1-3 ヴァカント・フィギュア
あれから数日、鳳子は松本医院に現れるという幽霊について調査を続けていた。病院の廊下や病室、深夜の静まり返った空間で何度も目を凝らしてみたが、結局幽霊に会うことはできなかった。期待と落胆が交互に鳳子の胸を揺さぶる中で、彼女は静かに手掛かりを探し続けた。しかし、その果てに待っていたのは幽霊との遭遇ではなく、別の形の出会いだった。
入院している解決部の先輩、塞翁小虎との対面――これが調査の一つの転機となった。塞翁は鳳子に意識の戻らない少女、卜部麻乃について語った。その話は、鳳子の中に新たな疑念と不安を呼び起こした。塞翁が語るには、彼は迷宮に挑み、解決した後に帰還する際、なぜか迷宮の中にいた卜部を連れ帰ってきたという。しかし、卜部は意識を失ったままで、その原因はわからないままだった。
鳳子がその話を聞いた瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは、掲示板で噂されていた幽霊の姿だった。リボンを頭にたくさんつけた幽霊――その姿は、卜部麻乃の容姿と驚くほど酷似していた。二つの事件が偶然ではないかもしれないと考えた鳳子は、卜部と幽霊に何らかの関係があるのではないかとの仮説を立てた。
卜部の病室にやってきた鳳子は、布団に横たわる卜部の姿をじっと見つめた。彼女の顔には、まるで眠っているかのような穏やかさが漂っていたが、その目が開くことはない。鳳子は、目の前にある卜部の体が、ただ「そこにいる」だけで何も語りかけてこないことに、奇妙な寂しさと焦りを感じた。無言のまま、じっと息を潜めているようなその存在が、何か重大な秘密を抱えている気がしてならなかった。
「この子が幽霊なの……?」
心の中で問いかけながらも、答えは得られない。鳳子はひとつ息を吐き出し、決意を固めた。もし幽霊の正体が卜部麻乃であり、彼女の意識を取り戻せる方法があるのなら、私はそれを知っているかもしれない。掲示板の噂を調べるだけでは足りない――この少女自身に何が起きたのか、それを解明しなければならないと感じた。
鳳子はその夜、静かに病院を後にした。街の灯りが冷たく彼女の背中を照らす中、卜部麻乃の体を慎重に抱え、外へと連れ出した。彼女は何も語らないまま、重い荷物のように鳳子の腕の中に横たわっている。だが、その無言の体には、答えが必ず隠されていると鳳子は信じていた。
「必ず解決してみせます」
鳳子は心の中で静かに誓いを立て、夜の闇に足音を消して進んでいった。
◆
黄昏学園は夏休みに入り、校舎にはほとんど人影がなかった。鳳子は、卜部の体を病院から担ぎ出し、人気のない黄昏学園の中等部へと運んでいた。
鳳子にとって、無人の校舎は自分を守る最も安全な場所であり、卜部の体を調べるには理想的だった。彼女は机をいくつか並べて簡易ベッドを作り、そこに卜部を寝かせた。体の状態を一通りチェックし、外傷がないことを確認する。
「死んでいるわけじゃなさそうなんですよね……」
卜部には息がなく、鼓動も感じられない。しかし、肌は血色よく健康的で、冷たさは一切感じない。一見すると、ただ眠っているだけのようにも見える。鳳子はこの不可解な状態に頭を悩ませた。
