陽の庭


 暑さが盛りを迎える頃になれば、庭の一角で揺れる向日葵の群生を見ることが出来る。手を引く相手を見上げる子供のように陽が差す方向へと一心に伸びる姿は、鮮やかな花弁の色と相まってガラスの額縁の中で印象的である。
 もう随分と昔のことになるが、突然退役の一報を入れ実家に戻った弟が、ある朝近所の店で苗を買ってきて——と思えば落ち着くこともなくあっという間に家を出ていったが——、その後は母の適切な手入れによって毎年欠かさずに見ることになった景色であった。サラは広く見渡すことの出来る庭の賑わいを年中気に入ってはいたが、暑くなり始めるとより強く思い起こされる記憶があった。

 あれは夫の最後の一時帰宅だった。未来予知の才はないので最後になると分かっていた訳ではなかったが、そうであってもおかしくないということは、現状を知る誰もが理解していた頃合いであった。まだ幼い子供たちを除いて。
 色んなことを忘れてしまうんだって、と言った夫の手の甲を指先で撫でた感触がもう随分と硬く骨張っていたと、そう記憶している。君や息子たちの夢に必ず現れるという約束も自分は忘れてしまうんだろうか、と葉の隙間から途切れ途切れに陽が差し込む庭に目を遣りながら、彼は続けた。
 病室から出ることがほとんどなくなってからの表情はどれも本来の明るさとは距離のあるものだったが、日々どこか穏やかさが増すようにも見えていたので、サラはその顔に久し振りにはっきりとした悲しみを読み取った。そして自身のつま先から頭のてっぺんまでが、咽せ返るような悲しみで満ち満ちたのを感じた。不安定な日々に追われ続ける慌しさと疲労で目を逸らしていた、沈み込み気道を塞ぐ重い悲しみだった。
 そうしながら同時に、いつまでも自身たちへの思いで苦しむ彼の姿を想像し、それならばいっそ何もかもを忘却の彼方へ置いておいてくれる方が良い、とも思った。半分程開けた窓の隙間から午後の、これからここに辿り着くのであろう雨雲を予感させる風がサラの頬に触れている。握った手のひらの先の視線を追いかけて向けた庭の向日葵たちも、同じ風によってゆらゆらとスローモーションのようにして重い頭を揺らしているのが見えた。
 サラはしばらく風の匂いを吸い込んだ後、包み込んだ手のひらに力を込めて、大丈夫、と静かに声を溢した。あなたが思い出せなくても私達が思っているから、覚えているからそれで良い、と。
 置いていかないで、と脇目も振らず泣き出す寸前の子供のような声を喉の奥で引き留めたまま隣を見つめると、自身と同じ速度で歳を重ねてきた目元がゆっくりと細められていた。どうしても震えてしまいそうになる語尾を丁寧に仕舞って、見慣れた形よりうんと痩せた頬に向けて、サラはニッと口角を上げて笑って見せたのだった。
 湿り気を含んだ風のかたまりが再び庭から部屋を横切って通り過ぎると、真っ直ぐに向けられた瞳を前にした口角も同じ動作でニッと上げられた。揃った表情でじっと目を合わせた二人は数秒そのままでいた後、今度は堪えきれないという仕草で隣同士の肩をくすくすと揺らし合った。
 そのはっきりと記憶に焼きついた束の間の時間のことを、折に触れ鮮黄色が溢れる先に思い出すと、あの時一心不乱に庭を掘り返していた弟の気持ちが理解出来るような気がする。まだ小さな葉が伸びていた初夏の日から変わらず、その数年後の夫との記憶と共に、サラにはその景色は今でも変わらず、美しく揺れる喪失の象徴である。


 昨夜遅くから実家——弟にとっての実家、現在はサラとその子供たちが暮らす家——に帰ってきているサムが、朝から息子たちとがやがや騒がしくしながら家を出て、学校へ送り届けた後そのまま戻り、大袈裟に音を鳴らしながらドアを開け閉めし、キッチンの後片付けをしていた自身の横に何でもないような顔をしながら立ったので、何か話があるのだろうな、とサラは思った。

