忘れられた地にて

さらさらと囁く枝葉の擦れる音。はらはらと落ちる朱色や黄色の葉。暖かささえ感じさせる葉の色はしかし、肌寒さを感じさせる風を以て季節を知らせていた。

「‥‥‥‥」

何処とも知れない、山中の奥も奥。寂れた、古い神社の境内を、巫女服に身を包んだ一人の少女が掃いていた。

「‥‥はぁ」

小さくため息をつき、鳥居と此処に至るまでの石段をちらと見る。所々が欠け、シダまで生えた石造りの鳥居と、苔むした石段は、人が足を運ばなくなって久しい事を物語っていた。

その内、掃き掃除を終えた少女は竹箒を片付け、銀色の毛を湛えた、狐の耳と尾を揺らしながら広い境内を歩く。

「退屈じゃ」

社の一角に設けられた縁側に座り、ぽつりと独りごちる。何を視るわけでもなく、紺碧の瞳はただ背の高い|白銀葦《シロガネヨシ》の花を映していた。自らの名、“|葭《よし》”を冠する白い花穂だ。白銀葦はそよ風に揺られ、名に恥じぬ立派な尾を静かに振っていた。

「茶でも、飲むか‥‥」

徐に立ち上がり、境内の広さに恥じない程大きな社の中へ入る。そこには、一通りの居住空間も備えており、当然、台所もある。
しかし葭の向かった先には、あまりに場違いな、“現代的なキッチン”と呼ぶべき部屋だった。電気やガス、水道が如何にしてこの山奥に通っているかはともかく、事実このキッチンはその役目を果たせている。実の所、葭自身、何故機能しているかは分かっていない。間違いなくここが建てられた当初からあるものでは無かったが、葭の知る間に出来たものでもなかったからだ。

この場において明らかに異質なそれだが、便利であることには変わらない。慣れた手つきで湯を沸かす。
幼い背丈の葭にとっては全体的に背の高い空間だが、用意されていた踏み台で何とか解決している。

「む、茶葉が|無《の》うなったか」

急須に茶葉を入れ、芳ばしい香りの残る空き容器を置く。容器には“玄米茶”と書かれたラベルが貼られていた。

「|彼奴《あやつ》め‥‥何処をほっつき歩いておるのじゃ?」

棘のある言葉を洩らしつつ、暫し待つ。頃合いを見て、湯呑に茶を淹れる。若葉色の透明な茶が、香り高い湯気を立てていた。

「うむ、好い出来じゃ」

嬉しそうに尻尾を揺らしながら、盆に急須と湯呑を載せて運ぶ。廊下に出ると、幾つかの白い毛玉のような何かが鳴きながら跳ね回っていた。彼女はそれを気にすることも無く歩を進め、再び縁側に着くと盆を下ろし、ゆっくりと腰掛けた。

一口啜り、ほうとため息を零す。そして再び、何を視るでもなく、外を眺めて──ふと、足元に何かが居ることに気づく。それは廊下でも見た、白い毛玉のような何かであった。

「のう、お主らの主人じゃぞ?何処でぶらついておるか知らぬのか?」

──?

白い毛玉が、小さくつぶらな赤い瞳で見つめつつ、首──それが何処にあるのかは不明であるが──を傾げるような所作を見せる。

「知らぬよの‥‥まぁ良い、何れ帰って来るじゃろ‥‥」

湯呑みを盆に置き、足元の毛玉を拾い上げる。ふわふわした毛に覆われたそれは、一見すれば兎を思わせる、大きくも長い、丸みのある耳と思しき部位を持ち、丸い尻尾に赤い瞳のある、極めて人畜無害な見た目をしていた。
その毛玉を掌に乗せ、好き放題にこねくり回してみる。
その触り心地たるや、不思議を通り越して不気味と思わせるもので、どうやら骨らしき固い部位は見当たらない。明らかにこの世の生物でないことには間違いなかった。

「お主らも苦労するじゃろう?いや、そもそもそういった感情をお主らが持ち合わせておるかは知らぬが‥‥」

──ウサチャン!

人の言葉のような鳴き声を上げる。これしか言わぬ以上、これが彼らの鳴き声なのだろう。

そっと、こねくり回していた毛玉の生物を下ろす。楽しそうに跳ねたかと思うと、葭の周りにいた他の仲間と共に外へと跳ねていった。広い境内をめいっぱいに跳ね回る彼らを眺める葭は、どこか安らいだ顔を見せていた。

茶を愉しみながら眺めているだけでも案外、時が経つのは早い。空高く昇っていた日もやがて傾きを見せ、空はほんのりと赤みを帯びていた。

「‥‥夕餉の準備をせねばの」

盆を持ち、立ち上がる。廊下に居た毛玉は居なくなっていた。おそらくは外で跳ね回っているのだろう。
キッチンの流し台に盆を置き、茶を淹れた時に置いていた容器も併せて、湯呑、急須を洗う。
水切り台にそれぞれ掛け、一息つくと、隅に置いてある箱にあったエプロンを身につける。

