3-3 黄昏に芽吹く

 鳳子は行く先も分からぬまま、森の奥へと一直線に向かっていく。必死に逃げたいという思いだけが彼女を突き動かしていた。森は暗く、冷たく、どこまでも続くかのように錯覚させたが、彼女は無我夢中で進んでいった。枝葉が頬をかすめ、草木が足元に絡みついても、それを払いのけながら彼女は突き進んだ。

 やがて、鳳子の目に飛び込んできたのは、苔むした古びた祠だった。それは、村で秘密裏に行われる儀式の最終地点。巫女たちが命を捧げるための神聖でありながら、誰もが恐れる場所だった。村の誰もが近づくことを禁じられ、巫女だけがその運命を果たすために訪れる場所であった。

 鳳子は、何も知らずにその祠へと歩みを進めた。何かに引き寄せられるかのように、無意識に祠の裏手にある洞窟のような開口部へと足を運んだ。

 そこに足を踏み入れると、彼女の目の前に広がっていたのは、無数の亡骸だった。歴代の巫女たちが命を捧げた後、そのまま放置され、積み重なっていった無惨な姿がそこにはあった。骨が剥き出しになった者、朽ち果てた肉がこびりついた者、まだかすかにその形を保っている者まで、その全てが一塊となって横たわっていた。

「――――やっ……ぁ……!」

 鳳子はその光景に驚愕し、声を上げることすらできず、ただその場に崩れ落ちた。目の前に広がる現実が信じられず、恐怖が彼女を包み込み、全身が震え、膝から力が抜けてしまった。

 すぐに後を追ってきた仁美里は、鳳子を見失うことなくその祠の裏手にたどり着いた。彼女は祠の奥で、怯える鳳子の姿を見つけ、すぐにその側に駆け寄った。

「に、仁美里ちゃん……! 仁美里ちゃん……!」

 涙を浮かべ、震えた声で鳳子は仁美里の名を繰り返した。

「大丈夫よ、ふうこ。こっちにきて」

 仁美里は鳳子の震える肩を抱き寄せ、優しく声をかけた。その声は静かでありながら、揺るぎない決意が込められていた。彼女もまた、運命を背負わされた者であり、自分の末路を知っていた。自分自身が逃れられぬ運命に囚われながらも、鳳子をこの恐怖から少しでも守ろうとするように、仁美里は彼女をそっと抱き寄せ、寄り添った。

 鳳子は、その温もりに少しだけ安堵の息を漏らし、恐怖の中で唯一の光を見つけたかのように、仁美里にしがみついていた。



 日が傾き、夕暮れの柔らかなオレンジの光が森の中を包み始める頃、二人は無数の亡骸を前にして寄り添い、肩をくっつけて静かに座っていた。風が吹くたびに、葉のざわめきが遠くで響き渡り、森はまるで一時的にその荒々しさを忘れたかのように、二人を優しく包み込んでいた。

「仁美里ちゃん……」

 かすれた声で鳳子が呟いた。長い沈黙を破るかのように、その言葉が彼女の口から零れ落ちた。それは合図だった。

「……落ち着いた?」

 仁美里が静かに問いかける。鳳子は無言のまま、小さく頷いた。二人はずっと無言の時間を過ごしていた。その静寂は、互いの心に溜まっていた葛藤と苦しみを解きほぐすための大切な時間だった。

 彼女たちは、互いの心の中にある鍵を開くその瞬間をずっと待っていた。無理矢理踏み込むのではなく、その時が自然に訪れるまで、ただじっと耐えていた。心にかかった鎖は、幾重にも複雑に絡まり合っていた。解き方は分かっているのに、それを誰かに触れさせることが怖くて、無理やり閉ざしていた。

 鎖を解くためには慎重さが必要だった。少しでも強引に引っ張れば、二人はもう一度深い傷を負い、二度と癒えることはないかもしれなかった。だからこそ、二人には時間が必要だった。