「話したい?」

 シンクで台拭きを絞りながらのごく自然な振る舞いの途中で尋ねると、彷徨かせていた視線をすぐさま上げた黒目がこちらを射抜いて、ぱっちりと目が合わさる。年々どこか父の面影を濃ゆくしていく眼差しに、いつの間にか自分たちも随分と歳を取ったのだなと思う。おそらく眺めた向こう側からも、同じ感想が返ってくるのだろうが。
 そう考えながら、どうぞ、と促すように顎を引いたサラの前で、慎重に何かを持て余していたらしい唇が努めてはっきりと開かれた。

「結婚する、たぶん」
「ハア?! 誰と? この前別れたばかりじゃない、バッキーと」

 数週間程前に何気なく尋ねた彼のパートナーの話題で、電話口の向こうの口調は分かり易くむっすりと語尾を下げた。そういう類いの事態を聞くのは初めてではなかったのでそう過度に心配はしなかったが、妙なところで思い切りの良い弟がその勢いのまま他の誰かとの結婚に踏み切ると言うのなら、それはあまり手放しに歓迎出来る事柄ではない。二人の息子は“バッキーおじさん”にすでに相当に懐いているし、彼個人の人となりを知るそれなりの付き合いになった手前、寂しい気持ちになるのは自身も同じだった。いや、それはあくまで二人の良好に保たれた関係の上にあることだとは分かっているのだが。

「一体どうしたっていうのよ」
「いや、そのバッキーとだよ。色々あって戻った、それで……今回も一緒に来るかと誘ったんだが、次に行くときは皆の家族として行きたいから、と断られて……まだ正式な話はしてないけど」

 だから帰ったら俺から言ってやろうかと思ってさ、と予想より勢いの良かった対面からの反応に胸の前で挙げられていた手のひらが、そのままサラの肩を包み込むようにして軽く触れた。

「心配かけてすまん」

 諌める手触りと少々の気まずさが見え隠れする眼差しが、もう一度しっかりと肩に留められてから離れる。
 いつだって弟の決断は突然で明確である。それは単に途中の思案の部分を聞く距離に居ないというだけの話ではなく、サム自身の性質によるものだと今は理解している。これからも多くの時間と選択を共有することになるだろうバッキーの苦労を思ったが、慣れなきゃやってられない、サラもだろ? とやや戯けた表情を作って肩をすくめる彼の姿も、同時に想像することが出来た。
 なんであれ、自身に届くのは唐突なタイミングばかりだ。今回も、“ファルコン”や“キャプテン・アメリカ”としての活動も、ブリップから戻り船をどうするかの相談の時も、D.C.に行きカウンセラーとして働くことも、退役も、それを知らせる電話だってそうだった。朝起きてふと庭に目を遣った先の、決して風に揺らされることなく立っていた物言わぬ背中も。

「バッキーとなら反対する訳ない、仲直りしたなら良かったよ、…………あんたは結婚しないものかと」
「俺も思ってたよ、つい何日か前までな」
「……覚えてる? 昔、結婚しないのかって聞いた時のこと」

 瞬間的に片眉を吊り上げた瞼は、その続きを待っているようにして動きを止めた。サラの脳裏に思い起こされた記憶は、久しぶりの帰省の度に怪我が増え、話せないことも多くなってきた頃のことで、心ここに在らずにも見える弟に尋ねた質問の語気は、決して世間話的な軽さではなかったと思う。家庭を持つことが何かの枷になってくれるかもしれない、と漠然と感じた不安ゆえの問いかけだった。
 しかしそんなこちらの心配もどこ吹く風で、サムは初めて見せる至極穏やかな笑みを湛えていたと記憶している。すごい奴がいるんだよ、信じられないくらい変な奴。