鳳子には、オカルトに関するある程度の知識があった。それは、かつて自分にかけられた呪いを解くために、独学で身に付けたものだった。持参してきたオリジナルのオカルト手帳を眺めながら、その知識を頼りに、彼女は卜部の状態に該当しそうな怪異や霊障を思い巡らせた。
「そういえば、卜部さんは迷宮にいたんですよね……」
迷宮は解決されると、その中で起きた出来事は全て無かったことになる。それは死すらも例外ではない。もし卜部が迷宮内で死んだとしても、塞翁が迷宮を解決したのであれば、それも無かったことになるはずだ。
「にみりちゃんは――」
鳳子は何の疑いもなく、その名前を口にした。彼女は、自分を呪っていた存在が今どうなっているのかをふと疑問に思ったのだ。
迷宮から帰還した直後は、夢から醒めたようなぼんやりとした感覚で、何も考える余裕がなかった。しかし、正気に戻った頭は驚くほど冴えていて、一つの真実を思い出させた。あの村の祟りは、正しい方法でしか祓えないということ。つまり、乙咲仁美里という呪いは、解呪されて消え去ったわけではない。
だとすれば、仁美里――即ち擬蟲神は今もどこかにいるのではないか? 世成鳳子という器だけを残して、今もどこかで……。
(原因はわからないけど、卜部さんの中身はどこかに行ってしまったんだわ……)
卜部の状態は呪いではない。しかし、鳳子自身の状況とどこか似ている気がして、彼女はそう結論づけた。
鳳子はしばらく考え込んだ後、深いため息を一つついてから、ポケットからスマホを取り出した。冷えた指先で画面を操作し、今回の事件の発端となった掲示板にアクセスする。画面に表示されたのは、風切とのメッセージのやり取り。淡々とやりとりされた言葉の数々が、スクロールするたびに鳳子の心に小さな安心感をもたらしていた。
風切――彼女は、以前鳳子がヒトガタカイリの依頼を出したときに、お呪いやオカルトに関する知識を教えてくれた人物だ。何度かやりとりするうちに、鳳子は風切に対して不思議な親近感を抱いていた。普段は他人との関わりを避けがちな鳳子だが、風切とのやり取りにはどこか心の安らぎがあった。彼女がどこか自分に似ていると感じたのかもしれない。だからこそ、今回の件で誰かに頼るべきなら、相手は風切しかいないと自然に思えた。
画面に表示されたメッセージをしばらく見つめた後、鳳子は卜部麻乃の異常な状態について風切に協力を仰いだことを思い返した。彼女は快くそれに応じ、さらに偶然にも卜部麻乃を知っているかのような言葉を暗示していた。その言葉が今、鳳子の胸の奥でかすかな希望となり、再び蘇ってくる。
「風切先輩ならきっと……」
鳳子はスマホを見つめながら、ぼんやりと呟いた。スマホを握りしめ、風切へのメッセージを新たに作成した。親指が画面を滑り、慎重に言葉を紡いでいく。その一文字一文字に、彼女の焦りや期待、そして薄れかけた希望が滲み出ていた。
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From:世成鳳子
なるほど。もしかするとなんですけど、この子、魂がどっか迷子になっちゃてるかも知れません。
まるで、中身が空っぽ……な、感じがするんです。
風切先輩、この子のことを知ってるとおっしゃっていましたよね。
もしも可能であれば、迷子になってるこの子の魂を探して連れて来てもらうことはできますか……?
この子を目覚めさせる方法は、一つだけ心当たりがあるので、方法は私にお任せください!