 今、彼女たちはやっとその鎖を生身にし、互いに向き合う覚悟を決めた。

「……もっと早く、あなたに話すべきだったわね」

 仁美里はふっと息をつくようにして、優しく鳳子に語りかけた。

「この擬羽村にはね、古くから語り継がれる伝説があるの――」

 その言葉に、鳳子はじっと耳を傾けた。仁美里が話し始めたのだから、決してそれを遮ってはいけない――鳳子はそう感じていた。彼女が初めて自分に言葉を与えてくれるこの瞬間を、大切にしようと沈黙を守った。

 ――古くから語り継がれる伝説。それは村を災厄から守る神、擬蟲神にまつわるものだ。村人たちは、擬蟲神が人々の不幸や災難を引き受け、その苦しみを神の領域に閉じ込めることで、村を守っていると信じてきた。

 この神を永らえさせるためには、新たな「巫女」を神に捧げる儀式が不可欠とされていた。巫女は神と村人を繋ぐ唯一の存在であり、その命を捧げることで擬蟲神の力が保たれるのだと伝えられていた。村人たちは、巫女が自らの命で村を災厄から守ると信じ、深く感謝の念を抱いていた。

 ただし、巫女として選ばれるのは、ある特別な条件を満たす者に限られていた。それは、「魂を分かつ子供」、すなわち双子や三つ子といった多胎児だった。村の言い伝えによれば、神と同化するためには魂が不完全であることが必要だとされていたのだ。多胎児は、一つの魂が分かれて生まれた存在であり、その「不完全な魂」が神との融合に適していると考えられていた。そして、その中から一人が巫女として選ばれ、運命的に神へと捧げられることが定められていた。

「この村に四つ子として生まれ、巫女に選ばれたのが私。……姉妹たちは生まれてすぐ、どこかへ養子に出されたと聞いたわ」

 仁美里は、目の前に広がる亡骸の海をじっと見つめながら、低く呟いた。この村には、法の外に存在する独自の秩序がある。そして彼女は、かつて巫女に選ばれなかった子供たちは殺処分されていたという残酷な歴史を知っていた。

「巫女になるには、ただ選ばれるだけじゃダメなの。幼い頃から特別な教育を受け、神に捧げられるその日まで、あらゆる苦難を耐え抜かなければならないの。苦痛を超えた先に、神の寵愛を受けて全てが報われる日が来ると教えられてきたわ。それを信じて、私は生きてきたの」

 亡骸を見つめる仁美里の瞳には、覚悟と決意が宿っていた。その姿に、鳳子は心の奥に小さな疑念を抱いた。彼女にとって、神や信仰は馴染みのないものだった。だから、仁美里が神に運命を捧げようとする姿を、すぐには理解できなかった。

「仁美里ちゃんは……いなくなっちゃうの?」

 鳳子は恐る恐る問いかけた。難しいことはわからないが、最も不安だったのは、仁美里がいずれ神に捧げられるということの意味だった。もしも目の前にある亡骸が、仁美里の未来そのものだとしたら、彼女はいずれ死んでしまうのだろうか。鳳子はその疑念を否定して欲しくて、縋るように仁美里を見つめた。

「人間じゃなくなるだけよ。私は、かみさまになるの」

 仁美里は無垢な笑みを浮かべ、軽やかに答えた。その瞳は希望に満ちていて、年相応の無邪気さがあった。そんな仁美里の笑顔に、鳳子は思わず心惹かれながらも、どこかで言いようのない不安を感じていた。

 その時、仁美里は静かに立ち上がり、両腕を広げ、まるで舞を踊るように体を揺らした。

「私ね、かみさまになったら、誰ももう苦しまないように、巫女を捧げる時代を終わらせるの。今はまだ人間だから、どうすればいいか分からないけど、かみさまになったらきっと、何だって出来る――」

 柔らかな表情で語る仁美里の言葉には、彼女の真の姿があった。かつては、人間として生きられないことを嘆き、絶望の中で他人を拒絶し、時には傷つけることもあった。しかしその心の奥底では、誰よりも村の人々を愛したいと願っていた。自分が人間のままでは、誰も愛せず、誰からも愛されない。だから、神様になって全てを愛し、全てを清算し、全てを救いたい――そう本気で信じていたのだ。
次へ

powered by 小説執筆ツール「arei」