3-2 花に風

 仁美里は、自分を拒む鳳子の瞳の奥に、かつての自分を見つけていた。そこには、かつての自分が抱えていた孤独や恐怖、そして救われたいという願いが潜んでいるように感じられた。それは、自分自身を思い出させる何かだった。

「言いなさいよ。ひどいこと、するわよ」

 仁美里は鳳子の肩を強く掴み、彼女の目を見据えて圧力をかけた。爪が食い込んで、鳳子は一瞬だけ顔を歪めた。その痛みの表情を見て、仁美里の胸には自己嫌悪が込み上げた。本当は、もっと鳳子に優しく接したかった。柔らかい声で、微笑みながら、彼女に語りかけたかった。

 だが、仁美里は愛情を知らず、優しさを知らない。これまで他人を拒絶し続けてきた仁美里には、他人に優しさを向ける術がなかった。むしろ、恐怖を与えることで支配しようとしている自分が、かつて自分に支配を強いてきた男たちと同じことをしていると感じた。それは皮肉であり、そして嫌悪すべき事実だった。

 しかし、その自責の念はすぐに消え去った。鳳子が仄暗い瞳で、仁美里を強く睨みつけたからだ。その視線には、彼女を拒絶する意志がはっきりと浮かんでいた。

「何よ、その目……!」

 今までの鳳子からは考えられない、まるで別人のようなその視線に、仁美里は一瞬だけ怯んだ。鳳子は無言で、ただ仁美里を睨み続ける。それは、もう対話の意思など無いのだと告げているかのようだった。

 しかし、仁美里は理解していた。鳳子の拒絶を、そのまま受け入れてはいけない。なぜなら、彼女もまた、自分と同じだと確信していたからだ。孤独の中で誰かに救いを求めている――その感情を、仁美里は見逃すことができなかった。

 仁美里は鳳子の肩を掴んだ手に少しだけ力を込めた。その指先に、自分の決意を込めて、彼女を強く引き寄せるようにした。どんなに拒まれても、どんなに冷たくされても、今度は自分が、そしてもう二度と鳳子を見捨てないと心に誓っていた。

「黙ってないで、何か言いなさいよ!」

 仁美里の手のひらが、鳳子の頬を強く打つ。その衝撃で、鳳子はふわりと舞う花びらに包まれ、近くに咲いていた花々の中へと倒れ込んだ。春の日差しが柔らかく照らす中で、花弁が空気に溶け込むように舞い降り、まるで彼女を優しく抱きしめているかのようだった。

 仁美里はその光景を見下ろし、冷たく言葉を投げかけた。

「あなたが悪いのよ」

 その言葉とは裏腹に、仁美里の心の奥底では鳳子が反応してくれることを切実に願っていた。何か言葉を発してくれさえすれば、この追い詰めるような仕打ちを辞めさせる口実ができる。鳳子が「ごめんなさい」と言って、すべてを話してくれれば――。

「これ以上痛い思いをしたくなかったら、さっさと何があったか言って――」

 仁美里が言葉を続けようとしたその瞬間、彼女の視界が突然舞い上がる花びらで覆われた。鳳子が無造作に手に掴んだ花を、思い切り仁美里に投げつけたのだ。

 仁美里は一瞬驚き、言葉を失った。宙を舞う花びらの間から、突然鳳子が勢いよく飛びかかってきた。

「ふうこは、悪くないもん!!!」

 鳳子の力に押され、仁美里は後ろに倒れ込む。目の前には、いつの間にか瞳に光を宿した鳳子が、髪を振り乱しながら怒りに満ちた表情で仁美里を睨みつけていた。その顔には抑えきれない感情が滲み出ていて、仁美里は自分の声がついに届いたかのように感じ、一瞬だけ微笑んだ。

「どうして放っておいてくれないの!? ふうこが学校で!!村の中でいじめられているときは、知らんぷりするくせに!!」

 鳳子は激情しながら叫んだ。その叫びに対して、仁美里は冷ややかに返す。

「あら、助けて欲しかったの? じゃあちゃんと言葉にしないとダメじゃない」

 嘲笑うような言葉に、鳳子は言葉を詰まらせた。

「ぐ………っ…………うぅ……!」

 彼女は悔しさを滲ませながら、言葉を探しているようだった。いつも笑ってばかりの自分が、何も言わず、助けを求めずに、ただ村の人たちの仕打ちを受けてきた。そのことが今、仁美里の言葉によって突きつけられ、論破されたような感覚に陥っていた。

「ほら、言わなきゃ分からないわ。帰ってきてたんでしょう、あなたのママ。何があったの?」

 仁美里の問いかけは冷静で鋭い。

 だがその瞬間、鳳子の表情が一変した。彼女の瞳には再び光が消え、瞳孔が広がり、表情は怒りから恐怖へと変わっていく。

「やだ!! やめて!! 放っておいて!!!!」

 鳳子は絶叫に近い声を上げ、身を震わせながら激しく取り乱した。その様子に仁美里は言葉を飲み込み、冷静に観察する。鳳子の恐怖に染まった目は、今までとは全く異なる色をしていた。

(――あなたの傷は、ママなのね)

 仁美里は直感的に理解した。鳳子の心の中で、宵子が何か恐ろしい傷を残したのだと。だがその一瞬の確信の間に、鳳子は突然立ち上がり、何も言わずに森の奥へと走り出した。

「だめ、待って!! そっちは――」

 仁美里は立ち上がり、すぐさま彼女の後を追う。森の奥へと駆け込む鳳子の姿が、まるで暗闇に溶け込むように消えかけるのを見て、嫌な汗が背中に流れた。
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