目当ての宝石ではなかったので今回はお返しします。

 ポン、ポン、と軽快に空へと跳ねるサッカーボール。一回、二回、それから三回。高く高く跳ね上がり、綺麗な弧を描いて吸い込まれるようにボールが落ちた先は少女の目の前だった。ゴールとして砂地に引かれた線の傍ら。そこを守る敵は数メートル先で、ボールを蹴り上げた少年の行く手を阻んでいる。本当に阻むべきボールはもうそこにはないというのに。
「ゲッ」
「やったー!」
 対極的な声を上げ、少女はゴールに向かってボールを蹴った。コロコロコロ、と至極ゆっくり転がったボールはそれでもすぐにゴールラインを越える。
「ありがとう、コナンくん!」
 歩美の歓声に「おー」と気の抜けた返事をしたコナンは、すっかりなじんだ“小学生の遊び”にそっと笑みを漏らした。やってられない、と思っていたはずが、この生活にもずいぶん慣れてきたではないか。
「コナンくんチーム、また得点ですね! そろそろチーム替えしましょうか」
「ちょっと休憩したいぜー。走ったら疲れちまった」
 駆け寄ってきた光彦に、地面に足を投げ出した元太が億劫そうに応える。ボールを、もといコナンを追いかけて走り回っていた元太は特に疲れたことだろう。苦笑した光彦は「じゃあいったん休憩にしましょう」と言って公園内をきょろきょろと見回した。
「あれ。ボール、どこ行っちゃいました?」
「そっちよ。入り口の辺りまで転がっていったわ」
 ベンチに座って本を読んでいた哀が、視線を上げることなく口を出す。指差す先は歩美がボールを蹴り込んだゴールラインよりさらにあさっての方向だった。公園を囲む花壇に沿って、コロコロと転がっていってしまったのだろう。
「あ。歩美とってくるよ、」
「オレが行くから。ちょっと待ってろ」
 気づいた歩美を制して駆け出したのはコナンだった。代わりを買って出たのは親切心などではなく、彼らと一緒に過ごすうちに身に染みついた習慣のようなものだ。外見は同い年の友達で、たびたび助けられる探偵団の仲間であろうとも、コナンにとって彼らが庇護すべき小学生であることに変わりはない。避けられる危険はなるべく避けるべきだ。
 ――だからといって。代わりに自分が、とまでは考えていなかったのだが。
 ボールを追いかけて公園の入り口近くまで辿り着いたコナンは、コロコロとゆっくり転がるそれが誰かの靴の爪先にぶつかるのを見る。ローファー。黒い裾。学ラン――そこまで認識しつつ、靴の主に拾われたボールを追って顔を上げた。
「スリー」
 聞き覚えのある声と。
「トゥー」
 顔の前に掲げたボールの向こう側から片目だけを覗かせる、細めた瞳のいたずらっぽい輝きに。
「――ワン」
 気づいたときには、何もかも遅かった。
 ポン、とかわいらしい爆発音がして、辺りは小規模の白い煙に包まれる。ポン、ポン、と続くのはサッカーボールが落ちて跳ねる音。
 受け止める者のいないボールは徐々に動きを止め、あとは地面の上で静かにたたずむのみだった。
 
