虹の向こう側には-1

 夜明けの空に厚い雲が立ち込めている。城の最上階には魔界の王族のひとり息子が部屋を与えられ、窓越しに空を見上げている。
 魔界の王子ことアシュラマンは、この日初めて両親や使用人たちに無断で外出しようとしていた。同じ悪魔超人である砂の大男、サンシャインが連れ出してくれると約束したのだ。そろそろ迎えの時間のはずと窓に近寄っていた。
 時間どおりに来るだろうか。怖気付いて逃げ出さないだろうか。あるいは早々に番兵に見つかって、捕縛されているかもしれない。もっとも、そんな間抜けなら、最初から相手にしない。

「ひとりで街に出たことがないんだって?」
「あぁ。しかたないだろう、常に従者が付きっきりだし、危険だからと遠ざけられているんだ」
「ふーん……年頃のおぼっちゃまなのになぁ。……よし! オレが連れてってやるよ」
「ど、どういうことだ」
「明日の明け方に窓の外見てくれ。迎えに行く」

 そんな軽い口約束だったが、アシュラマンの胸は高鳴った。未知の街並みが楽しみなばかりでなく、知り合って間もない自分と同じ悪魔超人の強豪として鳴るサンシャインが、どれほどの男なのか、興味があった。
 帰宅後、アシュラマンは入浴を済ませるとすぐに仮眠をとった。迎えに来るという夜明けに備えるためだ。気まぐれで部屋で食事を摂ることもある息子の行動に、両親はあやしむこともなかった。使用人が風呂上がりに用意している香油入りのボディミルクを、我知らず多めに塗り込んでいた。

 そして窓の外が白んできた。アシュラマンが重い窓ガラスに手を掛けると、そこには黄金色の砂が煙のように舞い上がっている。
「サンシャイン……?」
「来たぜ、おぼっちゃま。デートの時間だ」
「その呼び方はよせ。お前は従者ではないだろう」
「グォフォフォ、悪かったな。行くぜ、アシュラマン。オレの手に乗れ」
 金色の砂が四角く固まり、サンシャインの姿を現す。差し出された大きな手のひらにつかまるアシュラマンを、もう片方の手で支え軽々と持ち上げ、手の上に納めた。
「つかまってろよ」
 腕だけを残し、サンシャインは再び砂嵐の形となって朝日の中を飛行し始めた。
 見下ろす下界には活動を始めた人々がまばらに見えている。
「あれは何だ?」
 男がテントを張っているのを指差す。サンシャインはゆっくりと飛行を止め、徐々に高度を落としていった。
「ドーナツの店だな。朝飯にするか?」
「する!」
 ドーナツが食べたいと言えば、城の料理番が最高級の材料で拵えて銀の食器で供されてきた。そんなアシュラマンには路傍の屋台での買い食いは初めての経験だった。
「ごめんよ、もう開いてるかい」
 サンシャインが背中を曲げてテントを覗き込むと店主は元気よく「はい!」と答えた。
「じゃあこのシュガーグレイズドふたつと、ココナッツと……」
「お、……おぼっちゃま……!?」
 注文をし始めたサンシャインの後ろからひょこ、と顔を出したアシュラマンに気付き、店主は声を上擦らせた。
「あの、こちらへどうぞおぼっちゃま! お座りください。どれでもお好きなものを……もちろんお代はいただきませんので……」
 アシュラマンはすすめられるまま簡素な椅子に腰掛け、態度を急変させた店主を訝しげに見た。
「私も金なら持っているぞ。いくらだ?」
「ヒッ、そ、そんな……」
「おいおい、無粋なこと言うなよ。でもそうだな……ここはオレが『立て替えといてやる』よ。それでいいな?」
 サンシャインの有無を言わさぬ交渉に店主は頷くばかりだった。
「行くぞ、アシュラ。歩きながら食おう」
「おう!」
 当然、街を行く者にアシュラマンを知らぬ者はない。中には不躾にカメラを向ける者もいた。公式行事で人前に出て撮影されることに慣れているアシュラマンは、特に警戒もせず微笑みを返した。だが今は護衛もなく、傍には新人レスラーである砂男のみ。ほどなくしてSNSには「プリンスが謎の大男と城下町で散策中」と写真付きの投稿が駆け巡った。
 噂を聞きつけ、王子を一目見ようと人が集まってくる。このままでは城の護衛が連れ戻しに来るのも時間の問題だ。
「まだ朝早いからいいかと思ったけど、甘かったな……」
「どうする……?」
 街歩きを始めて一時間ほどしか経っていないのに、人だかりに囲まれ動くのもままならなくなってしまった。
「お前、人間界って行ったことあるか?」
「ないが……まさか」
「連れてってやるよ。そら」
 サンシャインは体を砂に変え、アシュラマンの周りを取り囲むように広がった。周囲が騒然とする中、アシュラマンの姿は砂柱の中に消え、その砂も大気に溶け込むように見えなくなった。

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