帰りました、といつものようにテンション低い声が続いて聞こえて来て「お前が先に言わんかい、」というツッコミと「痛、」という男の声が聞こえて来た。
あいつホント顔は二枚目してるくせに、時々ツッコミ待ちみたいにして生きてるとこあんなあ、と兄さんが言った。
はあ、兄さんほど長く生きてるとそない思えるもんですか。
「おい、小草若、鍋作るから、お前も手伝え!」
「うっさいで、草々!」
まあ草々の方でも、久しぶりに美味いもん食えるな、という気持ちが出ているのか声に張りがあるな。
オレもなんや腹が減ってきたな。



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