「“そいつがいる限りは俺もそこにいたい”って」
「…………覚えてるよ。そしたら姉貴は、“じゃあその子と結婚してもいいんじゃない?”と」
「ウッソ呆れた、デリカシーないわね」

 今度は覚えていなかった自身の返答に勢い良く息を吐き出すと、すぐさまサムの口の端は楽しそうに歪んだ。

「いや、俺はその手もあったかと思ったんだよ。一緒にいる理由になるなら、それでも良いかって」

 まああいつはそういうの全然向いてないタイプだったけど、と続けた下瞼が心底可笑しそうに緩んだので、サラの唇もそれにつられて綻んだ。記憶の中に居るあの子は確かに、全然向いていなさそう、ではある。こちらに向けられるくしゃりとした人懐っこい笑顔を久し振りに瞼の裏に思い浮かべながら、上げたままの口角を開いた。

「懐かしいね、休暇の度にそのまま一緒に帰って来て……、あんたたち本当に仲が良かった」

 語尾の最後のゆっくりとした音が二人の間に落ちた一瞬後、こちらを覗き込むようにしていた視線が外され、ふきあげたシンクの端をわずかにたどったのが見えた。これまでも返ってくる小さな動作によって喉が塞がれてしまうことは幾たびかあったが、サラは今度はそのまま真っ直ぐに音を投げ掛けた。

「でもサム、あんた、あの子の話をしなくなった」

 自身の声が思っているよりも澄んで、キッチンに響いているのが聞こえている。この時間帯はいつもなら家の前の通りの賑わいがここまで届くものだが、今朝は少々強い風でどこかまで吹き飛ばされているようだった。聞こえてくるのは、庭で揺れる木々の葉が擦れ合うざあざあという音ばかりである。

「あんたはしっかりしてるし自分で対処法も知ってるから、余計な心配だって分かってる。だから言ってこなかったけど……、」
「あいつが拾ってきて、『レッドウイング』と名付けた子犬が死んだんだ」

 唐突に眼下に差し出された響きに、言いかけた言葉の冒頭の形のままサラの唇は動きを止め、その後にそっと音を立てずに閉じられた。その響きがこれから何を語ろうとしているのか、理解した為だった。

「最初から弱ってたし小さ過ぎたから、俺はあんまり期待が持てなかった。だから構いすぎるなよって…………、言って……それで、何日かは持ったけど、駄目だった」

 隣でサムの手のひらがおもむろにシンクに掛けられ少しだけ体重を乗せたが、すぐにその指先から力を抜いた。触れたステンレスの冷たさを確かめながらとんとんと打ち付け、すうと横に滑らせる動きを数度繰り返し、まるでそこからのみ今から発そうとする言葉が見つかるかのようにゆっくりと往復させる。

「あいつが助けた新兵も数時間後に死んだ。元気そうに見えたが、容態が急変して……次の日の朝に一緒に聞いたな。…………爆発に巻き込まれた民間人の手を握って…………、もう行くぞって引き摺って行った、………………なんで死んだんだろうと言ってたよ、本当に不思議そうに」

 毎日そうだった。その繰り返しで、これがいつまで続くのか、いつからか考えるのは止めた。それが仕事で、日常だったんだ。
 弟の仕事の話を聞く機会は今までも多くはなかったので、サラの鼓膜にはどこか新鮮な感触で届いていた。話せないことが多くあると知っていたし、そう話したいことばかりの職務でもないと分かっている。それがどんなものであれ。時間の経過と共に遠くなり、自身の内の深くに仕舞っている日々のこととなれば尚更だった。
 それを今、サムはまるでつい昨日のことのような手触りで、姉の前で訥々と言葉にしている。

「俺は、……正直イラついてたよ、いつまでもそんなに“ちゃんと”傷ついてたらやっていけないだろうって…………。俺たちは無事に帰って…………帰って、生きていかなくちゃいけないんだって…………、でも違った」

