嘗て止めていた"時"

社へ戻った葭は、中断していた調理を再び進めていた。

「‥‥はぁ」

程近くで倒れていた男児を社へ運ばせた後、一通りの介抱を済ませて今に至る。
現状、直ちに命に関わる事態には陥っていなかったものの、あのまま放置すれば長くない命であった事も違いない。

この行動は、葭に重いため息をつかせるには十分なものだった。

嘗て自らが犯した、遠い過ちの記憶。そこから数百の年を数えても尚、拭いきれない汚れのように、彼女の心に居座っていた。

「‥‥いや」

今はとにかく、野垂れ死なせる訳にもいかない。
本来の予定も概ね終えると、その傍らで粥も作り始める。

(あの様子では、暫く何も口にしてはおらぬじゃろうな)

「‥‥はぁ」

とはいえ、ため息は止まらなかった。後悔をしたところで、最早後戻り出来る状況ではないのは理解しているつもりだ。当然、臥せる彼を放り出す気にも到底なれない。

それでも、染み付いた後ろめたさがそうさせるのだ。

沸々と音を立てる鍋に蓋をし、火を止める。
エプロンは付けたまま部屋を後にすると、とある寝室へ向かった。

「‥‥」

静かに障子戸を開ける。つい先程助け出した、男児の寝ている部屋だ。

「まだ、寝ておるか」

窶れた寝顔はしかし、ほんの僅かに安らぎを取り戻しているように思えた。

そんな彼の傍には毛玉達が数匹、寄り添っている。手のひらに収まる大きさのそれが、彼の掛け布団の上に固まって乗っているようだ。

──?

目は開いているあたり、こちらは寝ていないらしい。戸を開けた葭を認めると、彼女を見て首を傾げた。

「‥‥起こしてやるでないぞ。其奴が目を覚ましたら呼ぶのじゃ」

──ウサチャン!

半端に戸を閉め、その場を後にする。
向かった先は、今日寛いでいた縁側だった。
昼頃と同じようにゆっくりと腰掛け、じっと時を待つ。

「‥‥何故、斯様な場所に‥‥」

かの男児がよりにもよってこんな場所にいたのか、甚だ疑問であった。
此処にはどれほどの毛玉がいるのか、いつもと変わらずに境内を跳ね回る彼らを眺めつつ、葭が呟く。

人里から遠く離れている筈の此処に、着の身着のままの子どもが倒れていた。
まず間違いなく、ただならない事情である事までは容易に想像がつく。

「‥‥いや、止そうかの」

すぐさま邪推を振り払う。
待つ間に茶でももう一度淹れようかと考え始めた頃、背後で小さな気配を感じた。それは跳ねながら葭の前へ躍り出たかと思うと、やはり跳ねながら、一声鳴いてみせた。

──ウサチャン!

「ん、起きたか」

ゆっくりと立ち上がり、案内するように先を行く毛玉について行く。半開きの戸を開き、灯りをつけると、そこには上体を起こし、呆けている男児の姿があった。

「具合はどうじゃ?」
「‥‥?」

未だ、状況を飲み込めていないらしい。呆けたままこちらを見つめる彼に問いかけるも、答えは返ってこない。やがて口を開くが、それは答えではなく、問いであった。

「あ、の‥‥ここ、は‥‥?」

掠れた、不安げな声色。無理もない、恐らくは明らかに、彼が直前まで見ていた景色とは違う場所に居るというのもあるだろう。

「ここは‥‥妾の社じゃ。側でお主が倒れておった」
「あ‥‥」

少しずつ理解しだしたのか、言葉に詰まり、俯く男児。それを見つめ続けつつも、葭は問いかけ続けた。

「痛む所は無いか?」
「え、と‥‥いや‥‥」

混乱の残るしどろもどろな答えが返るも、葭はそれ以上の言及はしなかった。

「そうか。‥‥お主、腹は減っておらぬか?その|様《さま》じゃ、飯などろくに口にしておるまい?」
「あ、ぼ、僕、は‥‥」

何かを言いかけ、しかし堪えるように口を噤んだ、その直後だった。

──グル~~‥‥

盛大に、彼の腹の虫が鳴いた。
どういう訳か布団の上にいた毛玉達も転がり落ちてしまう。

「あっ‥‥あの、これは‥‥」
「よい、よい。遠慮するでない、腹が減ったのじゃろう?今、粥を持ってくるでの」

尚も取り繕おうとする彼を遮り、部屋を後にする。暫く開いたままの障子戸を見つめている彼だったが、やがて近くに転がる毛玉達が気になったのか、恐る恐る手を伸ばす。
毛玉達はそれをじっと見つめていた。逃げることもなく、小さく震える手を待った。

やがて、その手がふわふわした感触を覚える。若干の怯えを含んでいた彼の顔も、毛玉達が危なくないと分かったのか和らぐ。その感触を覚えるまま、優しく撫で始めた。
心地よさそうに目を細める毛玉を見て、仲間たちも我先にと彼の手に群がり始めた。

──ウサチャン!
──ウサチャン!