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「これで、とりあえずよしっと」
メッセージの送信ボタンを押すと、鳳子は息を整え、画面をじっと見つめた。少しでも早く、風切からの返信が届くことを祈るかのように。
◆
鳳子は校舎中を歩き回り、手当たり次第に木材を集めた。釘で打ちつけて、卜部の体が収まる大きさの箱を作り上げた。無理やり組み合わせた木片のせいで、その箱は不格好だったが、見た目など気にしていない。儀式にとって重要なのは形ではなく、手順そのものだったからだ。
箱を完成させると、校庭へ向かい、人目につかない場所でスコップを手に取り穴を掘り始める。ここ数日、ほとんど家に帰らず、食事もカップヌードルで済ませていたため体力は限界に近い。それでも、無心でスコップを振り続けた。あの箱が収まるほどの大きな穴を掘るのは容易ではないが、掘り進めることで解決部の活動に熱心でいられる自分を正当化できるような気がしていた。
やがて、儀式の準備はすべて整い、あとは風切の知らせを待つばかりとなった。じっとしていると不安が押し寄せてきて、落ち着かない。鳳子は解決部の掲示板を開き、投稿された書き込みを見直して気を紛らわせることにした。
そのとき、スマホの画面に新着メッセージがポンと表示された。急に心臓が跳ね上がり、手のひらが汗ばんでいるのに気づいた。指先で画面をタップすると、それはまさしく風切からの返信だった。
「……よかった……」
鳳子は小さく息を吐き出し、画面に映る文字をじっくりと読み込む。風切は無事に卜部麻乃を見つけ出すことができたという内容だった。その一文が視界に入ると、鳳子の胸の中で膨らんでいた重い不安が少しずつ和らぎ、代わりにかすかな安心感が広がっていく。
彼女の仮説は間違っていなかったのだ。魂と肉体の両方が存在すれば、死者復活の儀式は完璧に行える。卜部麻乃が如何にして迷宮で魂と肉体が解離したのかはわからないが、それでも彼女は再び意識を取り戻せる。
◆
風切と卜部が手を繋いで、ゆっくりと鳳子の元へとやって来た。夕方の薄暗がりの中でも、霊体である卜部の姿ははっきりと鳳子の目に映っていた。まるで穏やかな午後を散歩する親友同士のような二人の姿に、鳳子は少しだけ胸が温かくなり、心の奥でじんわりと何かが広がるのを感じた。自分の役目が果たされる瞬間が近いという期待と安堵、それに、目の前の二人の絆に対するほのかな羨望。
「遅くなってごめん。麻乃ちゃん連れてきたよ。準備の方は大丈夫そう? なんかできることあったら手伝うけど……」
風切は鳳子に声をかけた。彼女の表情にはどこか緊張が見え隠れしていたが、それでもしっかりとした目つきで鳳子を見ている。鳳子はその言葉に対し、首をゆっくりと横に振った。準備はすでに整っていた。彼女の手は確かに震えていたが、それは決意に満ちた震えだった。
「ありがとうございます! この子が麻乃さんなのですね」
鳳子は霊体である卜部に向かって微笑みかけた。彼女は目の前にいるその姿にどこか懐かしさを感じた。そういえば、掲示板で麻乃の書き込みをいくつか目にしたことがあったような気がする。あの書き込みに漂う無邪気さや愛らしさ――それが今、実際に目の前にいる麻乃と重なっている。実際に会うのは初めてだが、その雰囲気は想像していた通りのもので、彼女の霊体であってもその存在感が確かに伝わってくる。
「これなら問題なく成功させられると思います! 準備は整っておりますので、さっそく取り掛かろうと思います。……もしかしたら、麻乃さんが目覚めるまでに数日かかるかも知れません。無事成功したら、ご連絡いたしますので、お待ち下さい」
鳳子は自信に満ちた声で答えたが、その胸の奥にはまだ不安があった。死者復活の儀式は複雑で、完全に成功するまでには時間がかかることもある。風切は、その言葉を聞いて一瞬考え込むように視線を落としたが、やがて静かにうなずいた。少し不安そうな表情を浮かべながらも、風切は鳳子に麻乃を託してくれた。その信頼が、鳳子の胸をさらに引き締めた。
「任せてください」と鳳子は短く告げた。その言葉には揺るぎない決意が込められていた。風切は微笑んで、少し安心したように見えたが、それでも彼女の瞳の奥にはまだ心配が残っているのがわかる。鳳子はそのまま風切を見送り、風切の背中が見えなくなるまで見つめ続けた。
静けさが辺りに戻ると、鳳子はもう一度深く息を吸い込んだ。これから行う儀式の成否が、すべて自分にかかっているという事実に胸が高鳴った。
「私が必ず目覚めさせます」
鳳子は心の中でそう誓い、再び儀式の準備に集中した。
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