「全く‥‥いつ帰ってくるかぐらい、書置きでも残せばよかろうに‥‥」

ブツブツとぼやきながら手早く調理を進める。

「‥‥はぁ。作っておいてやるかの‥‥」

(‥‥余れば、明日にでも食べてしまえば良かろう)

呆れるほどの日々、これを繰り返している。
しかし葭自身、この時間を受け入れていた。

退屈なのは事実だ。ここには娯楽と呼べそうなものはほぼ、無い。
無論、大きい納屋には、好事家が飛びつきそうな骨董品も、かつて人の残したであろう、出自の分からない文献も山ほどある。

ただ、それらで暇を潰すには時が経ちすぎたのだ。今や納屋にあるものは、忽然と消えたり、ひとりでに動かない限りは詳細な位置まで言える。

何時頃からか始めた料理も、当初は"何も無い時間"を彩るための口実、人の真似事をしているに過ぎなかった。尤も、今はそれそのものを楽しんでいる節があるが。

「‥‥ん」

縁側にいた時に感じたような、足元の小さな気配。調理の手を止め、その気配へ視線を落とすと、先程まで境内で遊んでいたのであろう白い毛玉がこちらをじっと見上げていた。

「これ、ここには入るなと言うたであろう」

──ウサチャン!

「全く、聞いておるのか?」

──ウサチャン!

葭の言葉が分からないのか無視しているのか、纏わり付く様に跳ね回っている。
彼女はこの毛玉の行動に心当たりがあった。

「‥‥何じゃ、何か伝えたいのか?」

決まって、この会話のできない毛玉は事ある毎に彼女の周りで跳ね回る。それは、遊んで欲しいか、"何か"があるかのどちらか──特に、たった1匹でそうしている時は後者が殆どだ。

調理を中断し、火元を見てからエプロンを脱ぐ。
几帳面に畳んでから元の場所に直す。その直後か、毛玉はさっさとキッチンを出てしまった。

「待て、そう急かすでない!」

慌てて後を追う葭を待たず、あっという間に外へ出る毛玉。葭が黒塗りの草履を履いて境内へ出る頃には敷地の外、薄暗い山の中へと向かっていた。

「一体、何だと言うのじゃ‥‥?」

茜色の差す空の下、遊んでいた毛玉たちは1匹たりとも居ない。
閑散とした空間を、色付いた木々がはらはらと葉を落としているのみだった。

葭は、不審感を急激に募らせていた。

普段何も考えていなさそうな毛玉たちだが、話も通じないような野蛮な生物ではない。
むしろ、先のように知能の高い行動を度々見せ、こちらの言葉も恐らくは殆ど理解しているような、高度な存在だ。

「‥‥」

只事ではないことを察し、片手を懐へ忍ばせながら何かを小さく呟いて毛玉が向かった方へ歩を進める。やがて森へ足を踏み入れると、数十は居る毛玉達がズラリと並び、ある一点を見つめていた。

「‥‥その先に、何か居るのか」

落ち葉の上、不気味な程に音もなくそこへ向かう。

「!」

やがて、ある大木の下にたどり着く。確かに、そこには"何か"があった。

最初、葭に伝えに来ていた毛玉であろうそれが、"何か"の周りを鳴きながら跳ね回っている。

──ウサチャン!

葭を見つけるや否やぱったりと鳴き止み、彼女のもとへ戻ってくる毛玉。それに構わず"何か"へと向かう。
掛かった落ち葉を払い、その正体を顕にした。

「‥‥!な、何と‥‥!」

それは、倒れた人間であった。

「何故、斯様な‥‥」

明らかに大の大人ではない、男児だ。
しかし周囲に大人の姿も、気配もない。

「‥‥生きてはおるが‥‥」

目の前の男児は、未だ息がある。しかしどう見ても衰弱しており、頬もやや窶れて見える。

「‥‥」

ある葛藤が、今取ろうとしている行動の邪魔をしている。

(もう、人には関わらぬと決めた筈じゃ)

どのような事情であれ、妖である自身が、人の生き死にに関わる道理はない。あの時、そう決めたのだ。
しかし同時に、目の前で、まさに消えんとする灯火を吹き消す道理もない。

今この時、確かにそう感じていた。

いつの間にか、葭の周囲には多くの毛玉が集まり、その全てが彼女を見上げていた。

「‥‥妾に、どうせよと言うのじゃ」

誰に答えられることもない問いは、橙色を帯びた森へ吸い込まれる。足元の視線は、少しも動かない。

「‥‥」

今や生殺与奪の行く手は彼女にあった。永遠とも感じた、ほんの数秒。
彼女しか知り得ぬ葛藤、決の着かない考えを他所に、無意識に口を開いた。

「此奴を、連れて行け。布団も敷いてやるのじゃ」

途端に、止まった時が動き始めたかの如く、毛玉達が男児へ群がる。それらが男児の下へ潜り込むと、如何にしてか滑るように葭の横を通り過ぎていった。

「‥‥あぁ」

やってしまった、と言わんばかりの声を漏らす。

「何時かは、こうなるかと思うたが‥‥」

言い訳のように吐き捨て、とぼとぼと、落ち葉を踏む軽い音とともに社へ帰っていった。
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