 肩を並べた隣から、小さく鋭く、一呼吸分だけの息を呑み込んだ音が聞こえる。

「違ったんだよ、サラ。あいつ、もう戻って来られなかった」

 ぽつりと、しかし一字一句明瞭な発音でサムは姉の名前を呼んだ。そうしないとその後の言葉を続けられない、とでもいうかのような切実さで。耳を澄ませているサラには、徐々に細まっていく気道からどうにか這い登ろうとする息遣いがはっきりと聞こえてくるようだった。

「本当は皆、限界だったんだ、でも……それが分かるのはもっとずっと後になってからの…………、全部が元には戻らなくなってからのことだったんだよ」

 びょうびょうと音を立てながら窓から風が吹き込み、二人の間をすり抜けていく。照り返す暑さはまだ遠く、夜になれば肌寒ささえ感じるそれも、また必ず夏を連れて来る。花弁が大袈裟に見える程高らかに開かれるあの季節は、どんなことがあっても繰り返しここに訪れる。
 十数年前に焼きついた痛みが消えない傷跡となって存在することを、耐え難いと思ったことはなかった。生涯離さずに大事に抱えていく記憶が、これまでの自身の足場を支えて来たのだと思っている。しかし、手放そうと望むことさえ出来ない悲しみの重力を、いつも決して忘れられずにいるのも本当だった。

「サム、ライリーのこと、辛かったね、…………よく頑張ったね。もっと早く、あんたとライリーの話をすれば良かった」

 シンクの縁を握り締める訳でもなく置かれていた手の甲の上に、自身の手のひらを重ね指を丁寧に折りたたむ。鼓動の早さと呼応して汗ばんでいることは分かっていたが、それを取り繕う関係性でもなかった。視線の先にいるのはかけがえのない家族であり、埋まることのない喪失を抱えたまま生きている弟である。

「あの子は大丈夫、もう大丈夫だから」

 大丈夫、と文字通りの意味で言ったことなど、サラにはずっとなかったような気がしている。これだって、わずかにでもサムがそう信じられるように、という祈りに似た頼りない何かである。喜びも悲しみもすでにこちらの領分で、彼らには関係がなくなってしまったものであり、それで良いその方が良い、と唱える自身の姿が、隣で俯く弟の姿に重なって見えた。

「あいつここが好きだった、いつも、楽しそうにしてたろ? ……サラのことも……母さんと父さんのことも、海もこの家も、好きだって…………、ライリーは、ここを本当に気に入ってた………………」

 並べた肩から、それ以上の言葉は続かなかった。押さえ込んだ嗚咽は徐々に引き絞る力を失くし、音もなくしゃくりを上げるのに合わせて震える背中を、サラは大きく腕を広げて抱き寄せた。遥か昔に追い越された身幅が、華奢であんなに小さかったはずの弟の面影を確かに残し、ぎこちない動きのまま詰め込まれるようにして胸に収まる。
 細い呼吸音と緊張で熱を持った首筋を力を込めて引き寄せながら、あの時もこうしてやれば良かった、とサラは思っていた。あの朝何も言わずに庭に佇んでいた弟を、助けの求め方も分からず立ち尽くしていた弟をこうして抱き寄せてやれば良かった。今となっては意味のない寂しさと虚しさが、こめかみの奥に幾重にも膜を張る。
 そうしながら考えていた。あの時この庭で、あなたに言わなければならないことがあったのだろうか。笑って見せるだけでなく、もっと他に。あなたが少しでも楽になった方法が。私が、楽になった方法が。もしかしたら、あったのだろうか。
 サラは両腕を回した弟の肩越しに、また夏が巡ればそこで陽を見上げる向日葵が伸びる辺りを見つめていた。もうきっと全てを忘れてしまっている彼らのことを思い出しながら、この先も変わらずにそこで全てを記憶していくのだろう、真っ直ぐと立ち静かに揺れる姿を、視線の先に浮かび上がらせていた。

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