「うわ、わ」

驚きのあまり手を引っこめるが、毛玉達は一斉に彼へ向き、期待の眼差しで見つめる。

「‥‥な、撫でて欲しい‥‥のかな」

再び、恐る恐る手を伸ばす。満遍なく毛玉達を撫でてみると、やはりふわふわした、温かく柔らかい感触が手から伝わってくる。

一頻り撫でると、満足させることが出来たのか、毛玉達が嬉しそうに飛び跳ねる。そのまま部屋を跳ね回った後、開いたままの戸から出ていってしまった。

「彼奴らが気になるか?」
「えっ?」

しかし孤独な時間は来ず、入れ違いの形で鍋を両手で持った葭が入ってきた。

「‥‥あ、え、と‥‥」
「妾にもよく分からぬがの。よい、しょ‥‥」

警戒、怯えの残る男児を余所に、彼の使っている布団の近くに置かれたちゃぶ台に鍋を置き、傍に座る。そのまま、蓋に乗せていた小さめの茶碗と匙を取って蓋を外した。

「口に合うかは分からぬが‥‥それ、粥じゃ」

ふわりと出汁の効いた湯気が鍋から立ち上る。お玉杓子で茶碗にそれを粧い、目の前に差し出す。しかし、彼は困惑したような表情を見せた。

「‥‥」
「どうした?食わぬのか?」
「あ、そ、その‥‥ 」

俯きながら言い淀む男児は、暫しの間を置き、やがて決心がついたように口を開いた。

「‥‥ぼ、僕、お金とか、なくて‥‥」
「金?」

脈絡のない反応に困惑する葭。そんな彼女に、彼はさらに続けた。

「‥‥は、はい。だから、その、お礼も、出来ない、から‥‥」
「‥‥」

ただただ開いた口が塞がらない。まさかそう来るとは思わなかった葭は、目を丸くしていた。

「‥‥はぁ、遠慮せずともよいと言うに。左様な事気にするでない、それよりも冷めてしまうぞ?」
「え?」
「良いから。ほれ」
「あ、は、はい‥‥」

促され、おずおずと茶椀を手に取る。そして、僅かに躊躇した後、観念したのか口元へ持っていく。
一口目を口にし、ゆっくりと咀嚼する。やがてそれを飲み込んだ彼は少し目を輝かせ、葭の顔を伺うように見つめた。その目に対し、葭は柔らかく微笑んで見せる。

「うむ、全てお主のものじゃ。心ゆくまで食べるが良い」
「‥‥!」

途端、彼の瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出した。
ぽろ、ぽろと、大粒の雫が頬を伝い、滑り落ちる。それでも嗚咽を上げることなく、必死になって食べ続ける。

「フフ、あまり急くでないぞ、喉に詰めてしまうでの」

その様子を見て、安堵の笑みを浮かべる葭。それはまるで母が子を慈しむかのような、そんな光景だった。

それから、彼が鍋の粥をほとんど食べきってしまうのに長い時間は要さなかった。
漸く満たされたのか、男児の窶れた顔も生気を取り戻しているように見える。

「どうじゃ、美味かったか」
「‥‥」

少し目元の赤い顔で小さく頷く。

何故、彼がこんな所まで来てしまったかは、相変わらず仔細まで察する事もままならない。

それでもやはり、この顔を見て、彼女は彼を連れてきたことを後悔したくはなかった。あれは無意識で"選んでしまった"事などではなく、自らの望みとして、助けたいと願って選んだ事だと。
その想いは幾年を経ても捨てられないと思い知らされつつも、それで良かったと今は思うことにした。

「うむ、それは良かった。‥‥さて、まだ疲れも抜けておらぬであろう、もう休んでおれ」
「‥‥え、あ‥‥で、でも」
「言うたじゃろう、遠慮はするでない。何故ここまで来たかは知らぬが‥‥何にせよ、ここから人里へ帰るまでにはおそらく日も落ちきろう」
「‥‥」
「心配せずとも取って食いはせぬ。明日、日が昇ってから帰っても遅くはあるまい」

"帰る"と聞いた時に顔が強ばる男児。布団の上に置かれた両手が、強くそれを握った。

「‥‥」

俯く彼を見、間を置いて、葭が尋ねる。

「‥‥帰る場所は、あるのか?」

致命的な事を聞いてしまったのではないか、そんな危機感を度外視して続ける。

「斯様な山中、着の身着のまま行き倒れるなど尋常の事では無かろう。‥‥が、妾から理由は聞かぬ」

応えない彼へ、更に言葉を繋げた。

「もしお主が望むなら、暫くここに居ても良い。無論、居らずとも良い。それはお主が決めよ」

そこまで言った葭は、殆ど空の鍋と食器を持って立つ。俯いたまま動かない男児を見かねたのか、また口を開いた。

「‥‥独りで抱え込む事もあるまい。心の整理が付いたなら‥‥妾に話しても良いのじゃぞ」

そう言って、灯りを消して部屋の外へ出ていった。

一人になった部屋の中。彼は自分の、布団を握る手を見つめていた。次第に震えも止まらなくなってきた小さな、非力な手。
その手をもう片方の手で包んだ時、彼はやっと声を上げた。

「う‥‥あぁ‥‥!」

嗚咽と共に、再び涙が零れる。

「‥‥おとう、さん‥‥おかあさん‥‥!」

その呟きは虚しくも、薄暗闇の部屋に霧散していった。
次へ

powered by 小説執筆ツール「notes」

252 回読まれています