 
 ---
 
 
 ――風の音。
 頬に感じる冷たいコンクリートの感触。ざらついているのは砂埃だろうか。目元は地面に触れていて、どうやらメガネを外されているようだ。手足は自由。縛られてはいない。ただ床に投げ出されているだけ。
 周囲で物音がしないのを数十秒しっかりと聞き取ってから、コナンは薄く目を開けた。
 倒れ込んでいたのはやはりコンクリートの床。鳥の声は近く、地上の喧騒は遠い――どこかのビルの屋上らしい。顔が向いていた先、下方数メートルの距離に装備が一式まとめて置いてある。
 あれらが脅威だと知っていて取り上げながら、すぐに手の届く場所に無防備に放り出す人物……そんな矛盾した犯人像はそう多くない。そして、今回の“誘拐事件”の犯人にはとうに心当たりがあった。
 ああ、まさにその人が、今そこで背を向けて座っているではないか。
「よう、名探偵。やっとお目覚めか」
 ビルのへり近くに片膝を立てて座すパーカー姿の男。こちらから顔は見えない。目立たない黒のパーカーは夜の怪盗姿とは対照的だが、すっと伸びた背筋とたわむれにコインを遊ばせる指の動きには見覚えがあった。
「簡単に攫われすぎだぜ? もう少し警戒したほうがいいんじゃねーの」
 そのナリなんだから、と言いながら弾いたコインは宙空でぱっと消える。コナンは起き上がりつつ、じっとりと眉根を寄せてその背中を睨みつけた。
「そうそういてたまるかよ、白昼堂々人目のある場所で小学生を誘拐する犯罪者が……。今度は何の用だ、怪盗キッド」
 刺々しく警戒した声音に男は噴き出すようにして笑った。
「いやいや、そんなに警戒すんなって。ちょっとした慰労会だよ。函館では世話んなったな」
「慰労会だぁ……?」
 人を攫ってビルの屋上に放り出しておいて何が慰労なのか。顔を歪めるコナンの様子を面白がるように、キッドは肩を揺らしてなおも愉快げにしている。
「本当だぜ? 礼を言いたかっただけ……ではねーけど。事件を解決した探偵クンをねぎらってやろうと思ってよ」
「いらねー……」
 心底脱力するコナンに「ケケケ」と笑い、キッドは不意にふっと吐息をついて声のトーンを落とした。「ホント、よくやりやがるぜ、名探偵」少し俯き気味で振り向いた横顔は逆光の陰になって見えないが――その口元はゆるく弧を描いているような気がした。
「そのちっせー身体でよ? 翼があるワケでもないのに、毎回毎回……見事に事件を解決して、大事な人をしっかり守っちまうんだから」
 寂しげな微笑みと、静かな声音にコナンはひとつまばたきをした。キザな怪盗にあるまじきその姿、らしくない物言い。キッドはその先を続けなかったが、逆光の中の口元が微かに動いたのは見えた。
 オメーはすげーよ、名探偵。
 そのとき、コナンの脳裏に去来したのは函館で起きた出来事、その情景だった。男の言葉に滲んでいたのは後悔だ。事件を解決して、大事な人を守る。その“理想”を語る言葉に後悔が滲むのなら、キッドにとって今回は“そう”できなかったということで。
 今回の事件で傷を負った人物。怪盗キッドの関係者。大事な人。
 ――幼馴染の男の子の小さい頃に――。
「……あ」
 初めて出会った気のしない、とある少女の声が耳元に響いた気がした。思わず声を漏らしたコナンに、キッドは「探偵?」と訝しげにわずか顔を振り向ける。コナンはしばし沈黙を返し、結局「……なんでもねーよ」と呟くのみだった。
 真実へ繋がりかけた道を、自ら断つ。これは探偵にあるまじき行いなのだろうか。だがこうも思うのだ。“怪盗キッド”として、完膚なきまでの敗北を刻みつけられなければ、この男は決して止まれないのだろうと。
 それだけの、覚悟と信念。幾度か対峙する中で、コナンは彼が胸に抱くそれを感じ取ってしまっていた。
 犯罪は犯罪だ、断じて肯定はできない――それでも。自分にできる、自分にしかできない方法で、白い紳士服に鎧われたその覚悟と信念を暴けるのなら。
「……安心しろ、誰ひとり傷つけさせやしねーよ。オメーの謎にも、それに釣られてやってきた何者にもな」
 そのうえできっちり捕まえてやるから期待しとけ。月下のコソ泥さん?
 ニッと口角を上げてみせれば、男もまた不敵に笑んだようだった。頼もしいこって、とうんざりしたような声音でぼやくが、その言葉尻は愉快げに弾んでいる。
 と、そのとき不意にキッドが眼下に顔を向けた。
「おっと。お迎えが来たみてーだな」
 ビルのへりに駆け寄り、手すりを掴んで地上を見下ろす。ここからでも小学生の集団は目立つ――あれは少年探偵団だ。予備の追跡メガネでコナンの居場所を探し出したらしい。
「なるほど、オメーのハイテクメガネはあの女の子も持ってるってワケね……」
 傍らで立ち上がった男を振り返る、その刹那。素顔が視界に入りかけたとき、鮮やかな白が翻った。
 ――空の半分が夜闇に覆われつつある、夕暮れ。地平線に落ちゆく夕陽は最後の光を放っている。真白い輪郭はほとんどその光の中に溶けていた。
 そんな中、凛と立つ怪盗はシルクハットの下でいつものように不敵に笑ってみせる。
「子どもは帰る時間だぜ? 名探偵」
「オメーが勝手に連れてきたんだろうが!」
「ハハッ。悪かったよ……それじゃ、今度は淡い月の光のもとで――」
 また会おう、名探偵!
 お決まりの文句を告げて、ビルから身を投げるように落下したキッドは中空で翼を広げて飛び去っていった。白い姿は夕陽の中に消え、すぐに見えなくなる。
 コナンはしばしその場に立ち尽くし、それから置き去りにされた装備のもとへ駆け寄った。軽く確認してみるが、壊された形跡も妙なものが取り付けられた形跡もない。
 ない、ものの。連れ去られる前はたしかにあったはずの細かい汚れがすべてなくなっているように見える。綺麗に拭われたのだとしたら、それが意味するところはひとつだけだ。
 念入りに拭わなければならないほど隅々まで、素手で触った――手袋をしていてはやりにくい作業をした可能性がある。
「……改造されてねーか、博士に確認してもらうか……」
 おそらくそんなことはされていない。そう思いつつも口に出して呟く。奴は以前もコナンの装備を手にする機会がありながら、何もせず十全な状態で返したのだ。
 なら残る理由は? 白昼堂々コナンを連れ去り、顔を見られる危険を冒してまで言葉を交わした意味は?
 慰労会。礼を言いたかった。ねぎらってやろうと。……それらの言葉はきっと、半分は嘘で半分は真実だ。そこに、彼の声から滲み出ていた後悔を足せば、自ずと答えは導き出せる。
「……ったく。中身確認したいなら博士に許可取れっつーの」
 怪盗キッドもまた、自作と思しき数々の機械で警察を煙に巻く発明家だ。案外、博士といい勝負をするのかもしれない。
 何やら面白くない気分になりつつ、地平線の向こうへ消えゆく夕陽を一瞥しコナンは踵を返した。地上で仲間たちが待っている。

 失敗をしても、後悔があっても、決してタダでは転ばない。そういうところが――などと。
 この先は絶対に言ってやりはしないのだ。なぜなら自分は探偵で、彼は怪盗キッドなのだから。
 
 
 
 
 
 
 

(コナンくん、背中に何かついてる……キッドさんと会ったの?)

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